カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

教義神学から見た史的イエスの研究史

2016-03-28 22:31:15 | 神学
3月28日の「学び合いの会」は朝方大雨にみまわれ、出席者は6名にとどまりました。増田祐志師編『カトリック神学への招き』は前回で読み終わりましたので、今回は「史的イエス」の研究史が紹介されました。上智大学の岩島忠彦師がイグナチオ教会の聖書講座で、「史的イエス論の射程と限界」シリーズの一つとして1909年11月に報告された発表「教義神学から見た史的イエスの研究史」が改めて紹介されました。その時に配布されたレジュメのコピーが今日の題材でした。
 本発表は全体が4部にわかれています。Ⅰ 研究史の概要 Ⅱ 研究史の神学的評価 Ⅲ キリスト礼拝のユダヤ的起源 Ⅳ キリスト論と史的イエス という構成です。岩島師は教義神学が専門のようですが、現代の聖書学にも造詣が深い方のようで、きわめて詳細で専門的な内容の紹介のように思われました。全体の論旨も、聖書学の成果に基づく史的イエス研究はキリスト論の前提だが、復活信仰への言及が不十分だ、というもので、納得できるものでした。聖書学、ましてや史的イエス研究など全く御法度だった二十世紀初頭の教会を思い起こすとき、こういう主張がいかに革命的であるかをわれわれはつい忘れがちになる。史的イエス論はカトリック神学にとって現代的な課題であり続けているようだ。
Ⅰ研究史の概要
史的イエス論は結局は「信仰のイエス」と「歴史のイエス」を聖書のなかでどう見分けるかと言うことに帰着する。両者を対立するものとみるか、弁証法的止揚がありうるのか、という問いである。
史的イエス研究の歴史区分として、岩島師は4期に分けている。第一期イエス伝の時代 第二期宗教史学派の時代 第三期再探求の時代 第四期第三探求の時代。史的イエス研究は18世紀後半にH.ライマルスによって始まったというのが定説のようだが、これはA.シュバイツアーの言い出したことで異論もあるようだが、一応定説として確立しているようだ。つまり史的イエス研究は事実上20世紀に入って本格的に始まったと考えて良さそうだ。
 先般翻訳が出て話題になったJ.チャールズワース『史的イエス』(2008,中野実訳教文館 2012)では、5期(事実上4期)にわけている。第一期26-1738探求なしの時代(イエスをキリストとして礼拝するだけの時代) 第二期1738-1906ふるい探求の時代 第三期1906-1953古い探求が中断した時代 第四期新しい探求とその消滅1953-1970 第5期第三の探求1980-現在。若干の違いはあるが、ほぼ同じ区分をしているようだ。結局は史的イエス研究は最初はA.シュバイツアー、やがてR.ブルトマン、そしてE.ケーゼマンが研究の中心となる。現在は第三の探求の時代と呼ばれているようだ。岩島師は数十件にわたる詳細な文献の内容紹介をされており、得るところが多かった。
Ⅱ 研究史の神学的評価
 師は第三探求の問題点としてグノーシス主義とQ資料仮説をあげている。出発点は1945年にエジプトで発見された「ナグ・ハマディ写本」群に含まれていたイエスの語録集で、共観福音書ラインとは異なる「トマス福音書」ラインがどこまで客観的か、と疑問を呈している。師は第三探求の史的イエス研究の方法論上の問題点は、弟子たちのイエスの復活体験がキリスト教信仰の中核だと言うことを明らかにし得ない点にあるという。キリストの復活こそケリギュマの中心だからである。
Ⅲ キリスト礼拝のユダヤ的起源
ということで、師は「史的キリスト研究」という別のアプローチが必要だと述べる。具体的にはL.タルド『主イエス・キリスト』(2003)を取り上げ、詳細に分析・紹介している。内容としては、キリスト崇拝でのヘレニズムの影響よりは、ユダヤ教の唯一論と説きがたく結びついていることを強調する。ヘレニズム->パウロ->キリスト教 という流れを否定し、キリスト礼拝は「二一的崇拝」(binitarian worship) だと主張する。グノーシス主義、Q資料、ケリュグマ、二一などカトリック神学の主要概念がある程度理解できないとフォローできない議論が続くので、ここでは詳説は省きたい。
Ⅳ キリスト論と史的イエス
ここではJ.ガルヴィンの『神学体系』(1991)でのキリスト論が紹介される。キリスト論の原則は、①新約聖書と教義(聖伝)はキリスト論の規範である②イエスの人格と福音は切り離してはならない③イエスの救いの四つの重点(受肉・公生活・十字架・復活)は相互連関しており、どれか一つに限定して論じることは危険である、の3項目だという。そして、史的イエス研究は、無前提の実証学として進められると、結果的に成立するイエス像は恣意的で、キリストを矮小化してしまう。むしろ、復活信仰の神学的解明という方向に史的イエス研究は向かわなければならない、と述べる。これは岩島師の主張でもあるのであろう。
 このようにこの岩島師の報告は非常に専門的な議論で、これがはたして「聖書講座」かと一瞬疑うほどの内容であった。カトリック神学の水準の高さを知らせてくれた。とはいえ、先のチャールズワースの『史的イエス』が、現代聖書学が考古学の研究成果を積極的に取り入れていることを強調し、かつ、カトリックの史的イエスの研究とプロテスタントの史的イエス研究を比較しながら論じているのに比べると、なにか片手オチの印象がないわけではなかった。現在のところカトリック教会としてはここまでしか言えないということなのであろう。史的イエス論がこれからさらにどう展開されていくのか楽しみである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする