カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

学びあいの会 「史的イエスとホモウーシオス」

2016-06-01 18:41:26 | 神学
 2016年5月30日の「学び合いの会」は朝方雨にみまわれ、出席者は8名にとどまりました。前回から2009年に上智大学キリスト教文化研究所の聖書講座でおこなわれた連続講義が再度紹介されています。この講義はベネディクト16世教皇様の着座に際して、ラッチンガー著『ナザレのイエス』をとりあげて上智大学キリスト教文化研究所の先生方や神父様方などカトリック神学の専門家が連続講義をおこなったものとのことです。
第一回は岩島忠彦師「教義神学からみた史的イエスの研究史」
第二回は増田祐志師「キリスト論から見た現代的意味」
第三回は星野泰昭氏「史的イエスとホモウーシオス」

 第二回目の増田師の講義はきちんと報告することができませんでしたが、論点は多岐にわたっていました。中心命題はキリスト論とイエス論をきちんと峻別しないと史的イエス論は迷路に迷い込むというもののようです。具体的には古代の「キリスト論論争」が検討される。キリスト論は仮現論や従属説を乗り越えてホモウーシオス概念を中心とした「ニケア・コンスタンチノープル信条」として結実する。我々が今もいつもごミサで唱えているお祈りである。このお祈りの中身は結局は三位一体と教会を信じることがトリック信仰の中核ですといっているわけだが、古いと言えば古い。この信条が成立した第1回コンスタンチノープル公会議が開かれたのは381年である。その後ヨハネ的キリスト論がずっと支配してきたわけだが、これは新約聖書の成立年代をめぐる長い論争の評価にかかわるので、増田師は詳細な説明をされたようだ。ポイントは新約聖書のなかで最も古いパウロ書簡と口伝との関係、ヨハネ福音書の成立時期や場所、、使徒行伝とヨハネ黙示録の関係と位置づけ、などかなり専門的な内容だったようである。だが、やがて宗教改革のあとの聖書研究のなかから史的イエス研究が生まれ、イエスがキリストから分離されていった、というのが増田師の説明のようだ。現代のキリスト論論争の紹介はもっぱらラーナーとスキレベックスが中心で、キリスト論は聖書と伝統だけではなく、現代社会の体験・経験を組み込まねばならない、具体的にはインカルチュレーションの評価が論争の中身となるという。この点では最近竹下節子氏が書かれた『キリスト教の謎ーキリスト教を数字から読みとく』(中央公論新社 2016)が、タイトルには似合わずキリスト論論争を解説していとても興味深かった。
 
 さて、第三回目の星野氏の講義は「史的イエスとホモウーシオス」であった。星野先生はラッチンガー(ベネディクト16世教皇様)の直弟子として著名な方であり、ご存知の方も多いと思う。私もかれが先に訳されたヨゼフ・ラツィンガー著『イエス・キリストの神ー三位一体の神についての省察』を愛読していたので、今回の講義の話はなじみ深いものであった。星野氏によれば、ラッチンガーは顔つきがいかめしくてなにか近寄りがたい印象を与えるが、性格的にはとても柔らかくて優しい人だという。若き頃先生のラッチンガーにくっついてドイツの大学を彼方此方と渡り歩いた星野氏でなければできない人物評価であろう。
 星野氏はまず、「歴史のイエス」と「信仰のイエス」という問題設定のしかたを検討する。こういう問題設定のなかで、中でもA.シュバイツアーの『イエス伝研究』(選集17-19巻)が果たした役割が大きいと高く評価する。しかし、あまりにも終末論的視点から論じる傾向が強すぎたともいう。もう一人かれが重視するのはルドルフ・ブルトマンで、かれの提示した様式史的方法はあまりにも素晴らしかったとはいえ、現在はむしろその実存論的解釈(非神話化)がイエスを逆に神話化してしまっていると批判されてきているという(いわゆる編集史的研究方法)。こういう整理の仕方は史的イエス論では一般的なもので、特に星野氏の個性が出ているわけではない。星野氏の特徴はラッチンガー論にある
 さてカトリックサイドではどうか。史的イエス論は最近はプロテスタント神学の独壇場というわけでもなくなってきているようで、星野氏はラツィンガーの『ナザレのイエス』を史的イエス論として検討する。
 キリスト教信仰にとって批判的・歴史的方法は不可欠であると言うところからラッティンガーは始める。第二バチカン公会議を経験しなければこういう言葉はでてこないであろう(ちなみにフランススコ教皇様は第二バチカン公会議に出席した経験を持たないで選出された初めての教皇様だという。なお、フランシスコ教皇様の伝記 A.アイヴァリー著 宮崎修二訳『教皇フランシスコ ー キリストとともに燃えて』(明石書店 2016)は大部だが、この教皇様が今までの教皇様といかに違う経験を持ち、違う世代の人かを教えてくれる良書だ)。
 ところが、ラッティンガーは、歴史的方法は重要だが、「同時に信仰による補完」が必要だと述べる。では、信仰による補完、とはなんのことか。それは聖書を全体的統一としてみることという意味なのだが、その中身は第一に旧約聖書をキリスト論的に解釈することの正当性を認めること、そして第二に史的イエスを「ホモウーシオス」として見ること、の二点だという。
 さて、ホモウーシオス(homoousios)である。カトリック信者や哲学研究者・思想史研究者にとってはなじみのある言葉ではあるが、一般的にはあまり知られていない言葉だろう。ホモとは同じという意味で、ウーシオスとは本質とか実体とか存在とか実存とかいう意味なのだが、日本語訳としては確立したものはないようだ。辞典によって訳語が異なる。星野氏は「子と父は同一本質」という意味で、同一本質と訳されている。つまり「三位一体」の実体ないしは中核のことと理解してよいだろう。
 一神教として発展してきたユダヤ教やキリスト教にとって、名や姿を持たない超越や唯一、救世主(キリスト)を持ちながら、キリスト教はイエスの死と復活を起点として成立した。このキリスト教が三位一体の教義を確立して行くには多くの困難が伴ったことを我々は知っている。われわれは「三位一体の盾形紋章」をとおして三位一体を視覚的に理解することになれているが、ホモウーシオスの正確な理解なしに三位一体は理解できない、というラッティンガーの主張は何を意味するのか。三位一体はもちろん教義ではあるが、ラッティンガーやK.ラーナーは、現代社会の神概念で最も広まっていてしかも危険なのが「キリスト単性説」だという。単性説とは受肉後は神性のみが存在するという考えで、人間イエスを無視しても神キリストの信仰に近づけるという思想だ。人間イエスにおける神性の神秘がわからなければ、「子は父とホモウーシオス」と定義したニカイア公会議(325年)が忘れ去られると考えているようだ。
 昔の公教要理では三位一体を説明するとき、「3が1であり、1が3である」といったアウグスチヌスの教説がよく用いられた。そんなこと言われたってわかりません、三位一体なんてわからない、そんな絵空事は自分の信仰には関係ない、という誤解や不満は昔も今も多いと思う。クリスチャンはよく、信仰を持てば三位一体がわかる、という。三位一体がわかったから信仰を持つ、ではなく、信仰をもつから三位一体がわかる、というわけだ。それはその通りだが、それだけでは言葉の遊びだ。それは人間イエスに眼を向ければ、わかります、ということなのだ。ラッティンガーの神学は、イエスは神であるという信仰に辿り着くためには、イエスという一人の男の人間性にまで深く入っていく必要がある、ということをわれわれに繰り返し教えてくれている。
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