1995年の秋から1998年の春までの約3年間にわたって全100点のCDが発売されたシリーズに《BBC-RADIOクラシックス》というものがあります。これはイギリスのBBC放送局のライブラリーから編成されたもので、曲目構成、演奏者の顔ぶれともに、とても個性的でユニークなシリーズで、各種ディスコグラフィの編者として著名なジョン・ハントが大きく関わった企画でした。私はその日本盤で、全点の演奏についての解説を担当しましたが、それは私にとって、イギリスのある時期の音楽状況をトータル的に考えるという、またとない機会ともなりました。その時の原稿を、ひとつひとつ不定期に当ブログに再掲載していきます。このための新しいカテゴリー『BBC-RADIO(BBCラジオ)クラシックス』も開設しました。
以下に掲載の本日分、第1回は、このシリーズのスタート時に作成された文章です。シリーズの第1期30点を聴いての全体の印象から、このシリーズの特徴や意義などについて書いたプロモーション用の文章です。第1期30点のライナーノートにも繰り返し掲載されました。
少々長文でしたが、このくらいのボリュームがないと表現しきれないという私の考え方を理解して快く承諾してくれたのは、日本盤の制作担当だった日本クラウンのディレクター川村聡氏です。
彼は、このシリーズの解説は、全体をひとりで見通した上で理解され、書かれなければならないと考えていました。今でも、この継続的な大仕事を任せてくれた彼には感謝していますし、その彼の期待に応えた仕事だったという自負もあります。音楽の演奏を、歴史や文化、社会の動きなどの中に置いて読み取ることの面白さを確信するに至った3年間だったと、今では思っています。ここで感じ取ったことは、私の大切な財産のひとつとなっています。
めずらしい曲も多かったこのシリーズで、面倒な曲目解説の日本語訳を、毎回、演奏解説の執筆前に仕上げて送付してくれたのは山田治生氏です。彼にも感謝しています。
なお、このシリーズの終了後しばらくして発売が開始されたのが「BBCレジェンド」というシリーズです。これは、それまでに多くの会社から発売されているビッグネームの人気曲集というありきたりのコンセプトを踏襲したもので、新味のあるものではありませんでした。やはり『BBC-RADIOクラシックス』のようなユニークな企画は、維持するのがむずかしいのでしょう。「BBC-RADIOクラシックス」と「BBCレジェンド」の違いについて詳しく述べた文章を、1999年1月に詩誌『孔雀船』に掲載しましたが、それは当ブログ2009年4月11日付けで再掲載してありますので、ご覧ください。
■《BBC-RADIOクラシックス》を聴く
ヨーロッパ大陸にとって巨大な島国である〈イギリス〉は、西洋音楽史の中で極めて興味深い位置を占めている。例えば、ハイドンの交響曲の後期を彩る一連の傑作群は「ザロモン・セット」と呼ばれるが、ご承知のように、このザロモンという興業師によって大陸を離れてイギリスから依頼されて作曲されたものは、93番以降、104番「ロンドン」に至る12曲に及んでいる。そこでのハイドンが、イギリス人の好みを感じ取る過程で、自らの作風を発展、深化させていったのは衆知の事実だ。
あるいは、メンデルスゾーンに渡英が与えた影響は、「《スコットランド》交響曲」や「序曲《フィンガルの洞窟》」などにとどまらない。また、ドヴォルザークを呼び寄せたロンドン・フィルハーモニー協会(この協会はベートーヴェンに《第9》を依頼したことでも知られる)は、結局彼に交響曲の作曲を依頼したが、これが現在の「第8交響曲」だ。
ドヴォルザークの伝記には、初めてロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで自作を指揮した時の驚きが記されている。ドヴォルザークは郷里クラドノの父親に宛てた手紙で「クラドノの全人口を入れてもアルバート・ホールの座席は埋め尽くせない」と書き、「ボヘミア全土に住む人々を集めても、ロンドンの人口に満たない」と伝えている。
巨大都市ロンドンは、西洋音楽のスポンサー・シップに溢れた一大消費地であり、情報発信基地だったが、それは今世紀になってからも変わらなかった。最近になってやっと日本でも正当な評価がされ始めたチェコの作曲家ヤナーチェクの場合も、いち早くその前衛性に注目し、演奏会を用意して招聘したのは英国人ローザ・ニューマーチであり、第2次大戦での空白の後、ヤナーチェク・リバイバルの口火を切ったのはBBC(英国放送)のキャンペーンだ。その時活躍したのが、今はヤナーチェク演奏の規範として認められている若き日のチャールズ・マッケラスだった。
イギリスが西洋音楽史のなかで果してきた役割の多様さは、とてもこうした短文で書き尽くせるものではない。
ところで、今世紀に入ってから、音楽の鑑賞スタイルに幾つかの変化が現れた。レコードの出現や、放送メディアを通しての音楽鑑賞などは、その好例だが、そこでも、イギリスは世界の指導的な役割を演じ続けてきた。一時期、世界を駆けめぐった二つのレコードの商標「ニッパー犬」と「音符」は、どちらもイギリス生まれであり、BBC放送がそれぞれの時期の〈音楽の現在〉に果した役割は大きかった。イギリスは、作曲家にとどまらず、多くの演奏家も自国に招き、彼らの音楽を聴き、録音し、たくさんのものを吸収してきた。その音楽体験の豊かさ、奥の深さは、長いイギリスの歩みの成果として、計り知れないものがあるはずだが、私たち日本人は、〈本場もの〉にこだわり過ぎるあまり、イギリス系の演奏を軽んじてきたのではないだろうか。
今回《BBC-RADIO・クラシックス》として、一挙に相貌を見せ始めたイギリスでのコンサートの模様は、西洋音楽の中心地から一歩距離を置いた彼らの国〈イギリス〉が、どれほど多くの民族の音楽を自身の内で醸成してきたかが感じとれるとともに、今日、西洋の音楽を〈学習〉によって、曲がりなりにも自らのものとして形成してきた日本人にとって、刺激ある視点が盛り込まれたものとなっている。
イギリス人演奏家の解釈にも、またBBC交響楽団を初めとするイギリスのオーケストラに来演した指揮者の演奏にしても、それぞれの作品のいわゆる〈お国もの〉の演奏とは違った仕上がりが、作品固有の文化的背景と演奏家の個性や鑑賞者の趣向との接し方の点で、演奏史的に興味深いばかりか、最近の一部の演奏に聴かれる奇妙に模範的で無国籍的な演奏を、その陥穽から救い出すヒントをも含んでいるように思われる。なによりうれしいのは、誠実でシャイな英国人たちが、オフィシャルなレコード録音で時折見せるような取り澄ました完璧主義の中で演奏せずに、彼らが愛し、育て、享受してきた様々の国の音楽を、自らのものとして楽しんで、生き生きと演奏している、その華やいだ雰囲気が伝わってくることだ。放送録音ならではの楽しみだ。
また、このシリーズでは、実際のコンサートの記録にとどまらず、可能な限り、1枚のCDとしての整合性を新たに築きあげるようなプログラム・ビルディングが試みられている。1枚1枚のCDが、それこそ一晩のコンサートのように編まれているのだが、録音年が数年にまたがっていたり、指揮者の交替があったり、逆に、同じ指揮者でもオーケストラが変わったりしているが、流れが自然なのは、周到に練られた構成のためだろう。ここには、放送テープとして膨大に残されたものの中から、最良のものだけを最良の状態で聴きたいという、制作者の個々の演奏への愛情のようなものを感じる。安易にめずらしい音源やビッグ・ネームに飛びついて作られたライヴ物とは一線を画して、系統立てて聴いていこうという《BBC-RADIO・クラシックス》の良識が、こうしたところにも現れている。
それぞれの演奏家や著作権継承者に1点ずつ許諾を受けての正規発売にもかかわらず、とりあえず 100点のリリースが決定したという。しばらくは、この《BBC-RADIO・クラシックス》から目が離せない。 (95.6.25)