怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

秋の関ケ原古戦場徘徊(続)

2022-10-22 20:33:48 | Weblog
笹尾山から山のへりを歩いてきます。
休耕地なのかコスモスとかのお花畑になっていて写真を撮る人があちこちにいます。


少し歩いて山に入っていくと島津義弘の陣跡に。

笹尾山とは徒歩10分ほど。さらにもう少し山のヘリを進むと小西行長とか宇喜多秀家とかの陣跡になるのですが、そこらあたりが福島正則と宇喜多秀家が戦端を開いた開戦地になり、笹尾山麓は最後の決戦地。丁度開戦地と決戦地の間に島津陣跡がある訳で、矢玉飛び交う真っただ中で我関せずとばかりにその場から動かずに様子見するというのもかなり胆力がいると思われますけど、そのまま撤退するとどう評価されたのか。ここは勝敗が決した後にあえて敵中突破したからこその薩摩の評価だったのですが、常人には考えられない判断です。
それでは小西行長陣跡の北天満山から南天満山の宇喜多秀家の陣跡に。

こうして歩いてみると西軍の主力は山を背に中腹に陣を構え、ふもとに柵などを設けて平地に布陣している東軍と対峙しています。
対する東軍は平野に展開してるのですけど、当然ながら西軍が上から攻め寄せる東軍を迎え撃つことが出来るので断然有利に思われます。今は木がうっそうと生い茂って見晴しも悪いのですが、戦時には切り倒して柵を設け見晴しを良くしてあるので東軍の動きは丸わかりです。
ところがそこから大谷吉継の陣跡に行こうとすると谷を越えて行かなくてはならず、ダム湖の上を渡るので自転車は通れず階段は急で足元悪い山道歩きになります。山を登ったところに大谷吉継の墓があるのですが、急坂で息がはずみ足に疲労がたまる。どうしてこんな山の上にと思うのですが、多分敵に追い立てられてのことなんでしょう。

尾根道を下って行くと少し開けた陣跡にたどり着きます。

宇喜多陣とはかなり離れているのですが、これは松尾山に陣取る小早川秀秋に対する抑えの陣か。
少し下ったところにある眺望地からは、小早川の陣取る松尾山が川を挟んで正面に見えます。

もともと松尾山は秀頼出陣の折には本陣とするようにと大規模な整備がされつつあったということを確かNHKの番組で見たような気がします。ところがそこに強引に小早川が陣を敷いたのですが、元々去就をはっきりしないで開戦前から裏切るのではと思われていたので、松尾山に布陣したのは西軍にとって大きな誤算。大谷としては裏切りを計算しての抑えとしての布陣だったのでしょう。事実寡兵ながら小早川の攻撃を懸命に食い止めるのですが、脇坂などにも裏切られて、防ぎきれず崩れてしまい山の上にまで追い立てられて自害となった…義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界、義理に準じた大谷の人気が高いのは肯けます。
陣跡から降りてくると神社があり東海道線の踏切が参道になっている。

結構の傾斜だということが分かりますね。
この谷を挟んだ高低差が小早川に対する防御力を高めているので絶妙な陣形です。
ここからは国道21号線に出ると旧中山道へと続きますが、ひとまずここで切って更に続きます。
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秋の関ケ原古戦場徘徊

2022-10-22 07:49:07 | Weblog
このところ天候が安定して秋晴れのいい日が続いています。
こうなると老いた小人閑居して徘徊する。
ちょっと遠出して関ケ原の古戦場巡りに行きました。
金山を9時22分の大垣行に乗って大垣で乗り換え。実は早めに着いたので予定より1本早い列車に乗ったのですが、これが正解。大垣の乗り換えはホームの反対側に待っているのでなくて跨線橋をまたいで1番線まで行かなくてはいけなかったのに予定した列車は3分しか乗り換え時間がなかった。おかげで走らず余裕で乗り換えできました。
前日古戦場記念館を予約していたのですが関ケ原駅に着いたら案内板が見当たらない。観光交流館の人に聞いたのですが、駅から見えていると言っても初めての人にはわからんだろう。

教えられて歩いて10分もかからずに到着。入場料800円支払って1時間ほど見学。最初に30分ほど映像を見るのですが、これは予約が必要。前日の15時までにネットで出来ます。映像はそれなりに迫力ありましたが、展示内容は複製の鎧とか古文書中心でそれなりに充実していますが、こんなもんと思えばこんなもん。
ところでここ関ヶ原は、東西の決戦の地としてはあまり知られていないのですが壬申の乱の不破の関の戦いがあり、南北朝時代の北畠顕家の青野ヶ原の戦いの場でもあるので、そのコーナーも1室あるといいのではと思います。
展示室を一回り観るとエレベーターで5階に。
5階は展望室になっていて、関ヶ原を東西南北見ることが出来ます。
北の笹尾山の石田三成陣は旗が立っています。

西は小早川秀秋が陣取る松尾山ですがよく分からない。主戦場とは結構離れています。

南を見れば大垣岐阜市街方面です。

東には黒田長政陣跡と岡山の烽火場が見えます。

ここから主に山沿いを歩いて西軍の陣を回ることにしました。
案内板はしっかりあって道に迷うことはありません。舗装された歩道ですが、結構田舎道。
道を歩いているとすぐ横をキジが飛び出してきてびっくり。

最後の決戦地を経由して笹尾山に行きます。

笹尾山にはふもとに物々しい柵が復元されていて、これはなかなか強力な防御。

三成陣跡へはここからのぼって行くのですが、階段を直登していくと汗をかいてしまいます。自転車とか車で回っている人もいたのですが、陣跡には歩いて登るしかなくて私もですが高齢者が多くてみんなひーはーと言っていました。

陣跡には簡易な展望台もあって関ケ原古戦場が一望出来て戦争指揮には最適な場所だと分かります。実際には柵だけでなく結構本格的な防御態勢が取れていたみたいで三成としては短期決戦ではなく長期戦を想定したという説もあったような。それが数々の誤算が重なり遭遇戦のような短期決戦になってしまったとか。逆に言えば家康としては短期で決着したかったし、勝算もあったということか。
それでは笹尾山を下りてのどかな山沿いの道を歩いて行きますが、もう2千字越えた(写真多用ですけど)ので、ここでいったん切って、さらに続きます。

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