7月も終わるというのに長梅雨があけない。7月の学びあいの会のテーマは啓示論であった。S氏の持論の展開というよりは、既存の議論を整理したいということのようであった。整理の仕方はいろいろあるだろうからここではできるだけ主要な論点だけを取り上げておきたい。
啓示論はカトリック信仰において最も重要な「教義」であるにもかかわらず、最近は入門講座以外ではあまり聞かないテーマだ。啓示という耳慣れない言葉を聞くとすぐに「ヨハネの黙示録」(1)が思い出されて、なにかおどろおどろしい、まがまがしい、理解不可能な出来事と思われるからだろうか。
他方、臨死体験や体外離脱など「啓明」と呼ばれることもあるテーマはテレビや雑誌などマスメディアのお好みのテーマのようだ。心霊現象やパワースポット観光案内も人気がある話題らしい。
したがって、啓示という言葉についての誤解を招かないためにも、言葉の整理をきちんとしておくことが大切だ。その上で、現代のカトリック教会の啓示論(第二バチカン公会以降の啓示論)が、以前のスコラ神学的な啓示論(第一バチカン公会議での啓示論など)から大きく変化発展していることをみておきたい。
啓示論は基礎神学の一部門だ。つまり啓示論は神学という学問の基礎の基礎と言うことになる。S氏もこの点を強調しておられたが、ここでは念のため阿部仲麻呂師の「神学の相関図」を載せておこう。これは神学校でのカリキュラムの体系とのことだが、啓示論が神学教育の中でどう位置づけられているかがよくわかる。
Ⅰ 「啓示」という概念
カトリック信仰では、啓示は信仰宣言(信条)の中核部分をなす。洗礼を受けるための入門講座で最初にぶつかる難問である。
『カトリック教会のカテキズム』(2002)(2)によると、カテケージス(3)は4つの「支柱」を持っているという。それは ①信仰宣言 ②秘跡 ③掟 ④祈り だという(10頁)。啓示は①信仰宣言(信条)の中核である。
ロジックはこうだ。①人間は神を求める→②神が先に人間を呼んでおられる(啓示)→③人間と神が契約を結ぶ→④神への人間の応答(祈り)。つまり、神が人間を訪れるとき、神はご自分の「慈しみ深い計画」を人間に示される、これが啓示の本来の意味のようだ(4)。
1 「啓示」という用語
だが、啓示という言葉にはいろいろな使われ方がある。S氏によると、啓示という言葉の用法には三種類あるという。
①日常用語
「隠れているもの、以前には知られていなかったものが現れ、認知の対象になること」。これはもっとも普通の定義、用法だろう。秘跡の神秘に関わる概念だから、宗教的概念だ(5)。
?ποκ?λυψι?(ギリシャ語):アポカリュプシス
revelatio (ラテン語)
revelation (英・仏):隠されているものから覆いをとる
Offenbarung (独) :開示すること
啓示 (中国古典) :祭儀に用いる器を納めた厨子の扉を開き示すこと
②諸宗教の用法
啓示という概念はキリスト教に固有のものではない。自然宗教や他の啓示宗教にも、人間に対する神の告知と人間によるその認識が存在する。だが、仏教における「悟り」が「啓示」に関わるかは疑問が残るという(6)。
③キリスト教的用法
キリスト教の歴史の中でも啓示について様々な説明がなされてきたが、S氏は、「近代キリスト教神学において啓示は、ナザレのイエスの受肉によって、神が世に対して自らを徹底的かつ全面的に与えた自己譲与」とされてきた、と説明された。つまり、「受肉の啓示」説で、啓示はいわば神の主体的行為で、人間の側が請い頼んで与えてもらうというものではない、という側面が強調されている(7)。
2 啓示の方法
啓示の伝達手段のことである。
①何らかの情報を神が人間に与えることによる
②神の自己啓示による人間との出会いによる
どちらも神が主体で、人間は伝えられる存在になっている。①は文字または霊感という手段のことで、文字による伝達が聖書ということになるのであろう。
Ⅱ キリスト教における啓示観の変遷
1 旧約聖書
旧約では啓示は神のことば、語りかけ、ロゴスである。神の「お告げ」のことだ。
①自然を通して 詩篇19・1,18・13,29・3
②幻視を通して 出エジプト記33・22,民数24・4
③夢を通して 創世記28・11,サム上28・6
④直接に イザヤ5・9,エレミア23・18
皆で聖書を読み合わせたが、旧約の啓示は神が預言者を通してイスラエルに向けたメッセージで、ヤーヴェとイスラエルの民との「契約」と同じことをさしているようだ。
2 新約聖書
新約聖書での啓示は契約思想を背景として持っており、イエスによる一回限りの新しい契約、すなわち、イエスが神を啓示するというかたちをとっている。
①奇跡的に超自然的知識を受け取ること: マタイ11-27,16-17
②神ご自身を最終的に開示する出来事 : 「都に上ったのは、啓示によるものでした」(ガラティア2・2 聖書協会共同訳)
従って信仰はイエスへの人格的な帰依となる。
3 古代教父たち
2世紀から6世紀にかけての教父たちの啓示論はキリスト論と一体化している。まだ未分化だ。続出する異端説(養子説、変容説、アレイオス説(ホモウーシオス、神と子の同一本質説の否定)などへの反論を展開する中で啓示論が展開されていく。啓示とは神が人間の魂を照らすわざだという。「神の照らし」説とでもよべようか。
4 中世スコラ神学
スコラ神学においては、啓示とは神・人間・宇宙についての教義体系のこと。聖書を源泉とし、預言者や使徒によって人類に告知された教えの体系への人間の側からの知的同意を意味するという。
①アンセルムス:スコラ学の父と呼ばれる 理性による論証を重視する 「理解せんがために信ず」という言葉は有名だ。
②トマス・アクィナス:自然神学と啓示神学を初めて区別した
自然神学では、人間の理性の力のみで神の存在を証明するが、啓示神学では神の啓示によらなければ、神の存在・真理・三位一体の神は捉えられないと考える。自然神学だけでは不十分だという。トマスにおいては啓示は「命題」としての形式を持ち、信仰とはその命題への合意のことだという。アリストテレスの影響が繰り返し指摘されている。
5 宗教改革時代
義認論、聖書のみ、の思想にみられるように、啓示とは、イエス・キリストの贖罪のわざによる神の救いの福音のことだという。聖書のみが完全な権威を持ち、教会の伝承や教父たちの著作は啓示ではないという。
カトリック側からの反宗教改革運動(対抗宗教改革)では、啓示の源泉は「聖書」と「聖伝」であり、啓示は教会の教えの客観的な内容を指すとされた。
6 啓蒙時代
17・18世紀の理性至上主義の時代にはヨーロッパでは啓示のみならず宗教そのものが否定された。教会が啓示の権威を持ち出して自己を正当化する教条主義が否定された。反トミズムの時代といえる。
他方、カトリック教会は自分自身を「聖書を根拠とする啓示宗教」と自己規定した。自分たちは啓示宗教だとなのったわけだ。ここに信仰とは啓示の承認と同義となる。
7 19世紀
ヘーゲルに代表される観念論は、啓示を歴史の中におこる絶対精神の出現と見なして、キリスト教的な表象を受容していた。
①第一バチカン公会議(1869・12・8~1870・10・28)
教義憲章 Dei Filius (神の子)を発布して啓示論の問題解決をはかる。啓示の超自然性が強調される(8)。
②プロテスタント神学
啓蒙主義と世俗主義による宗教の破壊を防ぐ努力が試みられる。例えば、シュライエウマッハーは啓示の源はイエス・キリストのみで、宗教は理性的・抽象的議論のみでは把握不可能だと説いた。
③啓示論争
19世紀から20世紀初頭にかけて展開された論争。理性中心、科学万能主義への反動として個人主義的、主観主義的啓示観が登場する。例えば、カトリックのロアジー(Alfred F. Loisy, 1857~1940)は、啓示は人間が持つ意識で、内的・自然的なものであり、教義や要理として外から伝えられるものではないとした。広い意味での近代主義(モダニズム)の一種で、宗教のみならず芸術や文学の世界でも影響力が大きかったようだ。
8 20世紀以降
20世紀には第二バチカン公会議で「啓示憲章」が発布されるが、それ以前も啓示論に大きな変化が起こっていた。
①実存主義の影響(両大戦間の時代)
啓示神学は実存主義に大きな影響を受ける。戦争や不況など不条理のもとで人々は啓示に拠り所を求めた。啓示とは人間にとって究極的な事柄の表示のことで、キリストに人生をかけることが啓示の意味になっていく。
②プロテスタント神学の啓示理解
啓示は歴史的事件(受肉・生活・死・復活)の中に具体化される。神は歴史の中に自己を顕現するとした。例えば、K・バルトは自然の啓示を否定し、神の直接的啓示以外あり得ないと主張した。人間は神を考えることはできない。人間が神について考えることができるのは、神が自らを知らせるときだけだ、という。
③カトリック神学の啓示理解
K・ラーナーは逆だ。啓示は自然的理解を深め、拡大すると主張した。福音を知らない「無名のキリスト者」(der anonyme Christ)がすくわれるのは、かれが常に啓示のもとにあるからだ。「自己自身を理解する者にのみ、そしてそのように自己自身を自律的に処理できる者のみに、人格的な啓示における神の自己開示は、自由な愛の行為として現れるからである」(『み言葉を聞く者』)(9)。
こういう啓示論が第二バチカン公会議のなかに流れ込んでいく。
長くなったので、第二バチカン公会議での啓示憲章成立の話は次稿にまわそう。
注
1 新約聖書の最後に来る「ヨハネの黙示録」は、「啓示録」ではなく「黙示録」とされている。この章は、英語訳聖書では Revelation、 ドイツ語訳では Die Offenbarung des hl. Johannes と訳されていることが多いようだ。つまり、「啓示」と「黙示」は同じ意味なのに、日本語ではなぜか訳し分けている。原語(ギリシャ語)は 「アポカリュプシス」?ποκ?λυψι? だから、日本語では「天啓」、「明示」、「公開」、「開示」などと訳してもおかしくはないらしい。実際、岩下壮一師は天啓という言葉を好まれたようだ(『カトリックの信仰』)。なぜ聖書においてのみ黙示という訳語が使われ続けているのか、不思議といえば不思議である。
2 『カトリック教会のカテキズムの要約』(2010)でも同じ。これは『カトリック教会のカテキズム』を問答式に要約したものである。問答式だからわかりやすい。
3 カテケージスとはカテキズムを学ぶことを指す。第二バチカン公会議以降は「要理教育」と訳されることが多いらしいが、私の世代だとどうしても「公教要理」と言いたくなる。
4 私は啓示なるものを受けた経験はないないのでピンとこないが、啓示には「段階」があり、啓示の伝達手段も「わざとことば」を通してであるという(19頁)。夢やインスピレーションも啓示の一つという説もあるようだが、ここでのテーマではない。
5 近代ヨーロッパでは「啓示」は「啓蒙」(Enlightenment)の対立概念とされてきた。啓蒙とは無知をただして合理的な知識を得ること、理性の光を当てることを意味するが、日本語では差別的ニュアンス、上から目線のニュアンスがどうしても伴う。啓示という訳語に神秘的なニュアンスが伴うのと同じで、言葉に歴史の垢がついているのだ。
6 S氏はここで興味深い注釈をおこなっていた。原始仏教には啓示という概念はないが、鎌倉仏教、とくに浄土宗には啓示に近い教えがあるのではないか、と言われた。これは他力本願のことだろうか。他力本願とは、修行で悟りを得るのではなく、阿弥陀如来の本願によって成仏するという意味なので、これを啓示に近い教えと呼ぶためにはもっと詳細な説明が欲しいところである。
7 これは、トマス主義的な、第一バチカン公会議的な、説明であり、定義のように思える。あえて言えば、歴史的視点、終末論的視点が入っていない定義と言うことになる。
例えば、ジョンストン師は、啓示を「自然の啓示」と「受肉の啓示」に分類して説明している(『愛と英知の道』第11章)。自然の啓示は「宇宙の啓示」とも呼ばれ、自然の中に神が自己を啓示する(ローマ人への手紙1・20)。ひとは「科学を通して神に行き着ける」という考え方だ。他方、受肉の啓示は、第一バチカン公会議での教義憲章 Dei Filius (神の子)で展開された「救いの啓示」論で、受肉・死・復活・栄光を示す啓示である。
ジョンストン師はこのように啓示には二つの表現方法があるが、二つの分けるのは第二バチカン公会議の精神に反すると言っている。師は宇宙論的啓示の側面を強調するからだ。今にして思えば、こういうジョンストン師の神秘主義神学的な主張ー禅やヨガの肯定的評価、科学への信頼などーは、当時のニューエイジ的思潮の中に位置づけられるのかもしれない。教会はもちろんニューエイジ的思想を否定していたが、当時のカト研の中でも聖霊復興運動への関心など当時のニューエイジの波の影響を受けた方も多かったことを思えば、時代の変化を感じざるを得ない。ジョンストン師も、われわれカト研も、時代の子だったのだろうか。
8 第一バチカン公会議は普仏戦争の勃発で中断してしまうので、憲章は二つ出されただけである。一つはこの 「デイ・フィリウス」 Dei Filius (神の子)で、啓示論。もう一つが「パストル・エテルヌス」Pastor Aeternus (永遠の牧者)で、教皇首位説・教皇不可謬説だ。この公会議は近代主義の誤謬を正すと言いながら、実際は ウルトラモンタニスム(教皇至上主義)の確認に終わってしまう。教会の現代化は約100年後の第二バチカン公会議まで持ち越されることになる。
9 『み言葉を聞く者』(Horer des Wortes, 1941) 岩島忠彦師 http://t-iwasi.my.coocan.jp/