カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

「プロテスタンティズムとは何か」(その2)(学びあいの会)

2017-11-27 22:24:44 | 神学

 10月の学びあいの会は台風の襲来で中止となったため、集まりは二ヶ月ぶりとなった。そのため報告の内容は広範囲に及び、レジュメも5枚にわたった。簡単に要約して紹介してみたい。今回紹介された小笠原師の講義の目次は次の通りである。

Ⅱ プロテスタント教会の出現とその展開
Ⅲ エキュメニズムの展開
Ⅳ 日本におけるプロテスタント諸派

順を追ってみていこう。

第二部 プロテスタント教会の出現とその展開

 ここは4章構成で、1 ルター派教会の出現 2 スイスにおける宗教改革 3 イギリス国教会の誕生 4 新プロテスタンティズムと古プロテスタンティズム:再洗礼派の出現 となっている。

1 ルター派教会の出現

 ここはドイツの話しである(ドイツはまだ存在しないが一応ドイツと呼んでおく)。
①前回見てきたように皇帝カール5世が教会の和解を図って1530年に召集し、アウグスブルクの信仰告白が代読されるが、和解は失敗。1531年に反皇帝、反カトリックのシュマルカルテン同盟が結成される。
②1546年にルターが死去すると、翌年シュマルカルテン戦争が勃発し、皇帝軍側が勝利する。1554年にアウグスブルク帝国議会で宗教和解がなされる。二種陪餐(パンと葡萄酒)が認められる代わりに、従来の信仰が認められる。だがこれは、事実上、カトリックとプロテスタントの分裂が承認されたことにもなり、和解は不可能となる。ここで有名な命題が確認される。

cuius religio, eijus religio
(領主の宗教 = 領民の宗教)

つまり、領主がプロテスタントなら領民もプロテスタント、領主がカトリックなら領民もカトリック という枠組みが成立する。領邦教会制と呼ばれることもある。現在のドイツにまでこの影響は残っている。現在は、社会移動があるとはいえ、州ごとの違いは大きい。
③1555年以降、アウグスブルクの決定の法的正当性を巡って争いが起きるが、結局1558年にプロテスタント教会が成立し、カトリックとプロテスタントの地域的区分が明確化される。プロテスタントは教皇を持たないため無政府状態になり、分派が次々と生まれてくる。しかもこれら分派がナショナリズムと結びつき、ヨーロッパ全土は混乱状態に陥る。1580年にルター派は分派を阻止しようと「一致信条書」を発行するが、効力はなかった。

2 スイスにおける宗教改革

①ツウイングリ Zwingli, Huldrych (1484-1531) (ツヴィングリ表記の方が多いか)
バーゼル大学、ウイーン大学を経て1506年に22歳で叙階。エラスムスに私淑するも、1519年に福音主義に転ずる(驚くべきことに、これは95ヶ条の提題からわずか2年後のこと。スイス・プロテスタンティズムの始まり)。1525年にはチューリッヒ市はツウイングリの影響でプロテスタント化し、ミサが廃止され、修道院が閉鎖され、教皇制・位階制は否定された。ドイツ語の聖書を使った典礼が行われ、司教から独立した教会運営が信徒中心になされ、長老派形成の先駆けとなる。1529年にはカッペルの戦争が行われ、今度は福音派がカトリックに勝利する。同年マールブルグの宗教会議が開かれ、聖体(パンと葡萄酒)の聖変化はミサの間だけという聖体論が確認される。カトリックの聖体論とは異なってくる。1531年に第二次カッペル戦争がおこり、今回はカトリックが勝利して、ツウイングリは戦死してしまう。以降17世紀半ばまで宗教和平が維持された。
②カルヴァン Calvin, Jean (1509-1564)
フランス生まれ。そのため名前はフランス語読みである。1533年にプロテスタントに改宗し、バーゼルに逃走する。1536年に『キリスト教要綱』を発表し、プロテスタント神学を体系化した。宗教改革を決議したジュネーブに招かれ、厳格な改革を断行した。ルターは「二王国論」で、教会と国家は別と考えていたが、カルヴァンは政治と宗教の一体化を求め、宗教国家の設立を考えていた。教会は、監督制(司教制)を廃止され、牧師と長老が支配する長老制が成立する。教義では聖書主義、予定説を説いた。聖像(十字架やマリア像など)は否定・撤去され、聖餐はたんなるシンボルと主張して、聖体シンボル論が成立させる。
③フランスに飛び火したカルヴァン派
カルヴァン派はフランスではユグノーと呼ばれる。 Hugue notes で、連合組合員 とでも訳せるようだ。カトリックからの蔑称ともいわれる。36年にわたるユグノー戦争(1562-1598)はアンリ4世のナントの勅令で終結するが、以後絶対王政の礎石が据えられたという。カルヴァン派はフランスやドイツでは定着できず、東欧・オランダ・イギリス・北米・スコットランドへと移住していく。

3 イギリス国教会の誕生

①イギリス国教会(Anglican Church 日本では聖公会と呼ばれる)はヘンリー8世(1491-1547)の離婚問題が原因で生まれたことはよく知られているが、ヘンリー8世は当初はルターを批判しており、「信仰の保護者」(fidei defensor)とされていた(イギリスのコインには現在でもこの刻印が残っているようだが、何の意味があるのだろう)。キャサリンとの離婚とアンプーリンとの結婚は教皇パウロ3世が許さず、1538年には破門される。怒ったヘンリー8世は1543年に首長会を作って英国国教会を成立させるが、教義と典礼はカトリックのままであった。当時カトリック教会が持っていた修道院の財産はイギリスの国家財産の半分を占めていたといわれ、ヘンリー8世はすぐさま修道院財産を没収した。ヘンリー8世の真意はここにあったのかもしれない。
②ヘンリーの息子エドワード6世(1547-53)は予定説の採用などプロテスタント化を強めたが、メアリー1世(1553-1558)はカトリックで、プロテスタントを弾圧した。エリザベス1世(1558-1603)はプロテスタントだが中道策をとった。だが対立は解消せず、結局、「イングランド教会39条」を作って英国国教会を確立した。王は国家と教会の最高統括者とされ、主教制がしかれる。主教は同時に貴族院議員を兼ねるという。
③スコットランドではカルヴァン派がピュウリタンとして定着する。1559年にジョン・ノックスが長老派教会を組織した。チャールズ1世時代、国教会の祈祷書がスコットランドに強制されたことを端緒に、1640年代に非国教徒による内乱が起きる。ピューリタン革命である。これは、チャールズ1世を支持した国王派と反国王的な議会派との間で戦われたイギリスの内乱(1640-1660)で、清教徒革命とも呼ばれる。1658年のクロムウェルの死により、1660年に王政復古 Restoration を迎え、国教会が復活するが、ピュウリタン革命は基本的には英国国教会への反発といえる。

4 新プロテスタンティズムと古プロテスタンティズム:「改革の改革」と再洗礼派の出現

①プロテスタントは、対カトリックとの戦いから、聖書の解釈を巡ってプロテスタント内部での戦いに比重が移る。敵はカトリックではなく身内になってしまう。分裂と混乱はプロテスタントの病理ともいえる(これは小笠原師の評価)
②再洗礼派は、初期のプロテスタント(ルター・ツウイングリ・カルヴァン)を古プロテスタントとみなし、自らを新プロテスタントとした。幼児洗礼は無効で、再洗礼が必要となる。教会は個人の選択による自発的結社で、領主による一括支配は認めない。教会と国家の分断・分離を主張したため、当時はカトリックとプロテスタント双方から迫害されたようだ。教区は持たないという。スイス・南ドイツ・オランダで広がる。メイナイトは1536年にアナバプティスト運動に身を投じたオランダ人の元カトリック司祭であるメノー・シモンズ(Menno Simons 1496-1561) の名前からきている。つまり、メイナイト系教会はルターやカルヴァンとは異なる宗教改革運動から生まれており、アナバプティストをルーツとしている。anabaptist のanaは「再び」という意味なので「再洗礼派」と訳されるようだ。アメリカに移住すると、アーミッシュ Amish と呼ばれるようになる。
③バプティストももともとはイングランドのピューリタンの一派で、長老派と対立していた。幼児洗礼を認めない大衆的なプロテスタントで、現在はカルヴィニズムにたつ特定バプティスト派(particular baptist)が主流で、北米とアフリカが中心の巨大宗派だという。
 こういうプロテスタント教会の違いは複雑なので、念のため別表にキリスト教会一覧を載せておく。

第三部 エキュメニズムの展開

 エキュメニズムとはいうまでもなく教会一致の促進運動のことだ。元来はキリスト教会内でカトリックと東方教会の和解に力点が置かれていたが、やがてカトリックとプロテスタントとの和解に範囲が広がり、現在ではもっと幅広く諸宗教間の対話の努力をも意味するようになってきている。

1 ルターの歴史的評価

 ルターの教会改革運動は、さまざまな教会改革運動の一つであり、ルター自身は当初は新しい教会の設立を目指していたわけではない。むしろ教皇庁の対応がルターを追い詰め、政治闘争へ発展してしまった。増田師の言葉を借りれば、「初期消火に失敗した」わけだ。政治史的にはドイツ統一にルター派は利用されたともいえるという。

2 カトリック側からのエキュメニズム

①エキュメニズムの時代的経過 19世紀後半から、3000教派にも分裂したと言われるプロテスタント教会間で協力の動きがはじまったが、カトリックは当初東方教会との接触に努力した。だが、コンガールやキュンクの神学の影響のもとに、1964年には第二バチカン公会議で「エキュメニズムの教令」が出された。これを契機に運動は活発化していき、現在まで続いている。プロテスタントとの対話だけではなく、他宗教との対話も進んでいる。
②第二バチカン公会議でカトリック教会の自己理解は深まる。教会は「世界のための秘跡」だとし、教条主義からの脱却を図る。この場合、秘跡(サクラメント)とは目に見えない神秘を目に見える形で示す感覚的な象徴のことで、アウグスティヌスの定義に倣う。対話の相手はエキュメニカルな態度で選ぶ。つまり、かってのように教会が真理であるとはいわず、つまり、真理を独占しているとはいわず、真理は「教会の内にある」と表現することによって、教会の外にも真理が存在することを認める。「同心円的教会観」と呼ばれるものだ。とはいっても、意見の相違は現在でもあり、プロテスタントは教皇制・位階制(司教制)・使徒伝承などを認めない。将来もキリスト教会が一つになることはないだろうが、相互の理解と協力は進んで行くであろう。

3 エキュメニズムの現状

 カトリックとルター派教会との対話は着実に進んでいる。1999年には「義認の教義に関する共同声明」が出され、義認論と義化論の対立にほぼ終止符がうたれた。2017年には「宗教改革500年記念共同文書」が発表された。2016年10月31日にフェデンルントの教会で開かれた宗教改革記念日にはフランシスコ教皇も出席された。

第四部 日本におけるプロテスタント諸派

 日本にキリスト教が伝来したのは1549年で、禁教令は1612年に出される。プロテスタントの諸宗派は江戸末期、明治維新前に日本に布教・宣教に入っているものが多い。正教会は1861年にウイリアムズが来る。1859年頃長老派ではヘボンが、改革派ではブラウンが来る。会衆派(組合派)は1869年にティバイスがアメリカン・ボードから来る。バプティスト系も1860年代に入ってくる。メソジスト系は1873年頃で、ルーテル系は少し遅れて1890年代だ。
 日本のキリスト教会史の最大の問題は教会が1941年に日本基督教団に合同させられたことだ。この日本基督教団は戦後も続くが、日本聖公会・日本福音ルーテル教団・日本バプティスト連盟など脱退・独立していった教会も多いという。この日本基督教団は、無教会主義と並んで、日本固有のプロテスタントだという。メイナイトなど戦後に来日した教団もある。また、モルモン教・ものみの塔(エホバの証人)・統一教会などキリスト教系新興宗教もあるが、これらはカルト宗教でキリスト教とは見なさない人が多いようだ。参考まで別表を載せておきます。なお、カトリック教会・プロテスタント教会・東方正教会の区別がつかない方のために、学びあいの会で今回配布された図表を載せておきます。
 ということで今日の話は話題が多岐にわたった。もう少し詳しい説明がほしいところだが、なにぶん時間がない。講義後の話し合いはおもにエキュメニズムについてであった。エキュメニズムという言葉はバチカン公会議直後はよく聞かれたが、最近は余り聞かれない。残念なことである。また、カトリックと、聖公会・東方教会・ルター派との話し合いは進んでいるようだが、改革派や長老派との話し合いは余り聞かないがどうしてだろう、という質問があった。色々皆で印象を語り合ったが、これという答えは見つからなかった。エキュメニズムの今後を注視していきたい。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする