カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

み顔を探す霊性 ー カルメル会中川博道師講話(3)

2018-11-05 17:38:33 | 神学


Ⅲ 現代教会のイエス・キリストを探す

[1] 『ラウダート・シ』に見る現代教会の人間理解

 ここでは、『ラウダート・シ』の人間理解に基づくイエス・キリスト観が説明される。
「創世記のなかの創造物語は・・・神との関わり、隣人との関わり、大地との関わりによって、人間の生がなりたっていることを示唆しています」(L.S.66)。
 中川師はこれを次のような図にまとめておられる。

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聖書的観点から見るイエスの生き方の三次元
 A 神とのかかわり :従順 :天の父との交わりを生きるイエス: 「アッパ! (父よ!)」
 B 隣人とのかかわり:貞潔 :隣人への愛を生きるイエス:    他者のために生きるイエス
 C 大地とのかかわり:清貧 :この世界に対して神の愛の創造的な働きかけで関わるイエス
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 従順・貞潔・清貧は言うまでもなく奉献生活者・修道者の「三誓願」だ。師はこの三誓願からイエスの姿を描いていく(注1)。つまり、現代のカトリック教会のイエス理解を説明していく。説明はA,B,C の順番でなされた。

 この説明に入る前に、師は興味深い問いかけをおこなった。「この人がいなければ今の自分はなかった。こういう今の自分を作ってくれた人の名前を5人挙げてください」。黙想会でよく出される問いかけだ。熱心にメモに書き付けていた方もおられたし、呆然としておられる方もおられた(注2)。

A 神とのかかわり

 イエスの日常生活を通しての父との交わりは「祈り」を通してであった。だから我々も祈りを通してイエスとかかわる。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(マタイ6:1-18)。これ見よがしの祈りはダメですよ、ということらしい。師は続いて祈りについてのイエスの教えを説明された(マタイ6:5-15、ルカ11:1-13)。「主の祈り」(主祷文、Pater Noster,Lord's Prayer)である。師の説明は丁寧なものだった。

B 隣人とのかかわり

 イエスは、家族の中で生き、弟子たちの間で生き、そして公生活のなかで生きた。公生活では、社会から疎外された人々、社会の中に居場所を持たない人々の隣人となられた、つまり、売国奴(収税人、兵士)、不道徳な者(姦通の女性、娼婦たち)、疎外された者(ハンセン病患者、目の不自由な人、中風の人、病人)、異端者(サマリア人、異教徒、カナンの女、外国人)、社会的弱者(女性、こども、空腹の人)、などの隣人となられた。こういうイエスの態度が当時のユダヤの体制からは危険視された。

C 大地とのかかわり

 ①差別や争いをはっきりした態度で告発するイエス

 職種、民族、宗教の違いによる差別は、聖書の誤った解釈によって正当化されていたので、イエスはそこを告発した。隣人とそうでない者との差別、ユダヤ人と異教徒の間の差別、聖なる務めと俗なる務めの差別、清浄と不常の差別、時の聖俗の差別(安息日は人のためにある)、場の聖俗の差別。イエスはこういう差別を間違いだと告発した。

 ②社会の柱を揺るがすイエス

 こういうイエスの行動は、当時のユダヤ体制の支柱を揺るがした。支柱とは、安息日の遵守・神殿・断食・祈り・施しのような聖なる務め、清めの儀式の掟、ファリサイ派の正義の実践、モーゼの律法そのもの、などのことで、イエスはこれらを相対化した。
 イエスは自分の努力で、自分の功績で、神に到達しようとする企てを告発し、「私たちは役に立たない僕です」(ルカ17・10)と言わせる。こうして、イエスは、律法の圧政から、律法解釈者の圧政から、知識の名において無学な人々に重荷を負わせる圧政から、人々を解放する(マタイ23・4)。

 ③すべての人が兄弟として生きる世界を示すイエス

 この解放は政治的・軍事的解放ではない。中川師は結論的に次のように言われる。「イエスは、互いに兄弟として生きるように呼びかけ、新しい秩序を提示する。イエスは、神への愛と隣人への愛を一つに合わせ、権力が奉仕として行使されるよう求めます。イエスは、御父のみ旨を成就することにどこまでも忠実で、死に至るまで、祈りのうちに、率直な信頼を御父に表明します」。(注3)


[2] 『喜びに喜べ』の示すイエス・キリストの生き方

 1)真福八端のイエス・キリスト 
「真福八端はキリスト者の身分証のようなものです・・・必要なのは、各人がおのおのの仕方で、イエスが山上の説教でなされたことを行動に移すということです」(63)。

 2)実践への招き
マタイ25:31-46(「お前たちは・・・訪ねてくれたからだ」)は、愛への単なる招きではない。「貧しい人、苦しむ人のなかにおられるキリストに気づきなさいという呼びかけのなかに・・・キリストのみ心が・・・現れている」(96)。

 師はこの『喜びに喜べ』を読むように強く勧めておられた(注4)。『ラウダート・シ』よりは読みやすいのかもしれない。

[3] 「これをわたしの記念として行いなさい」

 ここで師はミサの意味を説明された。「イエスは、2000年の歴史の中で、ミサを通して一人一人に自らを与え、食べさせ、出合おうと」してきたという。神は自らを食べられるものとなられた(注5)。師の結論はこうだ。「わたしたちは、聖体を拝領するたびに、ご自分を引き裂き、食べられる物となって自らを引き裂き、傷みながらも、出合う人々に自らを与えながら生きていくことへと派遣されているのです」。

 以上の講話の後、30分にわたって質疑応答があった。興味深い質問がいくつかあったが、わたしの記憶に残っているのは二つだ。

 第一は、「神父様はハラリの『サピエンス全史』『ホモ・デウス』に言及されたが、AIが支配する時代に宗教は生き残れるのか」。大上段に構えた質問だが、師は教皇フランシスコの言葉を引用してこう言われた。「問題は、何になりたいか、ではなく、何を望んでいるか、です。AIやロボットにそれができるでしょうか」。よい答えだと納得した。

 第二は、「『ラウダート・シ』によれば、地球はもうお終いみたいだ。これでは、何をしても手遅れではないか」というもの。これも答えようがない大質問だが、神父様は静かに答えられた。「教育と霊性です」。カルメル会の神父様らしい答えだとこれも納得した。

 中川師は宇治から直接来られたという。期待に違わず、文化の日にふさわしいよき講話だった。

注1 召命が減って司祭のなり手が少なくなっているとよく言われる。神父様によると、司祭一人あたりの信徒数で言えば日本は多い方だという。信者数はざっと44万人、司祭数はざっと1500人。修道士・修道女は5500人。司祭一人あたりの信徒数は約300人。細かい話は別として、司祭が足らないというより、信徒数が少なすぎる、と言うべきかもしれない。
注2 5人あげるのは多いか、少ないか。両親、先生、友人、神父様 ? そこにイエスさまは入ってくるのだろうか。わたしには5人では少なすぎてイエスさまの名前の席はない。が、どなたにも不義理でなんの恩返しもできなかったことをいつも悔いている。イエスさまの名前はそこに出てくる。
注3 こういうイエスの描き方、解放者としてのイエスの強調は、中川師の特徴のように思える。
注4 『喜びに喜べー現代世界における聖性』 教皇フランシスコの使徒的勧告 この10月にやっと日本語訳がでたという。Kindle版もあるらしい。全5章だが、第3章は「師なるかたに照らされて(時流に抗う優れた基準)」となっている。
注5 こういう言説がキリスト教の理解を難しくさせているのだろう。日本文化がこの言説を自分のものにするにはもう少し時間が必要かもしれない。

 

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