カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

聖変化は実体変化ですよ ー 「キリストの聖体」の祝日に想う

2024-06-02 17:52:29 | 神学


 このところ祝祭日が続く。今日は「キリストの聖体」の祝日(B年)だ。基本的にカトリックでの祝日だ(1)。といっても特定の歴史的出来事を祝うというものでもなさそうで、あえて言えば、最後の晩餐、つまり食事に結びつけられる祝日ということらしい(2)。

 神父様はお説教で、主に福音朗読(マルコ14:12~16、22~26)(3)を説明された。今日は初聖体の女の子が一人いてお祝いがあったので(4)、「食事」と「聖体」の説明をされた。だが難しい話だった。

 聖体とはパンと葡萄酒のことだ。聖体拝領でパンをいただくということは、「パンの形で来られるキリストをいただく」ということだ。パン(ホスチア)は文字通りキリストの体で、それを食するということだ。

 これは難しい話だ。ごミサは構造を持っているとはいえ、複雑な構成をもつ典礼だ。なかでも奉献文がミサの中心であり、さらにいえば聖変化の部分が頂点をなす(5)。聖変化とはパンと葡萄酒がキリストの体に変化するということだ。「変化」するとは「実体」が変化するということだ。パンはイエスの体のシンボルだとか、葡萄酒はイエスの血の象徴だ、ということではない。「実体変化」だというのが教義だ(6)。聖変化とは実体変化です、と神父様はおっしゃっておられたようだ(7)。初聖体の子に意味が通じたのだろうか。

 

【菊池大司教のガーナ時代の聖体行列と聖体顕示台】(週刊大司教第169回)

 


1 日本では考えられないが、国の祝日になっている国・地域も多いようだ。「食事」が中心という意味では、仏教国の日本では「お盆」みたいなものかもしれない。聖体はカトリックでの七つの秘跡の一つだが、プロテスタントでは秘跡の意味が異なるので、聖体は入ってこないようだ。
2 定着したのは13世紀以降らしい。それ以前はミサではいろいろな形の典礼があった、たとえば奉献文は定型化されていなかったが、会衆の関心が典礼から聖体そのものへ移っていったということらしい。
3 ここで13~21節はあえて読まれない。ユダの裏切りの予言の話だからだ。
4 初聖体だから、幼児洗礼だとすれば、おそらく小学校2~3年生くらいか。
5 当教会のM神父様は第3奉献文を使われることが多い。奉献文でいえば、聖別の「エピクレーシス」で「聖霊」を呼び求める(「あなたに捧げるこの供え物を 聖霊によって尊いものにしてください」)。そして聖別の祈りが唱えられる(皆、これを取って食べなさい・・・・・皆、これを受けて飲みなさい・・・」)。
6 「実体」とは神学的には人性(体・血・霊魂)と神性のすべてで、通常はトリエント公会議での定式化が用いられるようだ。アリストテレス風のトマス的理解のようだ。キリストはパンと葡萄酒の形をしてそこに「現存」しておられるという説明だ。哲学的には実体とは多様な概念のようだが、カトリックでは存在そのものというよりは、あくまで概念だとされる。パンや葡萄酒の物資としての性質(化学組成など)は変わらなくとも実体は変化すると考える。実体とは概念で、目で見たり触ったりできるものではないからだという説明だ。こういう神学的・哲学的説明より、聖体拝領でいただくご聖体は(パンは)キリストの体そのものだと信じることがキリストの聖体が秘跡だという意味なのであろう。
7 神父様が強く警告しておられたのは、聖体拝領でいただいたパンをそのまま家に持ち帰ってしまう人がいるようだが、それはしてはいけない。その場ですぐに食べなければならない、ということだった。かって口で聖体拝領をしていた頃、侍者はおしゃもじのような聖体皿を顎の下に差し出して、パンがこぼれ落ちるのを防いでいた。両形態で、葡萄酒をこぼしたりすると大変なことになったりしたことを思い出した。パンはパンだ、と言ってしまえばそれまでなのだが、やはり家に持ち帰るものではないだろう。

 

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