カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

見て、信じた ー 「見る」とはなにか(2024年復活祭)

2024-03-31 22:18:00 | 教会

 ご復活祭おめでとうございます。
今年のイースターは3月31日と早く、しかも晴天に恵まれ(1)、当教会では多くの方がミサに与った。昨年はまだ分散ミサが続いており全員がそろうことはできなかったが、今年は皆でお祝いすることができた。高齢の男性にはネクタイ姿が多く、女性も正装に近い人が多かった。

 今日の福音朗読はヨハネ20・1-9で、「空のお墓」の話、または、「復活」のシーンの話だ。M神父様は当教会で初めての復活祭のミサを挙げるということで力が入っておられたように見受けられた。受洗者も3名おられ喜びもひとしおだったようだ。

 お説教は本日の福音朗読の箇所に何回か出てくる「見る」という言葉についてであった。聖書に出てくる「見る」という言葉には様々な意味が込められているというお話であった。「体の目心の目信仰の目」という区別は神学ではいつも出てくる話だが、M神父様はこの言葉にはもっと多様な意味が含まれていると例を挙げながら説明された。

 「見て、信じた」(20-8)とは「復活を信じた」という意味なのだろうが、何を見てそう信じたのだろうか。フランシスコ会訳の聖書の注では、「もう一人の弟子」(伝統的に「使徒ヨハネ」と言われてきた)は、埋葬用の亜麻布の「状態」と「位置」からそう判断したのだろうと解説している。つまり、その布は、イエスの頭を縛った輪の形のまま元の所に平らに置かれていたから、イエスはそのまま抜け出るようにすっと自由な復活体になったのだろうと理解した、という説明だ。この先は聖書学の世界の話のようだ。

 ごミサ後のお祝いの会は賑やかだった。子供たちがイースターエッグを配っていたが、とても数は足らなかったようだ。コロナ禍をなんとか乗り越えて迎えた、素晴らしい復活祭だった。

【復活の主日】

 


1 当教会では復活祭で雨に降られたことが一度もないという。イースターは移動祝日なのに(つまり毎年日にちが変わるのに)、不思議といえば不思議ですねという話で盛り上がる。

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