カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

平成最後の灰の水曜日に思う

2019-03-06 15:08:42 | 教会


 今日の灰の水曜日からから四旬節が始まった。ヨーロッパでも南米でもカーニバルの大騒ぎが終わって静かさが戻ったことだろう。日本では平成最後の四旬節となる。典礼暦にとって平成は特に意味は無いが、この11月にはフランシスコ教皇さまが来日されるとのことだし、この四旬節は平成時代をふり返るひとつの機会なのかもしれない(1)。
 四旬節は回心と節制の季節だ。回心は悔い改めを含むから、悔悛(改悛)と言った方がわかりがよいか。今日の灰の水曜日は大斎・小斎の日なので断食の日といわれることもあるようだが、四旬節は40日間の節制の季節と言った方がわかりが良さそうだ。断食は絶食ではないし、空腹感を常に感じて感覚を研ぎ澄ますのだから、やはり節制の方が言葉としてはわかりやすい気がする。
 四旬節は当初は洗礼志願者の準備期間だったらしいが、幼児洗礼が普及してしまうとやがて節制の時期に強調点が変わったようだ。カーニバルはその名残りだろう。ところが、現在では(つまり第二バチカン公会議以降では)、洗礼志願者の準備期間という側面が改めて強調されるようになり、われわれ信徒は、洗礼志願者たちのために祈ると共に、自分の洗礼の時を思い起こす時期に変化してきているようだ。
 今日の灰の水曜日に行われる「灰の式」は、四旬節のように3世紀頃からある古い典礼ではないらしい。それでも11世紀以降と言うから古いと言えば古い。「灰」は古代から人間の悔悛の徴として用いられていたようだが、キリスト教のなかに取り入れられて回心のしるしとして頭や額に塗るようになったらしい。これがミサの中に取り入れられて制度化されたのは11世紀以降のことだという。
 私の教会では前任司祭は四旬節の第一主日(日曜日)にも灰の式を行っていたが、今度の司祭はこの水曜日のみに行うようだ。また、額に灰で十字を切る(ぬる)のではなく、頭にかける方式だった。こういう違いが司祭の好みなのか司教さまの意向なのかはわからないが、教会によって違うのかもしれない。教会の違いと言えば、昨年の枝の主日の枝(オリーブとか棕櫚とかの常緑樹)を誰がどうやって燃やして灰を作るかは、日曜学校の子どもたちや教会役員のひとたちの腕の見せ所なのであろう。
 灰の祝福では司祭は「回心して福音を信じなさい」と唱えて灰をかける。または、「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」と唱える。塵(または土)から生まれ、塵(土)に帰る、といわれるとなにか人生のはかなさを言っているように聞こえるが、実は神の働きを意味しているのだという。私ども教会の司祭は「回心して福音を信じなさい」と唱えておられた。
 今日から復活祭までの40日間(46日間)の長い四旬節が始まる。金曜には十字架の道行きもある。今日は大斎小斎を守る日だが、わたしは高齢なので免除されているようだ。とはいえアルコールくらいはひかえようかな。

注1 教皇さまの来日に関して中央協議会からはなにも聞こえてこない。ちゃんと準備が進んでいるのだろうか。ヨハネ・パウロ二世が来日されたのが38年前の1981年(昭和56年)。平成時代は教皇さまの来日が一度も無かった時代ということになる。

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