10月の学びあいの会は素晴らしい秋晴れのもとで開かれた。昨日の教会バザーも天気に恵まれて本当によかった。この10月は雨にやられた月だったのでみな喜んだ(1)。
今回のテーマは聖書の翻訳についてである。S氏はまず、2018年12月に刊行された「聖書協会共同訳」の特徴を、この5月に日本聖書協会の岩本潤一氏がされた報告をまじえて紹介された(2)。その後、聖書翻訳の難しさについて自説を展開された。これを機会に少し自分の考えを整理してみたい。
聖書の翻訳(日本語訳)といえば、カトリックでは、明治の「元訳」以来5番目がこの「協会共同訳」だということになっているようだ(3)。翻訳というと「翻訳の歴史」の話が中心で、ヨーロッパでは中世の話、ルターの話、日本ではキリシタン時代の話、ザビエルの話が中心になっているようだ。
しかし、聖書学者のなかでは、①原典と定本、②方法論 のテーマが重要だという(4)。原典と言っても写本しかないわけだし、定本も重訳があったりして複雑らしい。また、方法論も、意訳と直訳(逐語訳)のあいだにある無限の多様性、「注釈」「解説」にまとわる聖書「解釈」の問題など、興味深いが私のような素人にはわからない世界があるようだ(5)。私にはせいぜい日本語のことわざに聖書由来のものが多いというレベルの話がわかるくらいだ(6)。
さて、S氏は、岩本氏の報告の特徴を以下のように整理された。
①翻訳の主体は日本聖書協会(委員会方式ではない)。ゼロからの翻訳(改訂ではない)
②委員の比率はカトリック41名(28%)プロテスタント108名(72%)、翻訳者の比率はカトリック25名(40%)プロテスタント37名(60%)。新共同訳は50%対50%だった。
③委員の女性比率は23%(前回は3%)
④翻訳原則はスコポス理論で、「朗読」にふさわしい日本語をめざす。
⑤原語担当者と日本語担当者が分離され、翻訳者62名中原語担当43名、日本語担当19名。比率は7対3(前回は9対1)。日本と担当者には歌人や詩人が含まれた。
⑥用語の変化:嗣業→相続地 はしため→仕え女 重い皮膚病→規定の皮膚病
だからどうというわけではないが、カトリックの比重が下がっているという点を強調したいようだった。
Ⅰ 翻訳の難しさ
言葉の背後には文化・伝統・歴史・民族性などのあり、言葉の意味の範囲が異なる。また、語順、敬語と丁寧語、単数形と複数形、直訳と意訳など、言語間の違いは大きい。氏は、この翻訳の難しさを、ロゴスとヴェルブムという例を使って説明された。ロゴス(ギリシャ語)はラテン語ではヴェルブムと訳された。ロゴスは理性、ことばなど、各種の辞典によれば数十の訳語があるという。ラテン語になったとき、ロゴスはラチオ(理性)とヴェルブム(ことば)にわかれていく。つまり聖書では、言葉と訳される。たとえば、啓示憲章は Dei verbum で、「神の言葉」だし、ベネディクト16世の勧告 Verbum Domini は「主のみことば」と訳される。日本語への訳語の難しだろう。さらに、漢字・漢語の問題もあるようだ。S氏も、マルコ福音書1章や、雅歌1章「おとめの歌」の新共同訳と協会共同訳の訳文を比較しながらいろいろ例を出されたが、結局は、難しいですね、どちらがどうとはいえないですね、で終わらざるを得なかった。
Ⅱ 定本の問題
氏は定本問題には興味があるようで、古代の人の書写には誤りが多く、多数の定本が存在することを強調しておられた。そのため、プロテスタントの「聖書のみ」の主張には限界があり、聖書の読み方に関するカトリックの立場を強調しておられた。啓示憲章12項は「聖書を解釈すべき方法」と題され、、次のように述べている。
「聖なる本文の意味を正しく理解するためには、教会の生きた聖伝全体と信仰の類比を考慮に入れながら、聖書全体の内容と統一性にも同等の注意を払わなければならない」(79頁)。
この文章は、聖伝・信仰・類比・統一性など重要な用語が含まれており、カトリックの聖書解釈の特徴をよく示している(7)。
Ⅲ 死海文書
氏は、最後に死海文書の件をとりあげた。よく知られた話なので説明するまでもないが、1948年に死海のほとりのクムランで発見された古文書のことだ。エッセネ派の聖書写本で、20世紀最大の発見とされている。紀元前4世から紀元後1世紀(おそらくは60年前後)までの文書だという。旧約聖書のみでイエスの教会はでてこない。とはいえ、2000年以上にわたっって伝えられた聖書がほぼ同じだったというのは驚きとしか言いようがない。
氏は、死海文書の発見を題材にしたミステリー風の小説、『死海の謎』とか『イエスのミステリー』という本を取り上げたNHKを強く批判しておられた。わたしは読んだことがない小説なので触れるにとどめておこう。
このあと、質疑応答で、聖書の訳語についてみなさんいろいろな印象を話された。また、教皇ミサを来月に控えて、フランシスコ教皇さまの特別聖年の勅書は「いつくしみ」ではなく、「あわれみ」と訳すべきではないかとか、「ミサ式次第」のなかでの「また司祭と共に」は、「またあなたの霊と共に」ではないのかとか、「あなたをおいてだれのところに行きましょう」は日本語としては意味が曖昧で、英語での Lord, I am not worthy to receive you, but only say the word and I shall be healed とは違いすぎるとか、いろいろ興味深い話題がでた。やはり、翻訳問題は、深刻な話題だが、楽しい話題でもあるようだ。
注
1 バザーの「収益金」(税金の問題もあるだろうから正確な名称はわからない)はどこでも少なくない額のようで、その使途についてはいつも議論百出のようだ。聞くところによると、普通は、日曜学校や幼稚園の遠足・キャンプなどへの補助、記念品、遊具購入などらしい。ところが、当教会での特徴は収益金はすべて施設に寄付されることだ。教会活動にびた一文回されることはない。チラシに明記されている。「当バザーはチャリティーバザーです。収益は、近隣・国内の施設に寄付されます」と書かれている。バザーといってももその主催団体の歴史や組織の特性を反映してくるものらしい。最近のバザーは保健所や消防署の監視の目も厳しくなってきており、その運営もますます難しくなってきているという。
2 この岩本氏の報告についてはわたしもこのブログで詳細に紹介しました。私見が入っているので、S氏の要約とは異なる部分がある。
「協会共同訳と新共同訳はどこが違うのか」(2019年5月3日)
https://blog.goo.ne.jp/kempis/e/1666af82d61adf5b60757d2e7974749e
3 聖書協会系だと、明治元訳(1887年)大正改訳(1917年)口語訳(1955年)共同訳(1978年)新共同訳(1987年)聖書協会共同訳(2018年)で、6番目となる。カトリックだと、バルバロ、デル・コル訳(1964年)バルバロ訳(1980年)フランシスコ会訳(2011年)で5番目となるようだ。なお、カトリック司教団は聖書協会共同訳をミサで使用するとはまだ決定していないという。
4 この整理は、聖書協会共同訳の翻訳に携わった柊神父様などからうかがった話からの私の推測でしかない。
5 和田幹男先生が訳された、ヨハネ・パウロ二世の「教会における聖書の解釈ー教皇庁聖書委員会ー」(1993)はこの分野では重要な文献らしいが、現在どのように評価されているのかはわからない。
6 聖書由来だとは、知っている人は知っているが、知らない人は知らない諺。目から鱗が落ちる(使徒言行録9章18節)豚に真珠(マタイ7章6節)目には目を歯には歯を(申命記19章21節)七転び八起き(箴言24章16節)働かざる者食うべからず(第二テサロニケ3章10節)笛吹けどおどらず(マタイ11章17節)などなど。といって、これらをもって聖書が日本文化に定着しているとまでは言えないだろう。
7 啓示憲章は聖書解釈には理性的解釈と信仰的解釈の二つがあると述べているが、解釈の主体については教会論のテーマになるようだ。