2021/10/10 マタイ伝25章14~30節「蒔かない種は実を結ばない」
マタイ23~25章と続いてきたイエスの長い説教も、今日と次の譬えで締め括られます[1]。「タラントの譬え」として知られる話ですが、あくまでも「譬え」。イエスの教えのエッセンスを伝えるため単純化した話ですから、枝葉よりも本来の譬えの新鮮さを大事にしましょう。
14天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
15彼はそれぞれの能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。…
15節欄外に
「一タラントは六千デナリに相当。一デナリは当時の一日分の労賃に相当」
とあるように、三百デナリが一年分の労賃、一タラントはその二十倍の六千デナリ、つまり二十年分の労賃でした。今は労賃も年収もそれぞれ違います。今とは経済的な仕組みも将来の見通しもない、労働基準法などもない、もっと大雑把な時代。そのような時代に、しもべたちに、五タラント(百年分)、二タラント(四十年分)、一タラント(二十年分)を渡した事自体、とんでもなく太っ腹です。イエスの譬えはいつも奇抜です[2]。
ここでも、自分のしもべに何十年分の稼ぎとなる自分の財産[3]を預けて旅に出る、そんな主人が語られるのです。
…するとすぐに、16五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。17同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
驚くような大金を預けられて、早速意気揚々と出て行って商売をしたのです。初めての商売をしてみたら、なんと二人とも倍に儲けてしまうのです[4]。後での精算の時、彼らは言います。
20…ご主人様。私に五タラント預けてくださいました…(が、)
ここで一端、切りましょう。あなたは私に五タラントも預けてくださった。この事実がまず感激なのです。感謝を込めて、告白しているのです。そして、それに続くのも喜びですね。
…ご覧ください。私はほかに五タラントをもうけました。[5]
見てください、なんと私、あなたが下さったと同じ五タラントを稼いでしまいました!と言わんばかり[6]。「あなたが応援してくださったお陰で今の私がある。」「あなたが信じてくれたから、こんな人生を歩めました」。そんな嬉しい言葉に聞こえるのです。それに対する主人も、
21…『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
「よくやった」は短い感嘆詞「ユー」です[7]。「いいね!」です。膝を打って喜ぶ感じです。次の二タラント預けたしもべも、金額の数字以外は全く同じ会話をします。主人の喜びの言葉も同じです。ですから、五タラントか二か一か、は「能力に応じて」の妥当な違いで、優劣とか比べることではありません。しかしなぜか、もう一人、一タラント預かったしもべは、
18一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
と意味不明な行動を取りました。後に、彼は帰ってきた主人に対して、24節で言います。
24…ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。25それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。
しかしこれは屁理屈です。26節から27節で主人が言う通り、それなら銀行に預ける方法もありました[8]。それをしないで
「あなたが厳しいから」
なんて矛盾だ、と主人の口を通して見破られているのです。第一、本当に「厳しい方だ」と思っていたら、こんな台詞、恐ろしくて言えません。真相は彼が
「悪い、怠け者のしもべ」
だからです。先の二人と主人が交わした、喜びや惜しみなさ、信頼やお祝いとは対照的に、彼の怠惰、計算高さ、猜疑心、残念さが引き立ちます。最後に主人の前に立つ時に、言い訳をすること、自分が悪いんじゃないと言うことしか考えていなかったのか。今ここで「しもべ」を生きていない、ひねくれた思い上がりです。
29だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。30この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。[9]
神は、蒔かないところから刈り取る方ではありません。蒔かない種の実を集めたがるなんてちぐはぐは決してなさいません[10]。それどころか、神は豊かに惜しみなく種を蒔かれ、収穫を期待して待たれるお方です。タラントから来た「タレント」は特別な能力、という余計な意味合いが着いてしまいましたが、この譬えでは主人が一人一人の能力に応じて、惜しみない預け物を下さっています。しもべはそれを受け取り、生かしました。主人の帰りでどう言い訳するかより、主人の留守の間、預かったものを大事に生かしました[11]。
私たちも人生を受け止めて、自分に与えられた能力とかチャンスとか出会いとか、お金も時間も、一つ一つを感謝して、種を蒔き続けるなら、無駄にはなりません。勿論、種蒔きや商売にはリスクがつきものです。いつでも上手くいくとは限りません。それでも、その忠実さを、主人は喜ぶのです。今それをせずに、主のお帰りを迎えることは「怠け者」なのです。その怠惰さの刈り取りをするのです。
私たちはやがて神の前に立ち、自分の歩みを報告する時が来ます。そこで主が見られるのは、成功か失敗か、と少しでも搾り取ることではありません。五タラントや二タラントを倍にした人と、一タラントを埋めてしまった人という両極端の間で、現実にはもっと複雑で多様な人生があります。その私たちを主がどう評価されるのかは、次の31節からの「羊と山羊の譬え」で、
「最も小さい者たちの一人にどうしたか」
と語られます。私たちが思う規準とは全く異なる規準で、主は人の生涯を測られ、最後にはそれを労って、祝ってくださるのです[12]。ですから私たちはこう言うのです。
「あなたは私にこの人生を預けてくださいました。ご覧ください。私は、この人生でこんなことをさせていただきました。[13]」
その報告を主人は喜んで聞いてくださる[14]。私たちの人生は、私たちのものではなく神からの惜しみない賜物です。最後の日にどう言い訳するかなんて考えるなんて、大間違いです。私たちの生涯を通して、主がなさろうとしていることを成してくださることに、日々お委ねして、心を込めて歩みましょう。
「主よ、あなたが私たちに下さった命、人生、それぞれの個性や能力、すべてはあなたの惜しみなさの現れです。何より御子イエス・キリストの十字架と復活は、私たちのために払われた計り知れない代価です。あなたの恵みが豊かに実を結ぶよう、良いしもべとしてください。あなたが私たちをあなたの種として蒔かれ、良き実りを必ず実らせてくださいます。その恵みへの感謝を見失った思い上がりをどうぞ捨てさせて、あなたの喜びへと招き入れてください」
クリスチャンクリエイターズマーケット
「ワンタラント」サイトより
[1] 原文の14節の始まりは、「天の御国」はなく、13節と結ぶ接続詞ガル(なぜなら)があります。「なぜなら、このようだからです」と始まっています。この譬えも、「13ですから、目を覚ましていなさい。その火、その時をあなたがたは知らないのですから。」の理由です。
[2] 19章では朝から働いた労働者にも最後の一時間しか働かない労働者にも同じ一デナリを与える農園主が語られました。18章では一万タラント(二十万年分の年収)の借金を棒引きする王でした。
[3] 「財産」19:21(富める青年)、24:47(まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。)
[4] 元々商才があったから倍に儲けたとも想像できますが、こんな大金、見たこともないのに、商売をしてみたら、なんと倍に運用しちゃった、でもいいでしょう。あくまでもこれは譬えですから、あまり四角四面に考えたら勿体ないです。私たちの経験値から「きっとこの五タラントのしもべは、商才があったのだろう。一タラントのしもべは、こんな不甲斐なさだから、一タラントしか預からなかったのだ」などと結びつけやすいのですが、神の譬えは、私たちの経験値・憶測・常識をひっくり返すものであるのです。
[5] 「ご覧ください」イドゥー(ヘブル語「ヒンネー」)は、聖書で頻出する注意を促すことばですが、マタイではこの三カ所と、26章65節で「なんと」と訳される四カ所のみです。
[6] ルカの福音書の並行記事「ミナの譬え」では、直訳すれば「あなた様の一ミナが十ミナを儲けました」という言い方になっています。ルカの福音書19章12~27節。
[7] 「よくやった」ユー 感謝ユーカリストー 祝福ユーロゲオー。マタイでここの2回のみ。Well done! それでもねぎらってくださる。日本語ですと、どうしてもかしこまった褒め言葉に聞こえてしまいますが、主人のこどものような大喜びを(そして、しもべもそうであることを)思い浮かべたいものです。
[8] 今、銀行の利子は0.001%だから、それでも良いとしたら、これまた太っ腹な話ですが、私たちが神からお預かりした命は、そんなつまらないものではありません。
[9] 「厳しい方」と言ったのは本心というより責任転嫁でしょうが、神の心には思い至らない、とても卑しく殺伐とした生き方しかありません。彼は外に追い出されても、後悔するより恨みがましく「歯ぎしり」するだけですし、もし追い出されず、主人の喜びをともに喜ぶよう招かれたとしても、そこにいることには御免被るでしょう。
[10] 神がこの世界に与えられている大事な法則の一つは「種まきと刈り取りの法則」です。
[11] 24章からずっと見てきたように、弟子や私たちが「世の終わり」に向けて不安や好奇心をかき立てられる中、イエスは将来については心配せず、今ここで神の言葉に生きることへと、見る目を変えてくださいました。ですからここでも、私たちは、今私たちに与えられた歩みを主の恵みの中で見ることを教えられましょう。終わりの時に、何と言い抜けるか、神のせいにしたり、誰かのせいにしたりすればいいではなく、今ここでの生き方が、結局、最後の時に向かう最善の備えとなるのです。
[12] 儲けた話ばかりではない、どんな商売や仕事も、順調な事ばかりではないように、失敗も損もあって、破産もあったかもしれない。ここでは、倍に増やした二人のしもべと、土に埋めたしもべの、極端な二人しか出て来ませんから、前者でなければ、後者、と決めつけやすいでしょうが、実際は、この間にある様々なバリエーションに入るのがほとんどの人生です。ですからそれを「私は良い忠実なしもべにはなれなかった」と卑下するのは、譬えの本意ではないでしょう。
[13] 「素晴らしき哉、人生!」では、自分なんか生まれてこないほうが良かった、と絶望する主人公が、「自分が生まれなかった世界」を体験することで、生きている喜びを取り戻すストーリーが見事に描かれています。オススメです。
[14] 21、23節の「主人の喜びをともに喜んでくれ」は「おまえの主人の喜びに入りなさい」という文です。自分の喜びへと招き入れる、喜びの神であるなら、私たちも信頼や感謝や忠実でありたいと願います。しかし、神を「蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい」神と捉えるならば、私たちのうちには距離、不安、黙従、被害者意識、対立などが大きくなってしまいます。