チェロキーインディアンのおじいさんが語る二匹のオオカミの話
チェロキーインディアンのおじいさんが孫に「人の頭の中で行われている戦い」の話をしました。
「どんな人もみな頭の中で、二匹のオオカミが戦っている。
一匹は悪いオオカミ。
もう一匹は良いオオカミ。
孫は少し考えて、おじいさんに聞きました。
チェロキーインディアンのおじいさんが語る二匹のオオカミの話
「たくさんの手を考えなくて済むようになるのが強くなること」
羽生善治
人工知能は、今やチェスや将棋よりもさらに複雑な囲碁でさえも、人間のチャンピオンに完勝するまでに進歩している。
どのくらい囲碁が複雑かというと、1回の対局で考えられるゲーム展開が、チェスで10の120乗、将棋で10の220乗であるのに対し、囲碁が10の360乗という桁違いな数字になるコトからも分かる。
人工知能は、これまでその計算速度、処理能力によって人間を凌駕してきたが、囲碁の対局で人間をしのぐ人工知能、”アルファ碁”は、人間独自のものと思われてきた”直感”や”ひらめき”といったものさえ備えているのである。
そうした直感やひらめきは、多くの経験の中から育まれる。
いわば、直感力とは経験に裏打ちされた"ひらめき"によって最適解を導き出す力・・と言えよう。
そこで、アルファ碁は開発にあたり、過去に行われた15万局分もの盤面を画像として与え、あらゆるパターンの対局を覚えこませた。
アルファ碁は、様々な石の並びを徹底比較、その中から、各局面で勝ちにつながる展開に共通するパターン(石の並び)を導き出し、それに照らして、次の一手の選択肢を絞り込むようになった。
選択肢のすべてを予測するのではなく、その絞り込んだ選択肢にだけ集中して、次の展開を予測するようになったというワケである。
その結果、これまで1億通り以上の手を計算していたそれまでのチェスの対戦用人工知能に対し、わずか数万手を計算するだけで済むようになったという。
将棋の世界に「長考に良手なし」という言葉があるそうだ。
長く考えて、あれこれ悩んでも、結局、大した手は打てない。
経験によって、ここ!と思う勝負ドコロを見極め、そこに絞り込む。
多くの選択肢に右往左往するのではなく、無駄な考えをなくし、時々刻々と変化する状況の中、その時点で最も有効と思われる選択肢を最短で見いだすのは、経験に裏打ちされた直感力である。
しかし、その直感力を養うには、多くの無駄な選択や失敗を経験する以外にない・・というのも、皮肉な話であるが・・。
私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。
幸せになるためにこの地球にやってきたのです。
ホセ・ムヒカ大統領
最近、話題のウルグアイのホセ・ムヒカ大統領は、世界一”清貧”なリーダーとして知られている。
大統領に与えられる豪華な邸宅は拒否し、郊外の妻所有の農場で、公務の合間に畑仕事と養鶏をして暮らしている。
クレジットカードや銀行口座も持たず、給料の約9割(!)を社会福祉基金に寄付。
個人資産は、友人から贈られた1987年式フォルクスワーゲン・ビートルのみ。
「貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
・・という言葉も、こーゆー人が言うと、説得力があるコトこの上ない・・。
【運が良い人の特徴】
予期後悔をしない
視野が広い
あまり不安を感じない
チャレンジ精神がある
社交的
―「予期後悔」とは、何かを行う前から、失敗して後悔することを想像してしまうコト。
逆に【運が悪い人の特徴】は・・
・自分と他者を比較しがち
・予期後悔をする
・視野が狭い
・慎重な性格
・緊張や不安を感じやすい
・細かいことが気になる(神経質)
・失敗をおそれる
・・何事も考えすぎるのはよくないようだ・・。
はらを立てるより、ゆるす方 がよい
にくむより、愛する方がよい
不平を言うより、感謝する方がよい
ぐちを言うより、喜ぶ方がよい
りきむより、まかせる方がよい
いばっているより、謙虚な方がよい
うそをつくより、正直な方がよい
けんかするより、仲よくする方がよい
―いや、本当に・・。
芸能や武道など、主に伝統的な技芸の練習をするコトを「稽古」という。
なんで「古」という字を使うのかな?・・と思っていたが、この「稽古」とは「古(いにしえ)を稽(かんが)える」というイミだそう。
この技は、どーゆー理屈でかかるのか?
この所作には、どんなイミがあるのか?
どのようにして成り立ち、今に伝わっているのか?
―そんな古人の考えに想いを馳せながら稽古すれば、今に伝わる技術の本質を理解でき、さらに上達するコトは間違いないだろう。
さらに「学ぶ」の語源は「真似ぶ」であるという。
「真に似せる」で「まねぶ」。
勉強するというより、模倣するという意味合いが強い。
伝えられた通りに、そのかたちを模倣していく。
武道の「型」などは、まさしくそのよい例であろう。
そして、その古より伝わるイミを考える・・
この「稽古」と「学ぶ」の繰り返しの過程の中に、己をなくし、考えと行いを合致させていく「知行合一」の修練の方法が集約されていると言えよう。
天皇が考える、忘れてはならないとする4つの日がある。
8月6日、広島に原爆が落とされた日
8月9日、長崎に原爆が落とされた日
8月15日、終戦の日
そして6月23日、沖縄での組織的抵抗が終わった日。
ーこれらはすべて、70年前の1945年、先の戦争での1日を指す。
多くの日本人が犠牲になった日・・。
その死を無駄にしない為にも、その後孫である我々日本人1人1人が、またこの日を忘れず、平和への歩みを努力し続けていかなければならないだろう。
「不測に立ちて無有に遊ぶ」
荘子 応帝王篇
計画を立てなければ、やっていけないという人がいる。
何か事業をはじめるという場合や仕事上のプラン・・というのは無論だろうが、そうした仕事以外でも、5年、10年先を見据えた遠大な人生設計から、旅行や休日の過ごし方、はては今日1日、いかに過ごすかを決めてからでなければ動けない・・という人もいるようだ。
まして、”情報社会”とまで言われている昨今、知りたいコトはネットで簡単に検索でき、どこへ行って何を見、何を食べるか・・調べるのに一歩も外へ出る必要はない・・。
計画を立てるコト自体は素晴らしい。
そもそも、これだけ先行き不透明な時代なだけに、「計画を立てるコトで人生を主体的に生きる!」・・という考え方が、今は主流のようだ。
「何の計画もない」などと言おうものなら、周囲の失笑を買うばかり・・。
未来への計画こそ、自分自身が生きる自由意志の表明・・というワケである。
しかし、「状況」にとらわれない「自由意志」というものが、果たしてあり得るのか?・・というコトについて、脳科学者らがいろいろ研究した結果、どうやら”ない”・・というのが結論だそうだ。
すなわち、自分の自由意志である・・と思っているものは、状況によって選択しているにすぎないのである。
ーしてみると、そうした計画とは、はたして自分が”主体的”に立てたものなのか?・・とゆーコトになる。
主体的に生きる自由意志の発露であるはずの計画が、実は主体的どころか状況に応じて選ばされているにすぎない・・。
たとえば「金持ちになりたい」と、いろいろ事業をはじめるための計画を立てるとする。
しかし、そもそも「金持ちになりたい」というコト自体、金持ちじゃない自分自身の現在の状況から選択しているにすぎない・・とゆーワケである。
・・となると、逆説的ではあるが、臨機応変に、”状況にまかせきる強さ”こそが、最も主体的である・・とゆーコトになろうか・・?
究極の主体性とは”受け身”・・!?
未来を憂えない、予測しない、計画しない・・。
自分の予測を超えた不測の事態は必ず起こる。
人の考えなど、たかが知れている・・。
「人は心に自分の道を考え計る。しかし、その歩みを導く者は主である。」(箴言16:9)
(カテゴリー/人生覚書き:「諸行無常」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/f5f383e158331512e2ac76796a105466)
無計画で、何もない・・一見、ちゃらんぽらんで、主体性のない、流されるままの生き方に見えるかもしれない。
しかし、そうした境地に遊ぶコトが出来る者こそ、真の強さをもっているのだろう・・。