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フルトヴェングラー、バイロイトの「第9」異盤

2008年07月25日 16時01分43秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)

 私の「ブログ」は、ブログとは名ばかりで、今のところ、私があちこちに書き散らした文章の「アーカイヴ」となっています。いずれは、もう少しブログらしく、とは思っています。また、以前、公表したいくつかのめずらしい「ディスコグラフィ」も、加筆、再調査して掲載するつもりで、準備を進めていますので、お待ちください。
 ところで、このブログの初日から3日くらいまでをお読みになった方、「あれ?」と思われませんでしたか? 詩誌『孔雀船』に掲載している半年ごとの新譜CD雑感が、4アイテムごとで、それぞれの原稿量も同じなのに、初回のブログだけが3アイテムしかありません。実は、詩誌にはあと1本掲載したのですが、このブログでは、もう少し詳しく検証してから、と思って、掲載を見合わせていたのです。それが、下記に掲載の「フルトヴェングラーの第9」です。
 バイロイトの「第9」の異盤騒動については、いろいろ言われていることは承知していますが、私は、所詮は、「違うテイクだ」とか「編集した継ぎはぎだ」とか言って、ことさらに違いを強調したかった人がいた、ということだと思っています。そして、その後には「だからといって、EMI盤の価値は変わらない」というフォロー発言が出てきたり、と、珍現象ではありました。
 まだ、以前、ストラヴィンスキー自作自演のモスクワ録音のテイクで正体を突き止めた方法で、数小節ごとの詳細比較チェックはしていませんから、私も断定的なことは言えません。でも、以下のことは言えると思っています。

(1)フルトヴェングラーが、ゲネプロと本番とを同じようなアゴーギク、テンポルバートで演奏し、継ぎはぎ編集が可能となるテイクを残せるはずがない。これは、カルロス・クライバーが大みそかと元旦の2つの「ニューイヤー」でもできなかったと言われています。まして、フルトヴェングラーです。
(2)レッグは、音楽の自然な流れを大切にする、演奏芸術の本質への理解の深かったディレクターだったはず。だからこそ、たった30分の曲の録音でさえ、何度も取り直して日数をかけ、本社と大喧嘩してしまい、結局自分のオーケストラを作ってしまったわけです。それに、今と違って、片っぱしから音を繋ぐことは不可能。やったのは、ここぞ、というところだけ、でした。
(3)ドイツ、オーストリア圏では、地元の放送局が最優先。レコード会社は、好きな場所に自由にマイクを立てることはできない。これは今でもそのようで、かの「ウイーン・フィル・ニューイヤー」でも、NHKから流れる音のほうが、その後に発売されるCDより、マイクポジションはいいと思っています。
 私がライナーノートを書いた「96年ニューイヤー」は、詳細に聴いたのでよく覚えています。今だから言えますが、FMラジオをエアチェックして、何度も繰り返し聴いてライナーノートを1月5日に書いて入稿。月末に刷り上げるのに間に合わせましたが、私はBMGの音源は聴かずじまい。なにしろ、直輸入盤として空輸されて日本に到着したのが1月25日頃。それに、私の感想文を印刷した日本語解説文書を封入して2月早々の出荷、という、これが、その当時、コンサートからCD発売まで最速、を記録したときの慌ただしさです。出来上ったCDの音を聴いて、私が解説を書いた音とまるで印象が違い、内声部の動きなど、ほとんど聴こえなくなっているので、これでは、解説を読んだ人が戸惑ってしまうと嘆いたものです。いずれにせよ、今は、ニューイヤーのCDも、そんな離れ業は誰もせず、事前に書かれた予定稿で済ませています。
 話がそれましたが、レコード会社はベストのマイクポジションを取れるとは限らないこと、ポジションの違いで演奏の印象はかなり違うということです。まして、残響の長いバイロイトや、ムジークフェラインでは、アインザッツやアタックの感じまで異なって聞こえるはずです。
 詳細な比較試聴を終えたら、断定的なことが書けると思います。それまでは、一応、下記のようなことでいいのではないでしょうか? 有名な「バイロイトの第9」が、より細部が明瞭に聴ける音質で再登場した、という程度のことだと思います。
 なお、下記の文中の「フルトヴェングラー未完の大器説」は、明日、このブログ上に公開します。


 (詩誌『孔雀船』2008年7月発売号より)

■フルトヴェングラーのバイロイト「第九」が音質を一新!
 二〇世紀の録音記録されたクラシック音楽の中で、「人類が、録音という技術を獲得したことに永遠に感謝するだろう記録」として、「リパッティによるブザンソン告別演奏会」、「サバタ指揮ミラノ・スカラ座によるヴェルディのレクイエム」そして、「フルトヴェングラーによるバイロイトのベートーヴェン第九」を挙げたのは、確かロリン・マゼールだったと思う。だが、あまり言及している音楽評論家諸氏はいないが、この名演中の名演と言われている「第九」録音は、生前にフルトヴェングラー自身の了解を得たものではない。隠し録りなどではなく、EMIが正式にマイクを立てたものだが、指揮していた本人は、もっと冷静な演奏の録音を望んでいたようで、生前には発売許可が得られなかった。
 私は、かつて拙著で、「フルトヴェングラー未完の大器説」を唱え、最晩年の「ルツェルンの第九」が、生前のフルトヴェングラーの到達点なのではないかという考えを述べた。しかし、バイロイトの第九が、人智を超えた瞬間を掴んでいるという意味で、永遠の演奏であることの価値は変わらない。今回のCDの音は、同じ日の同じ場所の録音だが、これまでのEMI録音と異なるマイクセッティングでバイエルン放送局が録音したテイク。生き物のような細部の動きを支える音の動きが、よく聞こえる。そして、だからこそ改めて、この後のルツェルンでの演奏との本質的な差異が明瞭に確認できる。会場の音響特性は、地元の放送局のスタッフの方がよくわかっていたということなのか? 独オルフェオ輸入盤。

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