竹内貴久雄の部屋

文化史家、書籍編集者、盤歴60年のレコードCD収集家・音楽評論家の著作アーカイヴ。ときおり日々の雑感・収集余話を掲載

ラトルの「第九」が発売された頃/五嶋みどりのデビュー20周年アルバム

2009年03月23日 11時24分20秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)






 本日の「ブログ・カテゴリー」の「新譜CD雑感」は、10年以上前から、私が半年ごとに詩誌『孔雀船』に掲載を続けている「新譜CD評」の遡り再掲載です。
 本日は、2003年7月発行号分の再掲載分で、2002年末から2003年初夏くらいまでが対象でしたが、いつものようにCD4点について書くというパターンを守れず、「ラトル~ウィーン・フィル」の「ベートーヴェン交響曲全集」に3コマを割いてしまいました。まだほとんどの人が「ラトル」に関心を持っていなかったころから注目していた私としては、書きとめておきたいことがあったからですが、それはまた、私自身の1980年代からのラトル論を振り返ることでもありました。
 できることなら、先日、21日付けの当ブログなどと、合わせてお読みくださることをお願いいたします。
 なお、『孔雀船』掲載の新譜評でもラトルに触れているものが、このほかに3回ありました。ブログ掲載日は昨年の「8月13日付け」「8月9日付け」「7月18日付け」です。変遷に関心を持っている指揮者のひとりなので、ずっと追いかけているのですね。昨年の初冬に発売された『幻想交響曲』について触れ損なってしまいましたが、「7月18日付け」はベルリン・フィルとの「マーラー/9番」です。ラトルに懐疑的になってしまった私のラトル観が現れています。ベルリンという国際都市は、やはり魔物です。

《詩誌『孔雀船』2003年7月発売号より転載》

■世代交代を決定付けたラトルの「第九」
 戦前からのフルトヴェングラー時代を経て、戦後、紆余曲折の末にカラヤンが長期にわたって君臨していた名門オーケストラ、ベルリン・フィルは、アバド時代という過渡期を終えて、若きサイモン・ラトルが音楽監督に就任した。世代交代は、確実に進んでいる。
 第二次大戦後の音楽演奏は、率直な感情表出への懐疑、屈折した抒情精神、作意的に再構築された感動のドラマ、といった様相を呈していたが、半世紀を経過して、新たな二十一世紀という時代に相応しい演奏が若い世代から生まれてきている、というのが最近の傾向だ。ラトルのベルリン・フィル就任は、中でも象徴的な出来事だと思う。
 実は、私は一九八九年六月の『レコード芸術』誌(音楽之友社)に、当時編集部に所属していたH氏の求めに応じて、ラトルへの賛辞を寄稿しているのだが、その時、H氏が「レコード業界に長くいてレコード・CD評を執筆している方々は、今後どうなるかわからないラトルの特質に戸惑いがあるようで……」と語っていたのを、今でも憶えている。おそらく日本の音楽誌に掲載された物としては、ラトルに関する最初の署名記事だと自負している私の主張は、端的に言えば「ムキになるのはダサイんだよ、おじさん、と言っているような小気味よさ」に真価があるというものだった。
 誤解していただきたくないのは、ここでいう「ムキになっているおじさん」とは、フルトヴェングラーに代表される世代のことではない。第二次大戦後の世代のことである。直接的なラトルの先行世代に対してである。ラトルの演奏は、グイグイと迫ってくる重々しいものではなく、重々しさに意識的に抗うものでもなかった。心地好いビート感とでもいうもので、すいすいと駆け抜けていく自然な爽快感に本領が発揮されていた。
 ラトルは、幼いころ、フルトヴェングラーの演奏をレコードを通して聴き、感動したと語っている。フルトヴェングラーの演奏のベースとなっている時代背景をまったく実感しないところで育った世代が、フルトヴェングラーの「天才的に発露する感情表現」という美質だけをピュアに受けとめ、自分のスタイルで純粋に発信し返そうというのがラトルの演奏の本質だと思っていた。私はそれを、「戦後、屈折してしまった抒情精神が、やがて二十一世紀に相応しい形に姿を変えて復活する予兆」だと感じていたが、それが本格的に実現するためには、ラトル自身が、自分の意のままに動くオーケストラを離れ、内包している音楽が勝手に走り出すほどの、びくともしない伝統を根付かせたオーケストラと向き合うことが必要だと思っていた。そして、そのことは、ラトルほどの才能の持主ならば、とっくに気付いているだろうと思い、いち早くある音楽誌に「ラトルは、いずれ、歴史と伝統のあるオーケストラで、古典的作品に挑戦するだろう」と書いたのだが、その数ヵ月後に、ラトルのベルリン・フィルへの移籍が発表され、ついに、ウィーン・フィルとの「ベートーヴェン交響曲全集」発売となったわけだ。私としては、感慨無量のものがあるが、先行して発売された「第九」(写真)は、正に、私が想像していたとおりのものだった。第一楽章から、その繊細な響きによる内声部のきめこまかな動きのひとつひとつが生き生きしていること、それらが有機的に連なって、淀みなく駆け抜けて行く様に驚かされる。細部を十全に語りながら、直截な力強さで全体を大きく一飲みして語りつくしている。第二楽章の木管群と弦楽とのやりとりの小気味よさ、次第に高まる音楽のうねり、中間部での軽やかで伸びやかなひと繋がりの長い呼吸も快感で、そうした息の長さは第三楽章に至って、さらに昇華してゆく。あくまでも淀みなく滔々と流れていく音楽は、テンポや強弱が、まるで生き物のようにわずかに変化しながら進行し、終楽章へと向かっていくのだ。
 ラトルの本質は、デビュー当時から、少しも変わってはいない。「ムキになって頑張らなくてもいいんだよ。ほら、こんなに音楽は豊かに語ってくれるし、こんなに幸福なんだよ」……と言っているような伸び伸びとした「第九」である。これを、いわゆる古楽器奏法の影響で解説する人は多い。確かにサウンド的にはそう言える部分もあると思う。だが、ラトル自身の音楽性から発せられているものが、その根底にあることを見逃してはならないと思う。私が『レコード芸術』誌に寄稿した際に俎上にあったのはストラヴィンスキーの『春の祭典』だったが、大編成ながら内声部がくっきりと濁りなく聞こえ、自在に伸び縮みするフレージングの陶酔感は、少しも変っていない。ラトルが天性の音楽家であることの証明だ。昨今は「第九を聴いて感動する」ということ自体が懐疑的になってしまっているが、そうした「第九」の19世紀的ロマンティシズムを今日的に軽やかに受け止めているラトルの音楽の原点については、今後も、じっくりと考えてみたいと思っている。

■五嶋みどりの「20周年記念アルバム」
 昨年、わずか十歳の時にアメリカのカーネギー・ホールで衝撃的なデビューを飾り、天才少女ヴァイオリニストと絶賛された五嶋みどりが、昨年、ついにデビュー20周年を迎えた。このCDは、それを記念した「アニヴァーサリー・アルバム」で、日本だけの限定発売だという。
 天才、神童、と言われてデビューした演奏家で、順調に成長していく人は少ないが、特にヴァイオリン奏者に、そうした失速例が多いのは偶然ではないと思う。若い頃(幼い頃)には思う存分に弾き切っていたものが、あるところで分別をわきまえてしまう、といったところだろうか? これはヴァイオリンという楽器の特性にも絡む問題で、あまり軽はずみなことは言えないが、ピアノとは大きく異なっていることだと思っている。感じることと、考えることとのバランスの取り方がむずかしいのだと思う。五嶋みどりは、順調におとなになったと思う。
 現在、彼女ほどに深く確保された息づかいを保ちながら、美音そのものの魅力を存分に発揮できるヴァイオリニストはなかなかいない。是非、お聴きいただきたい。曲目はヴィエニアフスキーの協奏曲第一番のほか、小品が六曲。協奏曲は、全米で放送され好評だった録音の初CD化。小品では特に、ポルディーニの「踊る人形」が魅力的だ。





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