「学び合いの会」は2月22日、増田祐志師編『カトリック神学への招き』の第6部「現代の神学」の第16章「現代神学の課題」(増田祐志)の二回目に入りました。
現代神学の課題として取り上げられたのは、Ⅰ諸宗教の神学 Ⅱ解放の神学 Ⅲフェミニズム神学 Ⅳ倫理神学 の四項目です。前回はⅠの宗教の神学が取り上げられました。今日は残りの三項目が紹介されました。
解放の神学はおもに中南米において被圧迫者の政治的・社会的解放を目指して1960年代に生まれた現代神学の一つの思潮とされる。背景としては当然第二バチカン公会議があり、1968年のメディリン司教会議(コロンビア)で正式に認められた。中南米の司教会議は貧しい人々の側に立つことを宣言したわけである。フランシスコ教皇様もこういう動きの中で司教への途を歩んでこられたのであろう。
著者によれば、解放の神学は中南米から南アフリカ、インド、フィリッピン、台湾、韓国へと普及してゆき、米国ではフェミニズム神学や黒人神学を生み出していったという。神学として体系化されているわけでは無いが、イエスをキリストして信仰する教会は「救い」を「解放」として理解し、救いは霊的次元だけではなく、政治・経済・社会を含む全体的次元で理解されるべきであるという神学思想を生み出したという。
この解放の神学は、多くの論争を招き、批判も多かった。教理聖省は次々と教書を発表し、特にラッチンガーの時に出た「解放の神学のある側面に関する教書」(1984)、「キリスト教的な自由と解放に関する教書」(1986)などでは、「疑いの目で」(著者)この神学を評価したという。
著者は解放の神学は「抑圧された人々の声を聞く神に倣うという原点を人々に示したという点で・・・・多いに評価されるべきであろう」(302頁)と述べている。私見では日本では解放の神学が大きな影響力を持ったとは思えないが、1960年代・70年代に召命を受けた神学生にはそれなりの影響を与えていたのかもしれない。
本論文を読んで不思議に思ったのは、解放の神学を生み出した社会的背景や社会理論への言及が全くない点と、解放の神学に対置するものとして出てきた神学思潮の紹介がない点であった。社会理論で言えば、現代では乗り越えられて説明力を失ったとはいえ、従属理論や世界システム論への言及なしに解放の神学の特徴は説明できないと思う。解放の神学は無神論だとか、亜流マルクス主義だとかいうだけでは、解放の神学が持っていた思想としての射程距離の長さと限界を示せないのではないか。また、解放の神学に対置するものとしてラッチンガーたち「改革保守派」(非トマス主義という意味で改革派だし、現状維持という意味で保守派)や、アメリカ司教団に代表される「リベラル・レフト」の思想を比較対象として紹介しないで、解放の神学万歳だけでは説明不十分だと思う。ラッチンガーでさえ、ハーバーマスとの対話で、解放の神学とは「目標」は一致するが、「手続き」が異なると言っている。「この世での解放や、歴史の完成よりも、神の前での、<回心>こそ重要である」と言っている。解放の神学と闘い続けたベネディクト16世のこの言葉はあまりにも挑戦的ではあるが、時代は変わってしまったのだから、「社会の変革」か「個人の回心」か、「闘い」か「癒やし」か、はもはや二者択一の選択肢ではないということをフランシスコ教皇様は言おうとしているのではないだろうか。教皇様は今年を「いつくしみの特別聖年」と定められた。そのためにくだされた「祈り」のなかにその思いを読み取りたいと思う。
フェミニズム神学は、解放の神学の方法論を用いて北米で展開された神学であると著者は述べている。これはとても興味深い整理の仕方で、フェミニズム論でいえば、性別役割分業論を中心とした1960年代以降の第二期フェミニズム論のことを指しているのであろう。聖書や教会の中に「男尊女卑思想」がみられるというだけでは、フェミニズム神学への解放の神学の影響を指摘したことにはならないのではないか。資本主義や家父長制への言及がみられないのは無い物ねだりなのだろうか。
著者は具体的には「女性叙階」問題を取り上げる。著者は当然批判的な論調で女性叙階を認めないバチカンを批判するが、とはいえ、「差別論に還元するだけでは問題の全体像は見えてこない」とはっきりした姿勢を示さない。かって、ヨハネ・パウロ二世は「女性司祭問題は、司祭は論じても良いが、司教が論じることは許さない」と強い姿勢を示した。女性司祭論は、司祭の独身制とならんで、「神学の課題」というより、「教会の課題」のように思える。
課題としての倫理神学としては、伝統的にいわれてきた避妊・同性愛・離婚再婚問題から、遺伝子工学による生命倫理への挑戦が浮上してきているという。性倫理から生命倫理へと焦点の移行が起こっているのかもしれない。解放の神学やフェミニズム神学のような社会倫理とともに、教会は「心理学や他の学問分野との協働のうちに福音的生き方を示す使命がある」と著者は本論文を結んでいる。
以上で、本書をほぼ二年をかけて読み終わったことになる。各論文は力の入ったものもあるし、概論に終始したものもあった。とはいえ、神学部における教育がどういうものであるか、垣間見ることができ、本当に有益であった。特に、「日本の教会」という視点からカトリック神学を紹介してくれたのは編者の力量の表れであろう。これからも読み継がれていく良書である。
現代神学の課題として取り上げられたのは、Ⅰ諸宗教の神学 Ⅱ解放の神学 Ⅲフェミニズム神学 Ⅳ倫理神学 の四項目です。前回はⅠの宗教の神学が取り上げられました。今日は残りの三項目が紹介されました。
解放の神学はおもに中南米において被圧迫者の政治的・社会的解放を目指して1960年代に生まれた現代神学の一つの思潮とされる。背景としては当然第二バチカン公会議があり、1968年のメディリン司教会議(コロンビア)で正式に認められた。中南米の司教会議は貧しい人々の側に立つことを宣言したわけである。フランシスコ教皇様もこういう動きの中で司教への途を歩んでこられたのであろう。
著者によれば、解放の神学は中南米から南アフリカ、インド、フィリッピン、台湾、韓国へと普及してゆき、米国ではフェミニズム神学や黒人神学を生み出していったという。神学として体系化されているわけでは無いが、イエスをキリストして信仰する教会は「救い」を「解放」として理解し、救いは霊的次元だけではなく、政治・経済・社会を含む全体的次元で理解されるべきであるという神学思想を生み出したという。
この解放の神学は、多くの論争を招き、批判も多かった。教理聖省は次々と教書を発表し、特にラッチンガーの時に出た「解放の神学のある側面に関する教書」(1984)、「キリスト教的な自由と解放に関する教書」(1986)などでは、「疑いの目で」(著者)この神学を評価したという。
著者は解放の神学は「抑圧された人々の声を聞く神に倣うという原点を人々に示したという点で・・・・多いに評価されるべきであろう」(302頁)と述べている。私見では日本では解放の神学が大きな影響力を持ったとは思えないが、1960年代・70年代に召命を受けた神学生にはそれなりの影響を与えていたのかもしれない。
本論文を読んで不思議に思ったのは、解放の神学を生み出した社会的背景や社会理論への言及が全くない点と、解放の神学に対置するものとして出てきた神学思潮の紹介がない点であった。社会理論で言えば、現代では乗り越えられて説明力を失ったとはいえ、従属理論や世界システム論への言及なしに解放の神学の特徴は説明できないと思う。解放の神学は無神論だとか、亜流マルクス主義だとかいうだけでは、解放の神学が持っていた思想としての射程距離の長さと限界を示せないのではないか。また、解放の神学に対置するものとしてラッチンガーたち「改革保守派」(非トマス主義という意味で改革派だし、現状維持という意味で保守派)や、アメリカ司教団に代表される「リベラル・レフト」の思想を比較対象として紹介しないで、解放の神学万歳だけでは説明不十分だと思う。ラッチンガーでさえ、ハーバーマスとの対話で、解放の神学とは「目標」は一致するが、「手続き」が異なると言っている。「この世での解放や、歴史の完成よりも、神の前での、<回心>こそ重要である」と言っている。解放の神学と闘い続けたベネディクト16世のこの言葉はあまりにも挑戦的ではあるが、時代は変わってしまったのだから、「社会の変革」か「個人の回心」か、「闘い」か「癒やし」か、はもはや二者択一の選択肢ではないということをフランシスコ教皇様は言おうとしているのではないだろうか。教皇様は今年を「いつくしみの特別聖年」と定められた。そのためにくだされた「祈り」のなかにその思いを読み取りたいと思う。
フェミニズム神学は、解放の神学の方法論を用いて北米で展開された神学であると著者は述べている。これはとても興味深い整理の仕方で、フェミニズム論でいえば、性別役割分業論を中心とした1960年代以降の第二期フェミニズム論のことを指しているのであろう。聖書や教会の中に「男尊女卑思想」がみられるというだけでは、フェミニズム神学への解放の神学の影響を指摘したことにはならないのではないか。資本主義や家父長制への言及がみられないのは無い物ねだりなのだろうか。
著者は具体的には「女性叙階」問題を取り上げる。著者は当然批判的な論調で女性叙階を認めないバチカンを批判するが、とはいえ、「差別論に還元するだけでは問題の全体像は見えてこない」とはっきりした姿勢を示さない。かって、ヨハネ・パウロ二世は「女性司祭問題は、司祭は論じても良いが、司教が論じることは許さない」と強い姿勢を示した。女性司祭論は、司祭の独身制とならんで、「神学の課題」というより、「教会の課題」のように思える。
課題としての倫理神学としては、伝統的にいわれてきた避妊・同性愛・離婚再婚問題から、遺伝子工学による生命倫理への挑戦が浮上してきているという。性倫理から生命倫理へと焦点の移行が起こっているのかもしれない。解放の神学やフェミニズム神学のような社会倫理とともに、教会は「心理学や他の学問分野との協働のうちに福音的生き方を示す使命がある」と著者は本論文を結んでいる。
以上で、本書をほぼ二年をかけて読み終わったことになる。各論文は力の入ったものもあるし、概論に終始したものもあった。とはいえ、神学部における教育がどういうものであるか、垣間見ることができ、本当に有益であった。特に、「日本の教会」という視点からカトリック神学を紹介してくれたのは編者の力量の表れであろう。これからも読み継がれていく良書である。