カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

「父と同一本質」「聖書にしたがって復活し」(神学講座その7)

2017-05-02 14:08:28 | 神学

 2017年5月1日の神学講座は晴天に恵まれましたが、5月連休のまっただ中のせいでしょうか、参加者は少なめでした。今回はベネディクト16世著 里野泰昭訳『イエス・キリストの神』(2011)の第2章第3節「父と同一本質」および第4節「聖書にしたがって復活し」の2節が説明されました。
 第3節は、1975年のニカイア公会議1650年記念式典における講演で、H神父様によると「文章のトーンがこれまでと全く異なる」とのことです。繰り返しの表現や無駄な表現が多いという。第4節はバイエルン放送局からの復活祭のための講話のようだ。第3節は三位一体論、第4節は復活論だから、カトリック神学の中で最も難解なテーマだが、ともにラッチンガーは難しい議論をさけて、わかりやすく話している。神父様も、ちょうど前日が復活節第三主日で、第一朗読で使徒言行録2・22-33が読まれたこともあり、「聖書と典礼」をそのまま配られた。また、参考資料として1コリント15-18とルカ24-27のギリシャ語聖書とラテン語聖書のコピーも配られ、「現れる(顕われる)」という言葉の意味を説明された。そのうえ、イザヤ書53章のコピーを配られ、一緒に読み、味わった。講演記録ということもありラッチンガーの両節は短い文章であったため(11頁と13頁)、神父様は丁寧に説明された。テーマがテーマなので良く準備された説明であった。

第3節「父と同一本質」
 父と同一本質とはホモウーシオスのことである。信仰宣言(ニケア・コンスタンチノープル信条、使徒信条)にあるこの言葉はイエスの「神性」を表している。イエスとは誰だったのか。昨今のキリスト論はイエスの人性を強調する、人間イエスを強調する傾向が強いので、ラッチンガーをそれを批判的に吟味する。
 H神父様は初めに興味深いことを言われた。このテーマは三位一体論のことだが、最近教会はこの言葉を使いたがらなくなってきている。理由はいろいろあるだろうが、特にペルソナ概念があまりに哲学的すぎるからではないか。「三一論」という言い方が多いという。これはわたしには驚きであった。わたしの勉強不足のせいか、三一論という言い方はプロテスタント神学での言い回しで、カトリックは三位一体論と表現する(と訳している、英語はTrinity, ラテン語はTrinitas)と思っていた。これもエキュメニズムの一つの表れなのかもしれない。
 さて、ホモウーシオスのことである。この概念はアレイオス主義の誘惑(従属説という異端)に対抗して形成されてきた。アレイオス主義は現在では異端説と見なされているとはいえ、当時もいまも一定の支持をひきつける思想である。言(ロゴス)は被造物であり、神と同一本質ではあり得ないというこの主張は、その内部に従属説や類似説など多様な説があるようだが、現在でもわかりやすいとして納得する人もいるようだ。だが、子は父に従属するのではなく、イエスは父と同一本質という考え方は、公会議の繰り返しの中で成立してきた教義である。つまり、正統な教理がまずあって、それに対抗するものとして異端説が生まれる、というものではない。さまざまな説が拮抗対立する中からある教理が受け入れられていき、教義として確立してくる、と考えられるというわけだ。教義はミラノ勅令(寛容令 313年)から数百年にわたる歴史の中で作られてきたものであり、正統と異端というものがもとからあるわけではない。
 ラッチンガーはホモウーシオスをなにか哲学の問題として論じることを批判する。むしろ、「哲学者のようにではなく、漁師のように」理解すべきだという。漁師とは使徒たちのことだ。漁師の問いとは、イエスとは誰だったのか、というものだ。イエスは人間だった。また神であった。神が人間になるとはどういうことなのか。人間が神になるのではない。神が人間になるとはどういうことなのか。こういう問いの仕方は、自然宗教(自然発生的な宗教意識のこと 阿部利麿『日本精神史ー自然宗教の逆襲』2017)にどっぷりとつかっている現代日本では決して出てこない。伊勢神宮には神様がお祀りされている、菅原道真は学問の神様だ、などという言説に何の違和感も抱かない現代日本人には、普遍宗教(創唱宗教 救済宗教)がいう神の概念は把握困難なので、神が人間になる、などということは問いとして浮かんでこないのではないか。
 ラッチンガーは自然宗教ではなく、K・ヤスパース(1883-1969)をとりあげて過度なイエス人間論を批判する。無神論という意味では自然宗教も実存主義も同じだろう。ヤスパースをハイデッガーとならぶドイツの実存主義哲学者としてとらえるラッチンガーは、彼をある程度肯定的に評価しながらも、結論的にはイエスを「人生の指針について何も与えることのない例外的存在」としか見なしていないと批判する。この場合の実存主義とは、少なくとも「人間の場合」には、「実存」(existence)が「本質」(essence)に先行するという意味に理解しておこう(『岩波哲学・思想事典』)。つまり、神が人間になったということ、イエスが「子」であるということ、をヤスパースはついに受け入れられなかったという意味であろう。
 ラッチンガーは言う。「ホモウーシオス(同一本質)という言葉はニカイア公会議の教父たちの理解では、単純に「子」という象徴言語を概念へと翻訳したものであったのです」(110頁)。ホモウーシオスとは哲学者の答えだった。漁師の答えではなかった。漁師たちはイエスは「子」であると聖書の言葉通りの意味で理解した。ホモウーシオスは「哲学者のようにではなく、漁師のように」理解せよ、というのがラッチンガーの主張のようだ。
 神父様は最後に興味深いことをいくつか言われた。確かにこういうラッチンガーの説明は、キリスト教信者向けで、信仰を持たない人には議論のフォローが難しいのではないか。また、漁師たちにとって、「イエスをとおして神を見る」ということはそれまで考えたこともない革新的なものの見方だったのではないか。人間はみな神の前では平等だとか、人類はみな兄弟だとかいうよく聞く言説は、イエスを「子」として見ない限り無内容になってしまうと言われた。どれも考えさせられる指摘であった。

第4節「聖書にしたがって復活し」
 復活論は翻訳による内容の改変などさまざまな角度から議論されているが、ラッチンガーは復活論の中核的テーマは、聖書のテキストに戻るならば、二つの伝承形式があることを区別することだという。伝統的には復活論の思想的背景として、ギリシャ的な霊魂(プシュケー)の不滅説およびヘブライズム的な肉体の復活説が指摘されてきたが、ラッチンガーは「復活」と「出現」の区別こそ最も重要だという。「復活」と「蘇生」の区別すらつかない日本文化の文脈ではラッチンガーのこの義論は少し丁寧な説明が必要である。
 ラッチンガーによると、新約聖書における復活の伝承には二つのタイプがあるという。一つは「信仰告白の伝承」と呼ばれ、中心的にはパウロの書簡に見られる。もう一つは「物語伝承」と呼ばれ、4福音書に書かれている復活の物語だという。ではこの二つはどう異なるのか。両者は、「それぞれ非常に異なった問題意識と、それぞれに異なった意図と目的を持っています。その結果、その主張の種類は異なって」(115頁)いるという。物語形式の伝承は、復活がどのように起きたかを記しているが、結局は「信仰を擁護する」、教会を守る、という目的のために書かれている。他方、信仰形式の伝承は信仰そのものを描いている。キリスト教は結局なにを信じているのか。それはこちらの形式の伝承にこそよりはっきり記されている。ラッチンガーの解説は当然こちらに集中する。
 信仰形式の伝承の典型例としてコリント人への第一の手紙の15章3~8節があげられる。

           キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
           葬られたこと、
           また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
           ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。(新共同訳)

 この文章は、この信仰告白がすでに30年代にパレスチナの地で成立していたことを示しており、パウロはそれを後代に伝えてくれたわけだ。ラッチンガーはこの文章を丁寧に解説していく。パウロの信仰宣言はイエスの死をもって始まる。「かれは死んだ」と書いている。なんと簡潔な、ラッチンガー風に言えばなんと「単純直截なテキスト」なことだろう。このシンプルな事実報告にパウロは二つの補足を付け加える。一つは「聖書に書いてあるとおり」であり、もう一つは「わたしたちの罪のために」という補足だ。聖書に従ってとはイエスの死はなにか偶然の出来事ではなく、聖書の言葉の成就だということを示している。また、罪のためとはイエスの死が預言者の言葉にかかわっていることを示している。ここで、イザヤ書53・7-11が詳しく説明されるが、ここで触れる余裕はない。
 聖書はつぎに突然「彼は埋葬された(イエスは葬られた)」と続ける。ラッチんがーはここで「墓」の話に入る。パウロは、福音書とは異なり、空の墓については何も語らない。かれはイエスがそこに「置かれた」ということを重視する。つまり、「墓から復活する(墓から立ち上がるとか)」などという理解はパウロにはなかったという。パウロにとり復活とは蘇生とか、「臨床的な死の克服」のことではないからだ。次に「復活者の出現」についてラッチンガーは説明していく。「出現」とは英語ではAPPARITIONで、復活はSSURECTIONで別の言葉だ。日本語訳でも「現れた」となっているが、神父様は、1コリント15-5では ラテン語では visus est であり、ルカ24-34では apparuit であり、ギリシャ語でも異なる単語が使われ、意味が異なることを丁寧に説明された。ギリシャ語の意味は「かれは自らを見せた」という意味だという。
 つまりイエスを見ることができるのは、イエス自らが姿を見せた者だけということになる。出現は幻視とは異なることは当然だが、イエスを見るためには、こちらに「内的に開かれた心が、内的に開かれた精神が必要なのです」(122頁)という。神父さまは、信仰を持った人のみがイエスを「見る」ことができるというのなら、私たちの特権みたいですね、と笑っておられた。「見る」という行為の複雑性のことを言っておられたのであろう。この出現論の説明は、社会学的に言えば少しく機能主義的に聞こえなくもないが、神父様らしい冗談ではあった。ラッチンガーは言う。出現は復活ではなく、その「反照」にすぎない。だが、出現は見ることができる人にしか起こらない。それは、イエスは、死から生き返ったもの、蘇生した者として生きているのではなく、「これらの次元を超えた神の力によって生きている」、「死の力が克服され」、「神の力が働いた」ことを意味しているからだという。これはこれであまりはっきりしない説明だが、それは三位一体の「聖霊」が説明されていないからであろう。聖霊は次章のテーマである。

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