第6・7・8章は教会の「本質」論となる。本質とは、新約聖書の中で教会はどのように自分自身を理解し、説明しているのか、という問いへの答えのことだ。岩島師は、①新しい神の民 ②キリストの体 ③聖霊の神殿 という3つの自己理解の仕方を示している。
第6章 教会の自己理解(その1)ー神の民ー
教会は「神の民」といわれる。第二バチカン公会議以降よく使われるようになった。では、神の民とは誰のことなのか。一般的には「イスラエルの民」のことを指すと考えられているが、これはイスラエルの契約思想や選民思想にもとづいた表現のようだ。ではなぜイスラエルなのか。それはイスラエルが虐げられた、弱小の民族だったからだといわれる。新約聖書は、こういう旧約聖書の選民思想的な用法を引用しながらも、「キリストを信ずる者」たちが「神の民」だと規定し直していく。そして第2バチカン公会議は教会を「新しい神の民」と規定した。
Ⅰ エクレーシア
エクレーシアという言葉は福音書にはほとんど登場しないが、書簡や黙示録には頻出する。カハル(集会のこと ヤーヴェのカハルとは神の民のこと)は、シナイの集会(出エジプト記24:3〜8)が原型といわれ、ギリシャ語ではエクレーシアとなる(1)。以下の特徴をもつという。
①政治的決定のための男子の集会
②70人訳ではカハルの訳として98回使われる
③新約聖書では、3つの用法があるという
a キリスト者の集会(Ⅰコリント11−18,使徒5−11)
b キリスト者の地域共同体 (Ⅰコリント1−2)
c 全体教会 (使徒20〜28)
Ⅱ イスラエル
イスラエルとは、 ヤサール(支配する)+エル(神) のことで、「神が支配する」という意味のようだ。
旧約ではヘブライ民族の自称で、他民族からはヘブライ人と呼ばれた。アブラハムの孫ヤコブの別名でもあり、イスラエル12部族はどれもかれの息子の子孫とされる。
新約では必ずしも教会を意味するとはかぎらないが、キリストの教会を表すこともあるという。
Ⅲ 神の民
旧約では、イスラエルの民のことで、ユダヤ民族は神から特別に選ばれ、恩恵を受けるとされる(出エジプト記19:5〜6)
新約では、旧約を引用して、それが教会を実現しているという間接的表現が多いという(Ⅱコリント6−16)
「契約の板」
Ⅳ その他の教会像
その他にも教会を表すイメージ、喩えは多い。
1 羊飼い、羊の柵、羊の群れ(ヨハネ10章) 羊飼いと羊(ペテロ5:2〜4 教会指導者と信者)
「善き羊飼い」
2 ぶどうの木と枝 (ヨハネ15章)
3 家、建物、神殿
Ⅴ 「神の民」としての教会という自己理解
教会は「神の民」であるという理解は第2ヴァチカン公会議で再確認された、新しい自己理解、自己規定であった。
この「神の民」教会論について、H・キュンクは次のように述べているという(2)。
1 教会が神の民ならば教会とは信徒のことであり、聖職者中心主義への批判的視点の基盤になる
2 個人主義的な教会理解への警告を意味する(グループで救われる)
3 人間抜きの教会観への批判を含んでいる つまり、教会を位階制、教義、秘跡を有する制度的機関とみなすことへの批判を含んでいる
4 「旅する教会」の主張:教会は固定した超歴史的存在ではなく、歴史的存在であることを示している(3)
キュンクのこの説明は、教会は神の民だという第二バチカン公会議での自己理解がいかに革新的であったかを示している。また、それだけ批判と攻撃の対象にもなり得たことを示している。
第7章 教会の自己理解(その2)ーキリストの体ー
Ⅰ 肢体の喩え
「教会はキリストの体」だという言い方は、教会の中ではよく聞く言葉だが、教会の外ではあまり聞かれない。基本的にはパウロの言葉なのだが(Ⅰコリント12:27)、教会を肢体に例えた表現である。
ギリシャ思想の「諸器官に関するたとえ」が下敷きだそうだ。教会を体そのものというよりも、教会の「頭」が「キリスト」だという意味が含まれているようだ。パウロはさらに信徒はキリストの体の肢体であって、肢体の動きは多様であっても体は一つだといっているようだ。「器官と一つの体」は、「多くのカリスマと一つの教会」のたとえにもなる(4)。
Ⅱ キリストの花嫁
「教会はキリストの花嫁」だという言い方は結婚式などでよく使われるので人口に膾炙した表現だろう。結婚の中に、男女の結びつきの中に、キリストと教会の関係が反映されているという考えだ。つまり、「キリストは教会の花婿」だという言い方になる。エフェソ5:30〜32がよく引用される。Ⅰコリント6:12〜20は男女の結びつきの比喩だ(5)。
「キリストの花嫁」
Ⅲ 新しい人類キリスト
キリストは「第二のアダム」ともよばれる(ロマ書5:12〜21)。第一のアダム(創世記2:7)は人間に罪を、死をもたらしたが、第二のアダムであるイエス・キリストが人間を罪と死から救ってくれるという。第二のアダムは「最後のアダム」とも呼ばれる。
Ⅳ 祭儀ーキリストの体の具体化
キリストと人を結びつけるものが洗礼であり(ロマ書6)、聖体祭儀である。
「キリストの体」という表現はなにか神秘主義的なものを指しているのではない。
よって、復活したキリストの現存が教会の本質ということになる。
第8章、聖霊の神殿(霊の被造物)としての教会 の要約は次回のテーマである。
注
1 エクレーシアが日本語で「教会」と訳されるようになった経緯はいろいろあるようだ。「天主堂」という言葉は建物を指すニュアンスが強いが、「教会」は人の集まりを指すニュアンスが強いように感じられる。「堂」と「会」の違いなのだろうか。御堂(みどう)とか聖堂(おみどう)という表現は私は今でも日常的に使う。「せいどう」と発音する人も多いようだ。そういえば、「召命」もいまは「しょうめい」と発音され、「めしだし」(召し出し)と読む人は少ない気がする。いつ頃起こった変化なのだろうか。
2 H・キュンクは、ラーナーと並んで、第2ヴァチカン公会議に大きな影響を与えた神学者のひとりだ。おそらく今でもカトリック神学者の中で最も人気があるのではないか(H・カー『二十世紀のカトリック神学』 2011)。公会議首位主義であり、教皇不可謬説批判で有名だ。教会論では、バルトの『教会教義学』に比肩しうるようなカトリック教会論をうちたてたと評価されている。1928年生まれだが、まだ元気なようだ。岩島師はキュンクを引用するくらいだから、評価は低くはないようだ。
3 『教会憲章』の第7章は、「旅する教会の終末的性格」と題されている。昔、カト研でも旅する教会とは何だと大いに議論したことを覚えている。部室に使った進駐軍のかまぼこ校舎は旅する教会そのものだった(?)。なお、第8章は「聖なる乙女マリアについて」と題されている。マリア論が教会論の一部とされているのは、不思議と言えば不思議だ。
4 これは現代風に言えば「身体論」だ。キリスト教は肉体と霊魂をわける二元論だという俗説があるが、聖書にはそのような記述はない。キリスト教では人間は「神の似姿」であり、肉体が復活すると信じている。心身二元論はデカルト以来の西欧思想の中核だが、西欧の現代哲学もこの心身二元論を克服しようとしているようだ。身体論はカトリック神学では霊性神学のテーマだ。
5 ジェンダー論からいえば、聖書は男性の視点から書かれている。当時の父権制社会が前提になっている。それでも「フェミニスト神学」は創世記やガラティア書のなかに男女平等の表現を見出そうとしているという。