カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

パウロがキリスト教を作ったのか ー 神学講座2020(2)

2020-01-19 21:59:14 | 神学

 第1章はパウロである。「パウロ ー キリスト教の世界宗教への夜明けー」と題されている。本章の論点は多岐にわたるが、ポイントは、パウロがキリスト教の本来的な創始者だという例のニーチェ的言説を批判し、キリスト教をユダヤ教から切り離したのはパウロではない、それはエルサレムの第二神殿の破壊(紀元70年)後の他の人々であった、と主張している点だ。パウロは、ファリサイ主義は放棄したが、キリスト教徒としてユダヤ教を放棄したのではない、という。キュンクは、ユダヤ教徒としてのパウロ神学を強調するがゆえに、カトリック教会の職階制、教皇首位性、教皇無謬性を批判的にみているようだ(51頁)。

 

 

Ⅰ キリスト教徒とユダヤ教徒の間で最も争点となる人物

 キュンクはまずパウロを「使徒」と呼んでいる。ユダヤ教にとり「背教者」、キリスト教にとり「使徒」、という位置づけだ。パウロが争点の中心になるのは、パウロの「回心」事件だ。パウロはイエスを知らない。直接の弟子でもない。むしろキリスト教徒(そういう呼び方あったかどうかわからない。パウロは「聖なる者」と呼んでいる コリント1:2)の迫害者だった。だがやがて回心後ペテロたちと話し合うことを通して、生きたイエスの姿と教えを知ったのであろう。

Ⅱ 生の方向転換ー時代の方向転換

 だがパウロは回心した。この回心がなぜ起こったのか。いろいろな説明があるのだろうが、結局は「啓示」だったのだろう。パウロ自身にとっては、「回心」というよりは、むしろ「使徒への召命」、しかも「異邦人伝道への召命」だった(21頁)という。
 パウロの回心は世界史的意味を持っている。「時代の方向転換」を引き起こした。キリスト教の最初の「パラダイム変換」を引き起こした。「ユダヤ人キリスト教からヘレニズム的な異邦人キリスト教への転換」を開始したのだという。もはや、ユダヤ教的な割礼とか、食物規制とか、安息日規制を守らなくとも「神」に近づくことが出来るようになった。「律法から福音へ」というとなにかスローガン的になるが、パウロの回心によってキリスト教は変わり、西欧世界に巨大な変革をもたらした。
Ⅲ イエスに関心は無い?

 ではパウロのこのイエス理解は正しかったのか。それともパウロが理解したイエスは、イエス自身が望んでいたものではなかったのか。
 パウロはイエスの「死」よりも「十字架」を重視する。また、「肉によるキリスト」よりも「霊によるキリスト」を重視する。パウロは性格的にも激しい人だったようだ。かれは、律法か福音か、とか、信仰か行為か、とかを論ずる「神学者」ではなかった。かれは「伝道者」だった。

Ⅳ パウロをイエスに結びつけるもの

 パウロの伝道活動は初期キリスト教に革命的な変化を引き起こした。パウロは自分を「使徒」だと自認していた(1)。自分はイエスに「結びついている」と言っている。キュンクはパウロの宣教活動のキーワードとして以下の七つあげている。神の国・罪・回心・啓示・普遍主義・義認・愛 の七つである。これらはパウロの13の書簡(2)をつらぬくキーワードだという。おのおのについて簡単な説明がなされている。

神の国:パウロは神の国は「すぐに」来るとユダヤ人と同じように考えていた イエスはもっと将来に眼を向けていた
罪:パウロは人間の罪深さから出発する それはアウグスティヌスのような原罪観ではない アダムとイブを対置して考えていた
回心:パウロはイエスの「死」よりも「「キリストの十字架」を重視する 
啓示:「イエスの暗黙的・事実的なキリスト論」から「教会のキリスト論」を成立させた
普遍主義:イエスのイスラエル普遍主義(そして潜在的な異邦人世界普遍主義)からイスラエルと異邦人の両方に関する普遍主義を発展させた
義認:義認は律法のわざに根拠があるのではなく、神への無条件の信頼(信仰)に基づく
愛:神を愛することと隣人を愛することは律法の事実的な実現であり、十字架の愛である

 パウロが自分を使徒だと自認するがゆえに出てきた主張なのであろう。

Ⅴ 同じ事柄
 
 パウロは、手紙から見れば、激しやすい性格で、皮肉好きだし、ひとを嘲笑する。敵も多かったであろう。だがかれは、新しいセクトを作ったわけではないし、なにか新しい宗教を創ったわけでもない。かれは一つの事柄しか主張しなかった。それは「イエス・キリストの事柄」だという。つまり、「イエス・キリストの光の下で徹底化された神理解」(33頁)だという。これが、パウロがユダヤ教の内部でなにか別のパラダイムを求めるというよりは、ユダヤ教とは別の宗教を求めさせた理由だという。

Ⅵ パウロはユダヤ教の律法に対立していたか?

 パウロの律法問題は現在でもキリスト教徒とユダヤ教の対立の源のようだ。キュンクは、パウロはルター的な対立図式「律法か福音か」をとっていないという。パウロは「トーラー」という言葉(ヘブライ語)を使っておらず、かわりに「ノモス」という言葉(ギリシャ語)を使って「法」(ハラハー)を意味していたという。パウロは律法を否定しているのではないという。

Ⅶ トーラーはなおも有効

 キュンクのルター派神学批判は厳しい。パウロを、キリスト教の図式(律法と福音)で読むのも、ユダヤ教の図式(律法の廃棄)で読むのも間違いだという。パウロにとって律法はトーラーのこと、モーゼ5書のことを意味していたという。パウロが批判したのは律法そのものではなく、律法の「わざ」、つまり、律法による「義」だったという。では、パウロの言葉としてあまりにも有名な「律法からの自由」とはどういうことなのか。

Ⅷ 原始教会で最も有名な争い

 それはいうまでもなく、異邦人伝道のパウロと、ユダヤ人伝道のペテロの争いだ。具体的には異邦人と食事を共にすることの是非をめぐる争いだ。パウロはイエスの考え方を踏襲しているとして頑として譲らない。「隣人を自分のように愛しなさい」はイエスの言葉ではなかったかという。パウロはペテロに劣らず激しい性格の人だったようだ。

Ⅸ 時代的制約

 だが、パウロの思想すべてがそのまま現代に通用するわけではない。具体的には、パウロの「女性観」(女性は男性の光を反映するものにすぎない)と、「国家観」(国家の暴力は神に由来する)である。これらは時代に制約された思想であり、現在は説得力をもたない。

Ⅹ 個人・民族・共同体への衝撃

 だが、現在でも引き続き生きているパウロの思想があるという。キュンクのパウロ理解の特徴だ。
① キリスト者は、日常生活で、世に耽溺してはならないが、世を捨てる必要はない
② ユダヤ人は神の選ばれた民族であり続ける
③ 教会は「愛の奉仕」の共同体で、ヒエラルヒー構造(教皇首位制や位階制)を持たない

 でも、それではまるで原始共産制みたいで、教会は組織として「統合と秩序」を守れるのだろうか。そういう素朴な問いに対して、キュンクは、教会は自由になるために召命を受けた人々の共同体だというパウロの言葉を繰り返す。キュンクな何を言いたいのか。

 キュンクは結論として「パウロは超人ではなかった」と述べる。パウロは、自分が人間であり、弱く、壊れやすいことをよく知っていた、という。キュンクが引用するパウロの最後の言葉はフィリピ3:12-14である。よく知られたことばである。
 「私は、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです・・・」(新共同訳)(3)。

1 コリント前書は、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロ」という書き出しで始まる(Ⅰコリント1:1 新共同訳)
2 パウロの書簡は13通あるとされている。うち真正なものは7通らしい(ロマ書・ⅠⅡコリント・ガラテア・フィリピ・テサロニケ・フィレモン)。他の6通は弟子たちが書いたものらしく、「第二書簡」(エフェソ・コロサイ・Ⅱテサロニケ)と「第三書簡」(「牧会書簡」とも Ⅰ・Ⅱテモテ・テトス)があるという。第三書簡が書かれたのはずっと降って100年頃らしい。
 ところで、パウロの書簡はなにか各地の教会から送られてきた苦情や質問への返事・回答という形式をとっている。ではもともとの手紙はどこにあるのか。そんなものは存在しない(見つかっていない)。そこで元々の手紙はこうであったであろうとパロディー風に書いたのが、『拝啓パウロ様』(コリン・モリス著、石川重俊訳、ヨルダン社、1988 原題は Epistles to the Apostle - Tarsus Please Forward by Colin Morris 1974 )である。フィクションとノンフィクションが入り交じっているが真面目な読み物で、昔面白く読んだことを覚えている。著者はイギリスのメソジスト派の神学者。
3 パウロのからだには「とげ」があったという。今風に言えばパウロは身体障害者だったのかもしれない。だからこそかれの言葉は重く響く。「私の体に一つの棘が与えられました・・・力は弱さのなかで完全に現れるのだ・・・むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント7-9 聖書協会共同訳)。ちなみに文語訳では、「我は・・・肉体に一つの棘を与へらる・・・わが能力は弱きうちに全うせらるればなり・・・寧ろ大に喜びてわが微弱を誇らん」(岩波版文語訳聖書)。

 

 

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