仮面の告白『雲の上の虹』

この世の誉・不正・不道徳・破廉恥・権力者を追及し、無害なことも記録しつつ、雲の上の虹をめざす枕流亭の日記(日乘)

大川小の悲劇  柏葉校長の辞職

2012年03月24日 | 日記

  大川小で校長職にあった柏葉照幸氏がこの年度末で依願退職するという。あの悲劇から1年後の決断。この退職をどうみるか!?

  1年間かけて責任をとったとみるか、まだ検証が済まないうちに任から退くとみるかは意見の分かれるところだろう。彼の身になって考えれば、1000年一度の大禍に遭遇してしまった、その時、自身の娘の卒業式に出ていたという、普通なら当然の行為があだになったのだ、自分がいたところでどうにもなら無かった、というあたりだろうか。

  たしかに人間として、管理職としての苦悩は相当のモノであったと予想はつく。しかし君は、日常しているべきしているはずの危機管理が全くできていなかったのだ!それは亡くなった教頭も同じなのだ。有ってはいけないことが起きることを想定するのが管理職の仕事なのだ。

 それを君は全くしていなかったのだ。そこに君の最大の責任放棄がある。管理ができない管理職なぞ存在価値はないのだ。

 君はその反省をしたのか?またそのような者を管理職にした教育委員会は責任を感じているのか!種々の報道からはそれは見えてこない。

 ある識者によれば今回の悲劇は裏山に避難すれば防げた、問題はその避難路が整備されていなかったことだという。確かに助かった教務主任と児童は少数だから助かったといえる。しかしだ、整備されていれば即避難ができ、たとえ積雪があっても全員助かったのだ。

 そのような整備は校長が市や掛け合っておくべき事項だったのだ。市はそれをさらに県に要求すべきだったのだ。その意味で市教委や県の危機管理のなさが一番の責任である。

 新しい学校ほど良い場所に建てられないのが現状だ。大川小も窪地だ。それゆえ津波に向かう形でより高台へという避難が決行されたのだろう。そのようなことも想定できなかったことは市と県の責任だ。

 責任を明白にしてそれを教訓としなければ犠牲になった御霊に申し訳ないではないか?

 その覚悟が市や県にあるか?それが今後の協議点だろう!

  

 

 

 

 管理職とは公を優先できる者がなるべきなのだ。他人の子どものために我が子を犠牲にする位の覚悟が必要なのだ。その我が子は他の管理職が守っているのだから!

 
右端が柏葉氏

 

<東日本大震災>大川小の校長が依願退職へ 宮城・石巻

 東日本大震災の津波で児童74人、教職員10人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市立大川小学校の柏葉照幸校長(58)が31日、依願退職する。県教委が23日、教員人事の発表に合わせて明らかにした。8日付で退職願を提出し県教委が受理した。

 柏葉校長は震災発生時、娘の卒業式のため石巻市外にいた。今月18日、遺族との話し合いで訓練の不備などを指摘され、「危機管理意識が低かった」と謝罪した。県教委によると、遺族らが求める震災発生時の避難対応などの検証には「退職後も必要な協力はする」と話しているという。【宇多川はるか】

 

大震災編 都司嘉宣 大川小学校の惨事 必要だった裏山の避難路  産経 3・22

 津波被災地を訪問し、津波の浸水範囲や到達した高さなどの調査を行った。現地で被災者に話を聞かせていただき、津波来襲時の写真や映像も数多く拝見した。そこから生々しく浮かび上がったのは、多くの人々がほとんどなすすべもなく、千年に一度の規模の巨大津波にのみ込まれていった凄惨(せいさん)な実態だ。命を救う方法はなかったのか。私たちは被災ケースを一つ一つ検証し、今後の津波防災の教訓にしなければならない。

 今回は、宮城県石巻市立大川小学校の被災について取り上げる。大川小は、河口から約4キロ上流の北上川南岸の堤防近くにあり、周辺は海抜約2.5メートルのくぼ地となっている。ここで、全児童108人の約7割に当たる74人と、教職員10人が死亡・行方不明となる惨劇が起きた。

 地震発生時、児童らは2階建て鉄筋コンクリート造りの校舎内にいた。大きな揺れを感じ、津波警報の発令を知った教職員は全校児童を校庭に整列させた。その後、少しでも高い場所に児童を移動させようと、海抜6メートルの北上川の堤防に向かって列になり歩いていくうち、川から堤防を乗り越えてきた大津波に、先頭の児童から順にのみ込まれていったという。

最初にこの話を聞いたのは東京にいるときだった。大川小付近の地図を確認すると、校舎の背後に小高い山がある。「なぜ裏山に登らせなかったのだろう」と不思議に感じた。だが、昨年6月に大川小を訪ねる機会があり疑問は氷解した。させなかったのではなく、できなかったのだ。

 裏山は、ほぼ傾斜角45度の急斜面だった。斜面には津波が到達した位置を示す木札があり、高さは海抜9.4メートル。私はそこまで登ったが、大の大人が草をつかみながら苦心惨憺(さんたん)し、たどりつくのがやっとだった。しかも、震災当日の昨年3月11日、斜面はまだ一面の雪に覆われていたという。とても児童108人を登らせることはできなかったのである。

 津波の防災対策は、千年に一度の巨大津波でも人の命だけは助けられるものでなくてはならない。それでは、大川小のケースでどんな対策があれば、児童の命を救えたのだろう。

 私は、この斜面を楽に歩いて登っていけるような、ジグザグの津波避難路を設けておくべきだったと考える。夜間の発生にも備え、太陽光発電の照明灯も設置しておけば万全だったのではないか。(つじ・よしのぶ 東大地震研究所)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。