出雲大社の参道を行くと右側に見えてくる「ムスビの御神像」
若き日に修行中だった大国主命の前に、日本海の荒波から「幸魂奇魂」(さきみたまくしみたま)という魂が現れ、「ムスビの大神」―”縁結びの神”になった時の様子を表しているそう。
「大国主命といえば、これ!」・・とゆーくらい、古代史関係の本を読んでると、よくこの像の写真が出てくるので、実物を見た時は、ちょっとした感動だった。
その反対側には「御慈愛の御神像」
有名な「因幡の白うさぎ」の1シーンで、この像の横に
「国譲り 祀られましし 大神の 奇しき御業を 偲びて止まず」
・・と詠まれた皇后の歌碑がある。
出雲大社の祭神・大国主命は、「因幡の白うさぎ」の物語に見られるような、慈愛に満ちた牧歌的な神様・・というのが一般のイメージであろう。
神楽では大国主命を大黒様の面をつけて演じるものもあり、「大国(だいこく)」=「大黒」と通じるコトから大黒天と習合され、七福神の一柱として、我々にも非常になじみの深い神様といえよう。
しかし、神話の中の出雲神は、そんな牧歌的で、ほのぼのとしたイメージばかりではない。
『日本書紀』には、高天原(天上界)の天照大神と高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は孫のニニギノミコトに葦原中国(地上界)の支配を委ねようと下界を覗き込むと、そこには蛍のように怪しく光っている者や、蝿のようにうるさい邪神がおり、高皇産霊尊は「私は葦原中国の邪鬼を払い、平定しようと思う」と、まず、天穂日命(あまのほのひのみこと)を先に遣わすコトにした・・と記されている。
天穂日命は、大国主神を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間、高天原に戻らなかった。
天穂日命は出雲国造家の祖である。
(カテゴリー/歴史・民俗:「神無月と神在月」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/038e4af55697143d7bff8d4cc6bb416d)
―すなわち、天上界の神々が平定しようとした地上界の「邪神」「邪鬼」とは、出雲神に他ならず、葦原中国=出雲なのである。
この後、出雲の「国譲り」神話が展開されていく。
このように記紀神話の1/3を占める出雲には、大きな勢力があったと思われていたが、考古学的な発見に乏しく、大和から見て西北(戌亥)の方角に位置する、単なる観念上の「天皇家の敵」という説もあった。
しかし、近年の考古学上の発見によって、急速に出雲に巨大な勢力が存在していたコトが現実味を帯びるようになっていった。
(カテゴリー/サイエンス:「考古学によって浮上した出雲」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/9f59940740955e91deb3f895eb592caf)
青谷上寺地遺跡や妻木晩田(むきばんだ)遺跡など、出雲のある山陰地方の弥生時代後期の遺跡の特徴は、大量の鉄器が出土しているコト。
弥生時代の最先端地域は北部九州で、朝鮮半島の鉄資源を独占的に入手していたが、ある時期を境に山陰と瀬戸内海に一気に鉄器が流入し、大和朝廷建国直前、大きな力を蓄えるようになった。
(カテゴリー/歴史・民俗:「ヤマタノオロチ」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/c1d178fe558e7a7b020f0284720afcb5)
一方、その時期の大和は鉄が不足しているのだが、3世紀初頭、大和の三輪山の山麓に突如、「宗教」と「政治」に特化した都市が出現、これが近年、邪馬台国か?・・と注目を集める纏向遺跡である。
纏向に誕生し、これ以後、日本各地に伝播した大和建国のシンボル、前方後円墳は、吉備、出雲、北陸、東海地方のそれぞれの要素が取り入れられており、当時、各地にあった諸勢力が集結して作り出した埋葬文化であるコトが既に考古学的にわかっている。
記紀には神武東征神話があり、その神話からは「天皇」が、敵勢力を駆逐して君臨したかのような印象を受けるが、その成立過程からして絶対的な権力をもつ専制君主ではなく、合議によって擁立された象徴的な存在だったのである。
大和が勢力を拡大し、各地に前方後円墳が広まっていく中、出雲はこの埋葬文化を拒絶し、没落していく。
纏向遺跡がある奈良盆地東南部には、大和最大の聖地・三輪山があるが、この三輪山で、丁重に祀られ続けているのが出雲神・大物主神である。
なぜ、丁重に祀られているのか?・・というと、記紀にも記述があるごとく「祟る」からであるが、「祟り」を恐れるのは、祟られる側に何かやましいコトがあるからではあるまいか・・?
ちなみにこの大物主神、数多くある大国主命の別名の1つであるという・・。
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