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オペラ歌手、岡村喬生の歌う「昭和の流行歌」

2009年07月22日 15時45分27秒 | ライナーノート(日本クラウン編)
 以下は、1999年7月に、日本クラウンから発売されたCDアルバム『知床旅情/洒落男~岡村喬生、昭和を歌う』のライナーノートとして執筆した原稿です。社会世相の移り変わりをかなり意識して書きました。これも、私が最近クラシック音楽よりも興味深く取り組んでいる「日本の近代世相史と音楽との関わり」への視点が、ベースにあります。曲目解説も、もちろん私のオリジナルです。今、読み返すと、その後の調査で判明したこと、書き加えるべき情報などもありますが、とりあえず、CD発売時のまま掲載します。



■オペラ歌手岡村喬生と、昭和の流行歌

 国際的なオペラ歌手として広く知られる岡村喬生(昭和六年、東京生まれ)が、初めて、〈日本の流行歌〉をうたってレコーディングした。いわゆるクラシック畑でも、歌曲を主なレパートリーとする歌手による〈流行歌〉録音は、これまでにもいくつかあったと思うが、岡村のようにヨーロッパの伝統あるオペラ・ハウスで本格的にオペラに取り組んできた歌手によるこうしたアルバムはめずらしい。
 選曲にあたっては、〈岡村が歌いたいもの〉を唯一のよりどころとして決められたというが、期せずして、昭和という時代を、足早に振り返るものとなった。これらの歌の題名を眺めているだけで、それぞれの時代を懐かしく思われる方も多いと思うが、これはまた、日本に生まれ、一時は新聞記者を目指して早稲田大学に学んだが、音楽家としての活動への夢が芽生え、日本を離れローマ聖チェチリア音楽院に留学、二十歳代の終わり以降、長い滞欧生活を続けて国際的評価を得るに至った岡村の〈日本のうた〉でもある。
 戦前から戦後まもない頃までの歌は、岡村の心の片隅に置かれたまま、岡村とともに海を渡っていったはずだが、昭和三十年代から五十年代の歌が町に流れていた頃、岡村はそのほとんどをヨーロッパで過ごしていた。岡村は、『有楽町で逢いましょう』のレコードも、ローマ留学中に、在ローマ大使の私邸で聞かせてもらったのだという。そうしたことに端的に表れているように、岡村にとって、これらの歌のいくつかは、それぞれの歌が生まれた時に同じ日本の空気を吸って聞いていたのではない。私の勝手な想像だが、曲によっては、オリジナルの歌唱を聞いていないものもあるのではないだろうか?
 このアルバムの魅力は、それぞれの歌のオリジナルの味わいにおもねることなく、オペラ歌手岡村喬生が、自身の音楽観を高々と掲げて聴かせてくれるところにある。思いもかけず大きなドラマを内に秘めて歌われる『誰もいない海』『知床旅情』『北国の春』『芭蕉布』などは岡村ならではの名唱だろう。
 『北帰行』では前田憲男の名アレンジと共に、かつての歌声喫茶の愛唱歌が、まったく姿を変えて歌われる。『雪の降る街を』の独特のテンポによる個性的な歌唱も、前田のアレンジが、その味わいをよく表現している。オペラ歌手としての芝居達者さが最高度に発揮されているのが『洒落男』。ここでも前田のアレンジは、昭和初期モボ・モガ時代を髣髴とさせるワルトトイフェルのワルツの一節を引用したりして、なかなか凝った仕上りだ。
 フォーク系の歌手によって大事に歌い継がれてきた『死んだ男の残したものは』や『さとうきび畑』が、これほどにスケール大きく、激しいドラマ性をみなぎらせて歌い上げられたのを、私は聞いたことがない。岡村の独自の世界が持っている説得力は、一気に聴かせて巨大な深い沈黙を聴く者に残して終える。
 このCDアルバムは、昭和と共に生きた日本の代表的オペラ歌手が、日本人としての自身の心の内に生き続けた〈昭和のはやり歌〉を、彼自身が信じ続けてきたままに歌い上げたものだ。真の意味での〈個性〉が持っている力を、改めて知るアルバムである。

■曲目解説

◎有楽町で逢いましょう
(佐伯孝夫作詞 吉田正作曲)
 昭和三十二年(一九五七年)十一月新譜としてビクターから発売された。雑誌『平凡』に連載されていた同名ラブ・ストーリーの大映による映画化の主題歌としてタイアップ制作された。歌ったのはフランク永井で、彼の代表作となった。
 フランク永井は、朝霞の米軍キャンプのクラブ・シンガー出身で、ビクターにスカウト後ジャズ・ソングを歌っていたが、この年の三月『東京午前三時』で歌謡曲に転向。続いて十月新譜『夜霧の第二国道』とヒットが続いていた。洒落た都会生活への憧れが日本中を蔽っていた時代に生まれたフランク永井の歌は、都会生活を織り込んだ内容にマッチしたあか抜けた歌い方とともに〈都会派歌謡〉のはしりとなり、また〈魅惑の低音〉と讃えられた歌声は、低音ブームの火付け役ともなった。この歌が生まれた翌年、昭和三十三年には、テレビの普及率が、遂に百万台を突破した。

◎誰もいない海
(山口洋子作詞 内藤法美作曲)
 初レコードは昭和四十三年九月にCBSソニーから大木康子の歌で発売されたが、その時は『野火子』という曲のB面だったため、ほとんど話題にならなかった。もっとも作曲はそれ以前に行われており、作曲者の内藤と結婚していた宝塚出身の歌手越路吹雪が気に入ってリサイタルなどで歌っていた。その後、山室英美子、芥川澄夫のデュエットによるトワ・エ・モアがレコードを発売し、昭和四十五年頃には、和製フォーク、グループ・サウンズ全盛期のなかで若者の歌として大ヒットした。このため、トワ・エ・モアの歌と思われているふしもあるが、この時期に越路吹雪もレコーディングしている。

◎上を向いて歩こう
(永六輔作詞 中村八大作曲)
 水原弘が歌って第一回レコード大賞を受賞した『黒い花びら』以来、数年間にわたって数々の斬新な感覚の歌で日本の歌謡曲に新しい息吹を与え続けた作詞作曲コンビの代表作。この時期の中村の作曲には、中村の主宰する工房に無名時代からアルバイトで出入りしていた作曲家武満徹が深く関与していたとも言われるが、六輔・八大のコンビによって世に出た作品が日本の歌謡史に残した影響は大きい。歌唱の坂本九とともに、6・8・9トリオとまで言われた。
 『上を向いて歩こう』はNHKのバラエティ番組『夢であいましょう』の〈今月の歌〉として昭和三十五年(一九六〇年)十月に発表され話題になり、翌年、東芝レコードから発売された。後に『スキヤキ・ソング』のタイトルで全米ヒット・チャートでトップにまで昇りつめ、海外でも百万枚を超すミリオン・セラーとなった。

◎雪の降る街を
(内村直也作詞 中田喜直作曲)
 昭和二十七年度に一年間放送されたラジオドラマ『えり子とともに』は大好評のうちに放送を終えたが、ドラマの挿入歌として、台本作家と作曲担当者によって作られた歌に問い合せが殺到。翌昭和二十八年二月にNHKのラジオ歌謡として再登場、四月新譜として高英男の歌唱でキングレコードから発売されたのが『雪の降る街を』だった。テレビ放送が日本で開始されたのが、この年、昭和二十八年(一九五三年)の二月だったが、国民の大半はまだラジオが日々の生活の娯楽だった。
 高英男は、当時パリから帰国したばかりの唯一の男性シャンソン歌手として話題になっていた。『雪の降る街を』に一ヵ月先立つ三月新譜は名高いシャンソンの名曲『枯葉』だった。オリジナルのSPレコードでは、主人公が雪の街中を歩く場面での挿入曲だったということがことさらによくわかるほど、ゆっくりとリズムを刻む長い間奏が入り、三番の歌詞は歌われていない。

◎知床旅情
(森繁久弥作詞・作曲)
 俳優、森繁久弥が自身の森繁プロ第一回制作映画『地の涯に生きるもの』で北海道に長期ロケをした昭和三十四年(一九五九年)に、即興的に生まれた『オホーツクの舟歌』が元曲。昭和四十年(一九六五年)八月に『知床旅情』と改めて、森繁自身の歌でコロムビアから発売された。
 その後、フォークソング・ブーム時代の四十四年には、加藤登紀子がフォークソング調に歌って空前の大ヒットとなった。

◎酒は涙か溜息か
(高橋掬太郎作詞 古賀政男作曲)
 昭和六年(一九三一年)十月新譜としてコロムビアから発売された。松竹映画『想い出多き女』の主題歌だった。歌唱の藤山一郎は同年七月の『北太平洋横断飛行マーチ』がデビューだが、実質的には、この『酒は……』がデビューと言ってよいだろう。作詞、作曲者は共にこれがデビュー作で、作詞の高橋は当時函館新聞の記者だった。
 これに先立つ昭和三年には時雨音羽作詞中山晋平作曲の『出船の港』が藤原義江の歌で、また野口雨情作詞中山晋平作曲の『波浮の港』が佐藤千夜子の歌でビクターから発売され、晋平ぶしが歌謡界をリードしていた。コロムビアの古賀メロディは、そうした状況に対抗するものとして、新鮮な魅力をもって迎えられた。録音機材の急速な性能向上もあって、藤山の歌唱法も、それまでの声を張り上げるものではなく、ソフトに語りかけるという新しいものだったことが斬新さを倍加した。世の中は不景気が進行し、人身売買や一家心中が話題になり、この年の九月には満州事変が勃発という暗い世相の中での発売だった。

◎北帰行
(宇田博作詞・作曲)
 昭和三十年代の初頭に東京・新宿歌舞伎町の「灯」から始まった〈歌声喫茶〉運動は、またたく間に全国に広がっていった。アコーデオンを弾くリーダーに導かれて、店内の客が歌詞の冊子を手に取り、あるいは肩を組んで合唱することで、当時の多くの学生やサラリーマンが青春を謳歌していた。
 歌声喫茶がピークに達した昭和三十六年(一九六一年)には、歌声喫茶での定番曲のレコードが各社から続々と発売された。この『北帰行』もそのひとつで、歌唱は、ダーク・ダックスと並んで歌声喫茶ファンの人気者だったボニー・ジャックスにより、キングレコードから発売された。作詞作曲は作者が学生時代の昭和十五年に行われているが、その後歌い継がれてきたものが、歌声喫茶運動のなかで結実したと言えるだろう。

◎影を慕いて
(古賀政男作詞・作曲)
 昭和歌謡史に大きな足跡を残した古賀政男は昭和六年(一九三一年)十月に『酒は涙か溜息か』でデビュー、続く十二月に『丘を越えて』が発売され、この『影を慕いて』は翌年、昭和七年三月新譜としてコロムビアから発売された。歌手は前二作と同じく藤山一郎。レコーディングにあたって、伴奏のギターは古賀自身が受け持った。
 古賀の自伝『わが心のうた』によれば、昭和四年に来日したギターの名手アンドレス・セゴビアの演奏会を聴いての興奮が覚め切らないうちに、一気に書き上げられたものだというが、発表までに二年余の年月が経過した。セゴビアの来日公演は、日本の多くのギター関係者に衝撃を与えたと伝えられているが、古賀の場合、それが自身の領域の発見に連なっていったところが幸福だった。まだ二〇歳代の青年だった古賀の原点とも言われる作品。

◎洒落男
(坂井透訳詞)
 原曲はフランク・クラメット、ルー・クラインによるもので、原題は『ゲイ・キャバレロ』。二村定一が日本語訳詞で歌うジャズ・ソングとして昭和五年(一九三〇年)一月にビクターから発売された。
 満州事変が勃発する前年にあたるこの年は、失業者が街にあふれ、不景気が深刻化していたが、その一方で都会ではカフェ、ダンスホールなどが次々にオープンしていた。作家の川端康成が、「東京にただ一つ、舶来モダーンのレビュー専門に旗上げされた」と称えた〈カジノ・フォーリー〉をエノケンが興したのも、この年だ。
 アメリカ製の新作トーキー映画が毎月のように入ってきて、スクリーンを通して海の向うの最新ヒット曲がいち早く聞かれるようになり、小さなカフェやバーに置かれた朝顔型のラッパのついた手巻き蓄音機からもレコードの音楽が流れる。海外のポピュラー音楽が急激に身近かになった時代だった。『洒落男』の訳詞は、そうした時代のモダン生活への憧れを軽妙に描いている。

◎見上げてごらん夜の星を
(永六輔作詞 いずみたく作曲)
 〈日本のミュージカル〉創造に取り憑かれていた、いずみたくと永六輔の情熱が生んだ処女作『見上げてごらん夜の星を』の主題歌。ミュージカルは伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズと橘薫が中心となって昭和三十四年(一九五九年)の夏に大阪労音で初演された。同メンバーで二年後の秋、東京で再演。昭和三十八年(一九六三年)には、坂本九、九重佑三子、ダニー飯田とパラダイス・キングにメンバーが代り大阪、東京で相次いで上演され、シングル盤で先行発売された主題歌が、この年のレコード大賞作曲賞を受賞した。全曲収録のアルバムは、翌三十九年十二月に東芝レコードから発売されている。
 定時制高校を舞台にした青春ドラマで、シングル盤のB面に収録された挿入歌『勉強のチャチャチャ』もヒットした。

◎与作
(七沢公典作詞・作曲)
 昭和四十年頃に放送が開始され、五十年代まで人気のあったNHKのテレビ番組に『あなたのメロディ』というものがあった。全国のアマチュアの作詞作曲家が作品を投稿し、それをプロの歌手が歌って聞かせるというもので、この番組から、いくつか後世に残る流行歌が誕生した。
 昭和二十三年群馬県生まれの七沢にとっても、この『あなたのメロディ』への応募作は、一生の青春の記念となった。『与作』は、テレビ放送時には弦哲也が歌って話題を呼び、昭和五十二年度の最優秀作に選ばれた。翌年、昭和五十三年(一九七八)年に五木ひろし、千昌夫、北島三郎なども加わってのレコード各社による競作となったが、結局、北島三郎によるクラウンレコードから発売されたものが生き残った。今では北島の代表曲のひとつとして完全に定着している。

◎北国の春
(いではく作詞 遠藤実作曲)
 昭和五十二年(一九七七年)二月に千昌夫の歌で、作曲者遠藤実がコロムビアから独立して設立していたミノルフォンレコードから発売された。発売してからしばらくの間は、ほとんど話題にならなかったが、二年後、爆発的なヒットとなってミリオンセラー、国民的愛唱歌となった。70年代の終わり、それは、フォークソングやニュー・ロックのメッセージ性が薄れ、微温的な気分が蔓延してきた時代でもあった。この曲は故郷の温りややすらぎを思い出させ、都会の大学に進学した青年たちのUターン現象とも符合していたが、対象そのものは、もっと幅広かった。

◎青葉城恋歌
(星間船一作詞 さとう宗幸作曲)
 作曲のさとうは、60年代にピークを迎え社会現象にまでなっていた〈歌声喫茶〉のリーダー出身。仙台に在住し、シンガー・ソングライターとして〈杜の詩人〉と呼ばれていた。NHK仙台のFM放送に番組を持っていたが、そこに投稿されてきた詞に作曲して放送したところ大きな反響があり、キングレコードからレコードが全国発売されるに至ったのが、この『青葉城恋歌』。昭和五十三年(一九七八年)のことで、この仙台のベテラン歌手は、その年のレコード大賞新人賞も受賞してしまった。〈地方の時代〉と言われ、青年のUターン現象が話題となっていた時代だった。前年に発売された千昌夫の『北国の春』がじわじわと人気を集め、爆発的にヒットとなったのは、この『青葉城恋歌』発売の翌年だった。

◎芭蕉布
(吉川安一作詞 普久原恒勇作曲)
 沖縄の音楽シーンを絶えずリードし続けてきたマルフク・レコードの二代目代表、普久原恒勇が、大阪から帰郷して創作活動に専念しはじめていた時期に書いた傑作メロディとして広く知られる。
 本土復帰前の沖縄で、地元の琉球ラジオ放送が推進していた〈徹底したふるさと沖縄の賛歌〉という狙いで放送したホームソングのひとつで、昭和四十年(一九六五年)にハワイ二世のクララ新川の歌唱で放送された。「伝統的な沖縄音階を用いながら、沖縄民謡のポップ化を推進してきた」と評される普久原の持ち味が、この初期の作品にも既に凝縮されていると言われている。
 昭和五十三年(一九七八年)の夏にNHKの『名曲アルバム』で紹介され、全国に広く知られるようになった。

◎死んだ男の残したものは
(谷川俊太郎作詞 武満徹作曲)
 昭和四十年(一九六五年)四月二十二日、東京・お茶の水の全電通会館ホールで行われた〈ベトナムの平和を願う市民の集会〉に間に合わせるように作られたと言われている。
 戦後日本を代表する詩人のひとりと、最も国際的な評価の高い作曲家による反戦歌として話題になったが、武満自身は「政治的に歌うのではなく、たとえば『愛染かつら』の歌をうたうように歌ってほしい」といって譜面を渡したと伝えられている。
 谷川の詩集に楽譜付きで掲載されたのが最初で、それを見た森山良子がいち早くレパートリーに取り上げ、昭和四十四年(一九六九年)九月にフィリップスレコード発売の『カレッジ・フォーク・アルバム第二集』にも収録された。同じ時期にフォーク・ゲリラの騎手と言われた高石友也のシングル盤も発売され、その他、多くのフォーク系歌手がこの時期に録音したが、今日に至っても、この曲は当時の時代背景を越えて、武満が望んだとおりに、静かなメッセージを送り続けている。

◎さとうきび畑
(寺島尚彦作詞・作曲)
 多くの合唱曲や歌曲の作曲者として知られる寺島が、沖縄旅行の際に受けた印象をもとに昭和四十二年(一九六七年)に書き上げた作品。初演は新居浜で行われた四国労音の舞台で、歌唱は田代美代子だったというが、このCDでも歌われているように、全曲は10分近い大曲なのでなかなかレコーディングの機会に恵まれなかった。これをフォークソング系の森山良子がコンサートで取り上げ、LPアルバムに収録したのが昭和四十四年九月フィリップスレコード発売の『カレッジ・フォーク・アルバム第二集』だった。その後、歌声喫茶運動から登場した上條恒彦が録音するが、これは半分程度に省略した五分バージョンだった。
 この歌が世代を越えて広く知られるようになったのは、さらに二分半に短縮して昭和五十年(一九七五年)に放送されたNHKの『みんなのうた』だった。この時の放送では、短縮版を理由に森山が断ったためか、ちあきなおみが歌ったが、平成九年(一九九七年)になってのリメイク放送による『みんなのうた』では、五分バージョンで再度、初期からこの歌の普及に力を尽くしていた森山が歌った。森山が主張するように、単純な繰り返しの中から静かに反戦を訴えるこの歌の精神を短縮版で伝えるのは難しいが、シンプルな旋律から浮かびあがる情景は、どのように短縮されようと、一瞬で人々の心をとらえてしまう。


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