カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

イスラームの豆知識

2017-05-14 22:27:31 | 神学

 2017年5月14日に教会壮年会主催の講演会がありました。テーマはイスラームについてでした。カトリックから見たイスラームということになりますから興味深い報告でした。報告者は現役時代に中東に10年近く駐在員として住まわれた方で、生活感あふれる報告でした。全身にムスリムの真っ白な男性衣装(UAEだからカンドウーラと頭にかぶるクゥトラ)をきちんと着こなされ、かなり力に入った講演でした。ご本人は「豆知識」と謙遜しておられましたが、キリスト教とイスラームはどこが同じなのか、どこが違うのか、日本社会はムスリムにどう対応していったら良いのか、など極めて今日的なテーマですので、報告を少しまとめておきたいと思います。

1 イスラームとは
 イスラームとは「唯一の神アラーに絶対的に服従すること」の意で、アラブの預言者ムハッマド(570~632)が創立した一神教のこと。信者をムスリム、神殿をモスクという。(昔はマホメッドと呼んでいたがこれはトルコ語。ムハッマドはアラビア語)。ムハッマドは610年から632年まで22年間活動した。28年頃30代の青年として突然現われ、わずか数年で(2年ほどで?)処刑されたイエスと比べるとその活動期間は長い。イスラームは、ユダヤ教、キリスト教の影響が大きいが、後発の宗教であるだけに神学的にはかなり整理されているという。イスラームとキリスト教はともに復活を信じ、最後の審判を信じるが、イスラームは三位一体説は非合理的だとしてをとらない。ユダヤ教は復活説も三位一体説もとらない。イスラームは教会を持たないので司祭はいない。ウンマ(政教一致の共同体)は教会ではない。カリフは預言者の代理人であり、やがて宗教的指導者というより政治的指導者に代わっていく。現在、カリフがいるのか、誰がカリフか、などは今日の過激的テロ集団ISの評価にも関わる未解決の問題のようである。「法源」の解釈者として法学者がいる。シャリア法はいわば六法みたいなものらしく、ヨーロッパ型の(キリスト教型の)法の支配論や三権分立論では説明できないようだ。法源と解釈の違いにより多くの学派が生まれ、スンニ派・シーア派(12イマーム派)などの名前は現代日本でもなじみ深い。ウンマを導くのは誰なのか、イマーム論が教義の中心になるようだ。シーア派を分派・異端と見なすのかどうかは、アラブとイランの対立という今日の政治対立にも関係しているようだ。預言者・祭司・律法学者の区別は聖書を読むとき大事だが、預言者論で言えば、イスラームではアブラハムもモーセもイエスも預言者の一人で、ムハッマドは最後の預言者とされる。

2 コーラン(アル・クルアーン)とは
 コーランとはイスラームの根本聖典。ムハッマドが610年から632年までの間に大天使ガブリエルから受けた啓示を人々が記憶し、後に収録されたもの。全11章(スーラ)で、新約聖書よりは長く、旧約聖書よりは短い。(井筒俊彦訳 全3巻 岩波文庫 1964)。アラビア語で書かれ、翻訳は不可で、翻訳は参考文献扱いという(アラビア語を解さないインドネシア、マレーシアなどアジアのムスリムはどうしているのだろう? そういえばわれわれカトリックも第二バチカン公会議以前はお祈りをラテン語で-意味もわからずにー唱えていた)。ムハッマド自身は文盲だったといわれ、自身で書いた文章はない。イエスも、読み書きはできたが、自分では書いたものを残していない。コーランの主な内容としては、神の観念、天地創造、アダム、楽園追放、人類の歴史と神の支配、終末(死者の復活と審判)、天国、地獄、預言者、など信仰に関するもの。さらに、実生活に関するもの(シャリア法)として、礼拝、断食、巡礼、タブー、道徳、礼儀作法、婚姻、離婚、扶養、相続、売買、刑罰、聖戦などがある。長い章と短い章が混在するが、基本的に「神の命令」が書かれており、新約聖書が「福音」中心であるのと対照的である。

3 六信五行とは
 イスラームの教義である。六信五行は大学入試の定番問題で、日本でもよく知られている。六信とは、アラー・天使・啓典・預言者・来世・予定のことで、イスラーム神学の対象だ。五行とはシャリアの世界で、①信仰告白 ②礼拝(サラート) ③喜捨(ザカート) ④断食(サウム) ⑤巡礼(ハッジ)のこと。信心行としてはキリスト教と同じだが、その徹底ぶりはクリスチャンの比ではない。報告者はこの六信五行を具体例を挙げながら詳しく説明され、どれも興味深いものであった。

4 イスラーム法(シャリア)とは
 シャリアとは、聖典クルアーンなどの法源にもとづいて法学者たちが組み立てた法のことという。ヨーロッパ的法概念でいえば、法律は人間が作るもの(議会での立法など)であるが、イスラームでは法律は神が作ったもので、人間が勝手に作ったり変えたりできない。具体的解釈や実施方法は法学者の仕事となる。「法源」はクルアーンに次いで、伝承(スンナ)、イジュマー、キャースが主なものらしい。報告者は具体例として、タブー(ハラーム)と婚姻を紹介・説明された。タブーは、殺人(自殺を含む)、傷害(同害同復)、姦通、中傷、飲酒、窃盗、豚肉、死肉、利子があり、厳しい掟だという。婚姻は男子は4人まで妻帯可だが、これは未亡人と孤児対策だったらしいが、現在は経済的豊かさのシンボルに化しているという。また、女性は非イスラムとの結婚は不可で、男子はユダヤ教・キリスト教の女性となら可だという。結婚は契約事項で、結納金は結婚保証や離婚保険として額が最重要だという。また、聖戦(ジハード)についても説明された。戦死者は殉教者として天国へ直行するが、遺族は手厚く保護されることになっているからジハードが無くなることはないだろうという。

 イスラームの教えは結局は「神の唯一性」に帰着し、これはキリスト教の三位一体説への明確な対抗意識の産物だという。イスラームに比較的好意的な報告者もカトリックとしてここだけは譲れない信仰告白のように聞こえた。
 この報告を聞いてすぐに思い出したのは、M.ウエーバーの宗教社会学におけるイスラーム論だ(武藤一雄他訳『宗教社会学』「経済と社会」1927第二部第五章 創文社1976)。ウエーバーはユダヤ教、カトリック、ピューリタン、原始仏教、儒教、道教、イスラム教などを相互に比較しながら、イスラームの「現世順応性」を強調した。それは原始仏教がもっていた「現世逃避性」とは対照的だ(原始仏教は、チベット・中国・日本で民間宗教・自然宗教の影響で姿を変えてしまった現在の仏教とは区別される)。イスラームは戦士宗教だし、倫理的救済概念を持たず、優れて封建的な罪概念を持っている。ウエーバーは言う。「イスラム教はいくつかの決定的な点において、ユダヤ教とキリスト教に近づくことはなかったのである。というのも、ユダヤ教とキリスト教がまったく独特な市民的・都市的宗教性をもっていたのに対して、イスラム教にとっては都市はただ政治的意味をもつにすぎなかった・・・ユダヤ教と対比してみるなら、ここには包括的な法律知識への要求と、ユダヤ教の合理主義を育てたあの決疑論的思考様式が欠如している。文人ではなく、武人こそがこの宗教性の理想である。」(325-6頁)。世界規模で見れば、キリスト教徒の数とイスラム教徒の数が逆転する日が遠からず来るという。その前にイスラームに「宗教改革」の日が訪れるのだろうか。イスラームのルターが生まれる日が来るのだろうか。

 

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