怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

大高南から大高へ徘徊

2024-02-16 18:49:38 | Weblog
天気もいいし、午後は何も予定がない(基本的にない今日この頃です)ので、JRで使える敬老パスの南の果ての大高南へ行ってきました。と言っても熱田駅から乗ると10分ほどですけどね。
右足を肉離れで痛めてもう10日たったのですが、歩く分には支障がないのですが、走ったりすると足に痛みが走る。これだと再発が怖いのでテニスは無理か。リハビリになるかどうか分からないけど散歩という名の徘徊をします。
南大高駅は新しい駅ですが、一度も利用したことがないので様子を見て大高駅まで歩くことにしました。
さて駅を降りるとイオンの巨大な建物がデッキでつながれている。一応イオンの中も一回りしたのですが、広い!熱田イオンと比べると土地代が安いのか通路など全体にゆったりしていて、映画館も併設されている。テナントも微妙に違っていて、まるは食堂もあるのだがそのためにここまで来るのはどうか。
イオンを出たら西側の道を大高に向けて北上します。
地図も案内板もないのですが、ほぼ一本道で森の里団地の横を通り、中学校や小学校の横を抜けていくと大高城址の表示があったのでそちらへ行ってみるとどうやら搦手みたいで、民家の横を通り城の本丸へ行く道が分かりません。保育園の横を通って道に出てさらに北上。
しばらく行ってそろそろ少し東へ入るかと曲がって行くと何やら趣のある建物が。

玄関の看板を見ると「萬乗酒造」の文字。ここがあの醸し人九平治の醸造所か。小売りをしているのなら買いたいところですがそれはないみたいです。
さらに東へ行くとさりげなく大高城址の案内があります。

その三差路を右へ入っていくと大高城址です。

教育委員会の案内看板もありました。

分かりやすい縄張りとか二の丸跡、本丸跡とかの説明があってもいいかと思うのですが、そんな愛想なしの案内です。
取り合えず入るところにもう少し大きな看板を立ててもいいのではないでしょうか。大河ドラマ「どうする家康」の舞台になったころは結構人が押し掛けてきたと思うのですが、その頃はのぼりでもたっていて分かりやすかったのか?周りは民家が立て込んでいる住宅街で近くに駐車スパースもないので来てもらうと迷惑なだけだったか。
登っていくと本丸跡は平な広いスペースで、東を見るとJRの線路を挟んで丸根砦、鷲津砦があった小高い山がよく見えます。

緑区役所の電波塔の方向の手前の小高い丘が丸根砦跡です。
眼をもう少し北に転じて見えるのが鷲津砦跡。

JR大高駅のすぐ東です。
本当はここにもこれが丸根砦でこれが鷲津砦と言う案内板が欲しいところです。
こうしてみると当時の海岸線はかなり入り込んでいたはずで大高城は岬のようなところに立地していて鳴海城とともに今川方の最前線となっていたことが分かります。織田方によりその最前線の城を押さえこむために指呼の距離で丸根、鷲津の砦を築かれてしまい、城側としては兵站線を確保するために苦労していたのが分かります。その窮地を救うため今川義元は家康に兵糧運び込みを命じたのですが、そう考えると今川方の出陣は大高鳴海LINEの確保が第一目標で上洛と言う大それたものではなかったかも。
今は砦と城の間は民家がぎっしりと建っていて地形がよく分からなくなっていますが、当時は低地で野原だったでしょうから、砦からは道を見下ろして動きは丸見え。守備兵だけではジリ貧になるしかなかったのでしょう。
城跡からは駅を目指して東に歩きます。
大高駅に着いてロータリーを見回すと一応史跡散策路大高城下コースの案内板が設置してありましたが、何とも目立たないし、途中の道にコース案内もない。

見るとJRの線路をくぐって鷲津砦、丸根砦迄コースになっていました。
今度機会があれば天気がいい時に大高駅から鷲津、丸根砦跡を行き、大高緑地公園を抜けて鳴海まで行ってみましょう。




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