聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/10/10 出エジプト記20章「十戒」こども聖書㉚

2021-10-09 12:30:44 | こども聖書
2021/10/10 出エジプト記20章「十戒」こども聖書㉚

 神は、エジプトの国で奴隷とされていたイスラエル人を、その長い奴隷生活から救い出してくださいました。エジプトから脱出して、約束の地への旅を始めたイスラエル人を、神はシナイ山に連れて行き、そこで新しい生き方を示す「律法」を下さいました。大事な戒めの中でも、最初に与えられたのが「十のことば」または「十戒」です。
 今まで、イスラエルの民は、エジプトで奴隷として暮らしていました。ですから、彼らが知っていたのは、エジプトの法律です。人を奴隷にしたり、苦しめたりするようなルールです。エジプトの王ファラオは、神ではないのに神のように振る舞いました。民を鞭打ち、働かせて、自分に都合が悪いと「私が間違っていた」とは言うものの、すぐにその約束を破る、勝手な王でした。それがイスラエルの民が何百年も味わってきた生活です。
 そこから救い出されても、イスラエル人は、他の法律を知りません。このままでは、今度は自分たちが、神様のように振る舞って、人を苦しめたり、誰かを奴隷にしたり、嘘つきばかりの国になるでしょう。いいえ、本当の神である主を、恐ろしい暴君や、わがままで身勝手な支配者のように考えてしまうでしょう。
だから神は新しい掟、十戒を下さいました。十戒は「序言」から始まります。それは
「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」
という前置きです。戒めの前に、わたしはあなたの神だと宣言されます。まず初めに、神がイスラエルの民を、奴隷の家から導き出してくださいました。奴隷として生活して、苦しいから叫んでもいたけれど、もう諦めて、希望など持てずにいた人々を救おう、新しい生活を必ず与えようと決めてくださったのです。その神の言われる第一の戒めは、
 「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」
でした。奴隷生活から導き出してくださった本当の神がおられるのに、他の神を持つなんておかしな話です。神ではないものは、私たちを幸せにするどころか、私たちを縛り付け、奴隷にしてしまいます。だから、神が最初にこう仰るのは、私たちを奴隷にしないためです。

 第二戒は
「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。…」
と続きます。神である主だけを神としても、その神を、私たちに分かりやすい、目に見える形、何かに似たものの形に引き下ろしてしまうことが禁じられます。
 第三戒は
「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない」
です。簡単に「神様が」「主が」と主の名を口にすることを窘めます。私たちも、自分の名前を簡単に人が話すのは嫌なものでしょう。神に対しても、私たちは同じ敬意を持つのです。
 第四戒は
「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」。
 この戒めが、十戒の真ん中にあり、最も長いのです。他の何かをしなさい、してはなりません、よりもずっと長く、週に一日は、私たちが仕事の手を止めること、また、自分だけでなく人も家畜も、すべてのものが解放されて過ごすように。これが、神の命じられた戒めの中心でした。
 その後は、
第五戒「あなたの父と母を敬え」
第六戒「殺してはならない」
第七戒「姦淫してはならない」
第八戒「盗んではならない」
第九戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」
と続きます。家族を初め、人間関係の戒めです。そして、最後の第十戒は
「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない」
と続きます。この最後の戒めは、人の物を心の中で「欲する(強く欲しがる)」ことを禁じるのですね。心の中のことですから、人には見えません。でもそれを神様は強く戒めるのです。そして、心の中で「欲しがる」事は、戒められてもそれで止めることは出来ません。ハッとさせられはしても、それで人のものを欲しがらなくなれることはありません。かえって、ほしい気持ちがますます強くなってしまうのです。
 神の戒めは、私たちの心・願い・欲望に光を当てます。「神の戒めを守ればいい」がキリスト教の教えではないのです。もし、神様が立派な教えを下さったから、私たちはそれを守りましょう、ということであれば、イエス・キリストがこの世界に来る必要はありませんでした。キリストが十字架に掛かる必要もありませんでした。でも、キリストがこの世界に来られたこと、そして、私たちの救いのため、十字架に掛かってくださり、よみがえってくださったことを信じているのが教会です。教会の屋根にあるのは、十字架であって、十戒ではありません。



 イエスは仰いました。
「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」(マタイの福音書5章17節)
 そして、その律法の中で、「どの戒めが一番重要ですか?」と聞かれて、
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38これが、重要な第一の戒めです。39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。(同23章36~39節)
と、神を愛し、隣人を自分のように愛する、という二つの戒めにまとめられました。それは十戒のまとめです。十戒は、神を愛し、隣人を愛することを示しています。そして、それが出来ない責めをキリストは十字架に背負ってくださり、また、私たちの心に、信仰を与え、愛を注ぎ、律法を教えてくださいます。神の他に神を持つな、人のものを欲しがるな、と禁じるだけでなく、本当の神が神でいてくださる、人のものも欲しがらなくていいと思える、本当に幸せで自由な心を育ててくださいます。
 ですから、十戒は、神が私たちに与えて下さる新しい心を示しています。しなければならない、窮屈な戒めとは大違いの、自由で喜ばしい戒めです。そして、やがてこういうルールでお互いが大事にしあう神の国が完成するのです。私たちも、そこに向かって歩んでいるのです。

「私たちを奴隷の国から連れ出し、あなたの国の民としてくださった主よ。十戒を下さった恵みを感謝します。自由の恵みを感謝します。私たちの心や頭には、まだ沢山の歪んだ考えやルールが染みついています。どうぞ私たちを助け、守ってくださって、あなたが示してくださった真実な道をたどれますように。主が私たちとともにいて、私たちを喜び、心を照らし、あなたのいのちの教えを私たちのものとしてくださいますように」


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2021/10/10 マタイ伝25章14~30節「蒔かない種は実を結ばない」

2021-10-09 00:38:04 | マタイの福音書講解
2021/10/10 マタイ伝25章14~30節「蒔かない種は実を結ばない」

 マタイ23~25章と続いてきたイエスの長い説教も、今日と次の譬えで締め括られます[1]。「タラントの譬え」として知られる話ですが、あくまでも「譬え」。イエスの教えのエッセンスを伝えるため単純化した話ですから、枝葉よりも本来の譬えの新鮮さを大事にしましょう。
14天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
15彼はそれぞれの能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。…

 15節欄外に
「一タラントは六千デナリに相当。一デナリは当時の一日分の労賃に相当」
とあるように、三百デナリが一年分の労賃、一タラントはその二十倍の六千デナリ、つまり二十年分の労賃でした。今は労賃も年収もそれぞれ違います。今とは経済的な仕組みも将来の見通しもない、労働基準法などもない、もっと大雑把な時代。そのような時代に、しもべたちに、五タラント(百年分)、二タラント(四十年分)、一タラント(二十年分)を渡した事自体、とんでもなく太っ腹です。イエスの譬えはいつも奇抜です[2]。
 ここでも、自分のしもべに何十年分の稼ぎとなる自分の財産[3]を預けて旅に出る、そんな主人が語られるのです。
するとすぐに、16五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。17同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。

 驚くような大金を預けられて、早速意気揚々と出て行って商売をしたのです。初めての商売をしてみたら、なんと二人とも倍に儲けてしまうのです[4]。後での精算の時、彼らは言います。
20…ご主人様。私に五タラント預けてくださいました…(が、)
 ここで一端、切りましょう。あなたは私に五タラントも預けてくださった。この事実がまず感激なのです。感謝を込めて、告白しているのです。そして、それに続くのも喜びですね。
…ご覧ください。私はほかに五タラントをもうけました。[5]
見てください、なんと私、あなたが下さったと同じ五タラントを稼いでしまいました!と言わんばかり[6]。「あなたが応援してくださったお陰で今の私がある。」「あなたが信じてくれたから、こんな人生を歩めました」。そんな嬉しい言葉に聞こえるのです。それに対する主人も、
21…『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
「よくやった」は短い感嘆詞「ユー」です[7]。「いいね!」です。膝を打って喜ぶ感じです。次の二タラント預けたしもべも、金額の数字以外は全く同じ会話をします。主人の喜びの言葉も同じです。ですから、五タラントか二か一か、は「能力に応じて」の妥当な違いで、優劣とか比べることではありません。しかしなぜか、もう一人、一タラント預かったしもべは、
18一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
と意味不明な行動を取りました。後に、彼は帰ってきた主人に対して、24節で言います。
24…ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。25それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。

 しかしこれは屁理屈です。26節から27節で主人が言う通り、それなら銀行に預ける方法もありました[8]。それをしないで
「あなたが厳しいから」
なんて矛盾だ、と主人の口を通して見破られているのです。第一、本当に「厳しい方だ」と思っていたら、こんな台詞、恐ろしくて言えません。真相は彼が
「悪い、怠け者のしもべ」
だからです。先の二人と主人が交わした、喜びや惜しみなさ、信頼やお祝いとは対照的に、彼の怠惰、計算高さ、猜疑心、残念さが引き立ちます。最後に主人の前に立つ時に、言い訳をすること、自分が悪いんじゃないと言うことしか考えていなかったのか。今ここで「しもべ」を生きていない、ひねくれた思い上がりです。
29だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。30この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。[9]

 神は、蒔かないところから刈り取る方ではありません。蒔かない種の実を集めたがるなんてちぐはぐは決してなさいません[10]。それどころか、神は豊かに惜しみなく種を蒔かれ、収穫を期待して待たれるお方です。タラントから来た「タレント」は特別な能力、という余計な意味合いが着いてしまいましたが、この譬えでは主人が一人一人の能力に応じて、惜しみない預け物を下さっています。しもべはそれを受け取り、生かしました。主人の帰りでどう言い訳するかより、主人の留守の間、預かったものを大事に生かしました[11]。
 私たちも人生を受け止めて、自分に与えられた能力とかチャンスとか出会いとか、お金も時間も、一つ一つを感謝して、種を蒔き続けるなら、無駄にはなりません。勿論、種蒔きや商売にはリスクがつきものです。いつでも上手くいくとは限りません。それでも、その忠実さを、主人は喜ぶのです。今それをせずに、主のお帰りを迎えることは「怠け者」なのです。その怠惰さの刈り取りをするのです。

 私たちはやがて神の前に立ち、自分の歩みを報告する時が来ます。そこで主が見られるのは、成功か失敗か、と少しでも搾り取ることではありません。五タラントや二タラントを倍にした人と、一タラントを埋めてしまった人という両極端の間で、現実にはもっと複雑で多様な人生があります。その私たちを主がどう評価されるのかは、次の31節からの「羊と山羊の譬え」で、
「最も小さい者たちの一人にどうしたか」
と語られます。私たちが思う規準とは全く異なる規準で、主は人の生涯を測られ、最後にはそれを労って、祝ってくださるのです[12]。ですから私たちはこう言うのです。
「あなたは私にこの人生を預けてくださいました。ご覧ください。私は、この人生でこんなことをさせていただきました。[13]」
 その報告を主人は喜んで聞いてくださる[14]。私たちの人生は、私たちのものではなく神からの惜しみない賜物です。最後の日にどう言い訳するかなんて考えるなんて、大間違いです。私たちの生涯を通して、主がなさろうとしていることを成してくださることに、日々お委ねして、心を込めて歩みましょう。

「主よ、あなたが私たちに下さった命、人生、それぞれの個性や能力、すべてはあなたの惜しみなさの現れです。何より御子イエス・キリストの十字架と復活は、私たちのために払われた計り知れない代価です。あなたの恵みが豊かに実を結ぶよう、良いしもべとしてください。あなたが私たちをあなたの種として蒔かれ、良き実りを必ず実らせてくださいます。その恵みへの感謝を見失った思い上がりをどうぞ捨てさせて、あなたの喜びへと招き入れてください」

クリスチャンクリエイターズマーケット
「ワンタラント」サイトより

[1] 原文の14節の始まりは、「天の御国」はなく、13節と結ぶ接続詞ガル(なぜなら)があります。「なぜなら、このようだからです」と始まっています。この譬えも、「13ですから、目を覚ましていなさい。その火、その時をあなたがたは知らないのですから。」の理由です。

[2] 19章では朝から働いた労働者にも最後の一時間しか働かない労働者にも同じ一デナリを与える農園主が語られました。18章では一万タラント(二十万年分の年収)の借金を棒引きする王でした。

[3] 「財産」19:21(富める青年)、24:47(まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。)

[4] 元々商才があったから倍に儲けたとも想像できますが、こんな大金、見たこともないのに、商売をしてみたら、なんと倍に運用しちゃった、でもいいでしょう。あくまでもこれは譬えですから、あまり四角四面に考えたら勿体ないです。私たちの経験値から「きっとこの五タラントのしもべは、商才があったのだろう。一タラントのしもべは、こんな不甲斐なさだから、一タラントしか預からなかったのだ」などと結びつけやすいのですが、神の譬えは、私たちの経験値・憶測・常識をひっくり返すものであるのです。

[5] 「ご覧ください」イドゥー(ヘブル語「ヒンネー」)は、聖書で頻出する注意を促すことばですが、マタイではこの三カ所と、26章65節で「なんと」と訳される四カ所のみです。

[6] ルカの福音書の並行記事「ミナの譬え」では、直訳すれば「あなた様の一ミナが十ミナを儲けました」という言い方になっています。ルカの福音書19章12~27節。

[7] 「よくやった」ユー 感謝ユーカリストー 祝福ユーロゲオー。マタイでここの2回のみ。Well done! それでもねぎらってくださる。日本語ですと、どうしてもかしこまった褒め言葉に聞こえてしまいますが、主人のこどものような大喜びを(そして、しもべもそうであることを)思い浮かべたいものです。

[8] 今、銀行の利子は0.001%だから、それでも良いとしたら、これまた太っ腹な話ですが、私たちが神からお預かりした命は、そんなつまらないものではありません。

[9] 「厳しい方」と言ったのは本心というより責任転嫁でしょうが、神の心には思い至らない、とても卑しく殺伐とした生き方しかありません。彼は外に追い出されても、後悔するより恨みがましく「歯ぎしり」するだけですし、もし追い出されず、主人の喜びをともに喜ぶよう招かれたとしても、そこにいることには御免被るでしょう。

[10] 神がこの世界に与えられている大事な法則の一つは「種まきと刈り取りの法則」です。

[11] 24章からずっと見てきたように、弟子や私たちが「世の終わり」に向けて不安や好奇心をかき立てられる中、イエスは将来については心配せず、今ここで神の言葉に生きることへと、見る目を変えてくださいました。ですからここでも、私たちは、今私たちに与えられた歩みを主の恵みの中で見ることを教えられましょう。終わりの時に、何と言い抜けるか、神のせいにしたり、誰かのせいにしたりすればいいではなく、今ここでの生き方が、結局、最後の時に向かう最善の備えとなるのです。

[12] 儲けた話ばかりではない、どんな商売や仕事も、順調な事ばかりではないように、失敗も損もあって、破産もあったかもしれない。ここでは、倍に増やした二人のしもべと、土に埋めたしもべの、極端な二人しか出て来ませんから、前者でなければ、後者、と決めつけやすいでしょうが、実際は、この間にある様々なバリエーションに入るのがほとんどの人生です。ですからそれを「私は良い忠実なしもべにはなれなかった」と卑下するのは、譬えの本意ではないでしょう。

[13] 「素晴らしき哉、人生!」では、自分なんか生まれてこないほうが良かった、と絶望する主人公が、「自分が生まれなかった世界」を体験することで、生きている喜びを取り戻すストーリーが見事に描かれています。オススメです。

[14] 21、23節の「主人の喜びをともに喜んでくれ」は「おまえの主人の喜びに入りなさい」という文です。自分の喜びへと招き入れる、喜びの神であるなら、私たちも信頼や感謝や忠実でありたいと願います。しかし、神を「蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい」神と捉えるならば、私たちのうちには距離、不安、黙従、被害者意識、対立などが大きくなってしまいます。

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2021/10/3 出エジプト記17章「さばくに湧いた水」こども聖書㉙

2021-10-03 15:49:55 | こども聖書
2021/10/3 出エジプト記17章「さばくに湧いた水」こども聖書㉙

 神は、奴隷とされてこき使われていたイスラエル人を、その奴隷生活から救い出してくださいました。そうして約束の地、カナンの地に向かう旅を始めさせました。その旅の途中で、色々な出来事が起きます。その一つが、水不足です。飲む水がなくて、民が不平を言い、神と争ってしまうのです。出エジプト記17章にはこうあります。
17:3民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」

 水がないことは大変です。人が生きるのに水は必要です。水がないのは切実です。でも、ここまで彼らはパンを与えられ、肉も与えられてきたのです。いや、永遠かと思えた奴隷生活から解放されて、沢山の奇蹟も体験してきたのです。でも、そうした奇蹟のドラマは、この時に助けにはなりません。かえって、自分たちは助けられて当然、水がないなんてモーセが悪い、神様が悪い、文句を言って何が悪い、という「お客様意識」になっています。そして、殺気だってモーセに詰め寄っています。
4そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」
 でもモーセは、恐れて逃げ出したりせず、自分の必要を真っ直ぐに申し上げています。
5主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。6さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」…

 「杖を持って岩を打て」と仰るのです。その岩とは何でしょうか。主がその岩の上で、あなたの前に立つと仰った岩ですね。この時、主は雲の柱でイスラエルの民の前におられました。その雲の柱が、岩の上に移動したのかもしれません。主の足台、神の御座のような岩です。その、聖なる岩を、モーセの杖で打てと仰ったのです。神が立っている岩を打つ。恐れ多いことです。でもそうせよと主は仰いました。恐れ多い事を仰います。

 今まで、エジプトの王ファラオを罰するために使われてきたモーセの杖で、今打たれるべきは、神の恩を忘れて不平を言って迫る、イスラエルの民であったはずです。彼らの立っている地面を打っても何の文句も言えません。しかし、その代わりに主は、ご自身が立っている岩を、モーセの杖で打たせました。それは、民の不平が、頑なさが、どれほど神の心を打って、神を悲しませているか、ということではないでしょうか。人間の、神に対する信頼のなさ、疑り深さは、どれほど神の心を痛めているのでしょうか。

 それは、神が人間をどれほど愛し、私たちをどれほど深く思ってくださっているかの現れです。天地を作られた、宇宙よりも偉大な神が、その中の小さな星に住む、小さな人間のために、心を痛められるのです。水がなければ死んでしまう弱い生き物のために、限りないご配慮をしてくださるのです。そして、その憐れみが、民を生かすのです。
 モーセが杖で、神の立つ岩を打った時、岩から水が出るのです。神が人間のために、心を痛め、神ご自身が傷ついてまでも、人間を受け止めてくださる。その憐れみによって、私たちはいのちをいただき、養われるのです。

 後に、新約聖書で、使徒パウロは今日のところを元にこう書いています。
Ⅰコリント十1~4…私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。2そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、3みな、同じ霊的な食べ物を食べ、4みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。

 岩はキリストを現し、その岩から水が飲んだことは、キリストが私たちにいのちの水を下さることを予告している。確かにキリストは、よく「水」にたとえてご自分の恵みを語られました。ヨハネ4章13~14節では、サマリヤの井戸で女性にこう言いました。
イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 イエスが私たちのために、十字架に掛かられました。神がご自身の岩を打たせて、水を出させたように、イエスが十字架によっていのちを下さるのです。信仰生活の出発の洗礼は、主が私たちに必要な水を与えてくださる約束です。目に見えるのは砂漠で、岩ばかりだとしても、神は、そこから水を湧き出させることが出来るお方です。



詩114:8
神は 岩を水の潤う沢に変えられた。
硬い岩を 水のあふれる泉に。

詩篇78:15~20節
荒野で 神は岩を割り 大いなる深淵の水を
豊かに飲ませてくださった。

17けれども 彼らはなおも神に罪を犯し
 砂漠で いと高き方に逆らった。
18彼らは心のうちで神を試み
 欲に任せて食べ物を求めた。
19そのとき彼らは神に逆らって言った。
 「荒野で食事を備えることが 神にできるのか。
20確かに 神が岩を打たれると
水が湧き出て 流れがあふれた。
だが神は パンも与えることができるのか。
 民のために 肉を用意できるのか。」

詩篇95篇8~9節
あなたがたの心を頑なにしてはならない。
メリバでのように 荒野のマサでの日のように。
あなたがたの先祖は そこでわたしを試み
わたしを試した。わたしのわざを見ていたのに。

詩篇107篇33節
主は豊かな川を荒野に 水の湧き上がる所を潤いのない地に
35節 主は荒野を水のある沢に 砂漠の地を水の湧き上がる所に変え

詩篇114篇8節
  神は 岩を水の潤う沢に変えられた。
 硬い岩を 水のあふれる泉に。

申命記8:15 
燃える蛇やサソリのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない乾ききった地を通らせ、硬い岩からあなたのために水を流れ出させ、

ネヘミヤ9:15 
彼らが飢えたときには、天からパンを与え、
渇いたときには、岩から水を出し、
彼らに与えると誓われたその地に入ってそこを所有するよう、
彼らに命じられました。

イザヤ書48:21 
主が荒れ果てた地を通らされたときも、彼らは渇くことがなかった。
主は彼らのために岩から水を流れ出させ、
岩を裂いて水をほとばしり出させられた。

 今日の、神が砂漠で岩から水を出させた、という出来事は聖書の中で何度も思い出させられて、今も神が私たちの状況に働いて、荒野に泉を湧き上がらせてくださる、という信頼を呼び起こしてくれるのです。そして、それはただ神が全能だから、奇蹟もお茶の子さいさいな神様だから、というだけではありません。神が私たちを愛し、憐れみ、私たちの不信仰に心を引き裂かれてでも、なお私たちを潤し、いのちを注いで止まないお方だからです。神の、私たちへの深い慈しみが、荒野に泉を湧き上がらせもし、毎日の水やパンや、当たり前のような沢山の出来事に、込められているのです。

出エジプト記17章7節それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが『主は私たちの中におられるのか、おられないのか』と言って、主を試みたからである。
 この場所にはマサ(試み)やメリバ(争い)という名前がつけられた、と聖書は結んでいます。ただ岩から水が与えられただけでなく、水が与えられるのに、民がモーセと争い、神様を試したこと、その失敗の歴史を胸に刻もう、そういうエピソードです。

 出エジプトの旅はまだまだ始まったばかりです。彼らが進んだのは、荒野であって、オアシスの中ではありませんでした。いつも水があったのでもありません。私たちの人生もそうです。いつも神様が必要を満たして、すぐに奇蹟を起こしてくれるわけではない。それは、私たちの人生が旅だからです。その途中途中で、確かに必要は満たされて、私たちは旅に慣れていくでしょう。危険を避け、別れ道では賢い選択をする。それでも予想もしないハプニングが起きる。そういう私たちの旅の全体が、私たち自身ではなく、この世界をお造りになった神の手の中にある。そして、神は私たちの必要をその時その時満たしてくださり、石も泉に、禍も益に変えて、目的を果たしてくださるのです。

「造り主なる主よ。荒野のイスラエルの旅を導いたように、私たちをも不思議な支えの中に導いてください。私たちが飢え渇く時、どうぞ不満を秘めてしまうことがないよう助けてください。私たちのために打たれた主イエスが、恵みをもって日々私たちを潤してください。今までの数々の恵みをも思い起こしながら、私たちの不信心や疑いを超えて真実なあなたに、私たちの心の求めを、どう申し上げたら良いかも教えてください」
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2021/10/3 マタイ伝25章1~13節「いつでもよいように」

2021-10-02 13:28:27 | マタイの福音書講解
2021/10/3 マタイ伝25章1~13節「いつでもよいように」

 今日の譬えは「十人の娘の譬え」と言われます。「ともしび」を持って花婿を迎えに出る十人の娘が登場します。「ともしび」はマタイの福音書ではここだけに出て来ますが、他では三階建ての屋上間や、祭司の家の庭の灯りにも使われます。ちょっと裕福な家では日常的に点されていた灯りでしょう[1]。それをもって花婿を迎えに出ることはあるにせよ、基本は普段使いの明かりなのです。花婿を迎えるためだけなら、それまで火は消して、誰か一人が灯火を守っていたほうが遥かに「賢い」でしょう。しかし、娘達は灯火を消さずに点けていました。賢い娘達は、油を一緒に持っていました。常に灯火は灯し続けているもの、だから油もいつも必要と考えていました。そういう普段の生活の中に、花婿が到着したら、その灯火をもって迎えに出ようとしたのです。反対に、それ以外の五人は、油なしに灯火だけ点していました。「花婿のお迎えにさえ間に合えば良い、油は足りるだろう」と思ったのなら、真に愚かな事です[2]。
 この前の24章でずっと語られたのは、終わりの時はいつか、その時には信仰深そうにしようという態度に対して、イエスが、いつでも神の前に忠実に生きなさい、という心得でした。神の大きな祝福を知った者として、今ここに生きるのです。ここでもそれが言われています[3]。
 「ともしび」の元となった「照らす」は5章14~16節の「世の光」で出て来ます[4]。
あなたがたは世の光です。…明かりをともして…燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。…あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです[5]。

 イエスは弟子たちを「世の光」だと言われました。その灯火が輝き続けるには、当然ながら「油」が必要です。この「油」という言葉も、マタイではここ以外に出て来ませんから、油が何の象徴かというよりも、油なしに灯火を付け続けて、消えそうになって慌てるという愚かさがポイントでしょう[6]。イエスが私たちを「世の光」と言われるのは、まずイエスが私たちに、十分な油の潤いのような恵みを下さるからです。罪の赦し、神を私たちの天にいます父と呼べる関係、将来の希望、また今ここで神の家族である教会の交わりを下さっています。
 そして、その恵みをじっくりと味わうために、週に一日を安息する生活や、ひとりで静まること、あるいは一緒に食卓を囲んで食事をすること、そういう油の継ぎ足しに時間をかけよと招かれます。私たちが、主からの恵みをゆっくりいただいて、私たちの心の渇きや罪の重荷、悲しみや問題を十分に取り扱うこと。それこそが、見せかけの光でなく本物の灯火であるためには欠かせないことなのです。まず自分が恵みを受けること、祈ること、休むこと、静まったり交わりを持ったりする。そういう見えない補給が必要です。主は豊かに私たちを養われます。その養いなしに、勢いで輝くことなど出来ないのです。そのセルフケアなしに、最後に主にお会いする時にさえ、なんとか輝いていれば良い、というような心持ちは、愚かなことです[7]。

 しかしそれが出来ないと主は戸を閉じられるのでしょうか。私たちの自己管理が貧しくて、最後には灯火が消えそうになるなら、主は
 「私はあなたがたを知りません」
と言い捨てられるのでしょうか。
 いいえ、この譬えはこの先26章の出来事への伏線です。いよいよ逮捕されて十字架に架けられる前夜、イエスはゲッセマネの園に行き、祈られました。その時、ペテロたち三人を連れていき、
「目を覚ましていなさい」
とここにある言葉でペテロに仰います[8]。それなのに、ペテロたちは
「眠って」
しまいます[9]。それを三度も繰り返します。そのペテロたちに、イエスは「わたしはあなたがたを知らない」と仰ったでしょうか。いいえ、
「知らない」
と言ったのはペテロたちの方でした。眠ってしまい、主を知らないと言うペテロをも、支えて、立ち直らせてくださったのが主です[10]。それが、私たちの姿なのでしょう。
 この譬えそのものが
「天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘…そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」
と言う譬えです。「愚かな娘は入れない御国」ではなく、「天の御国(イエスの支配)は賢い娘ばかりでなく、愚かな娘もいる。それが天の御国だ」というようです[11]。私たちが信じるイエスは、私たちを愛され、
痛んだ葦を折ることなく、
くすぶる灯心を消すこともない。
さばきを勝利に導くまで。[12]
と言われる真実な神です。この世界の、燻る灯心を消さず、何度でも燃え立たせるお方です[13]。主のおいでの時に、その火が消えそうだったとしても、「それでは体裁がマズい」と慌てて油を買いに行く必要はない。その消えそうな火を消さないのが主です。
 同じように、普段は油を買いに出かけることは必要だし、「その間に花婿が来たらどうしよう」などと心配は無用です。油を買いに行くことも、眠くなったら寝ておくことも必要です。私たちが油断しやすく、外側ばかりにかまけて、自分の内側が燃料切れになってしまいやすいことも、イエスには周知のことです。だから、イエスの恵みをいただくために時間を取ることが必要です[14]。そうして良いのです。
 私たちの弱さ、必要、闇を、重荷を主イエスは深く知り、その私たちとともにいてくださいます。その恵みへの正直な驚きや喜び、慰めや平安が、私たちの内に点る光です。良い人に見せようとか、無理をしてでも明るくするとか、そういう光り方から自由にされたのです。主にあって、欠けや痛みもあるまま、重荷を下ろすのです。夜にはぐっすり眠って、休みを大事にして、主の恵みを味わうことに十分時間を取る。それが、主を知る時に始まる油(充電)です。こういう主の恵みを今ここで戴いている事が、私たちを「ともしび」として誰かに主を伝えるのです。
 その方が来られる日、その時は私たちには分かりません。その時にどうするか、ではなく、今その主の豊かな恵みに養われているなら、眠っている時に主がおいでになっても、そのまま主を迎えに出れば良い。そういう生き方こそ、「目を覚まして」いる生き方なのです。

「主の深い恵み、限りない慈しみ、ほの暗い灯火をも守られるお心を知らされた幸いを感謝します。あなたが私たちの神、世界の王でいてくださり、私たちをここから「世の光」として送り出してくださいます。今、私たちは小さな灯火を胸に、ここから出て行きます。主の十字架の愛と復活の喜びが私たちを通しても証しされますように。私たちのその歩みが、主の恵みに支えられてある人生全体が、再び来られるあなたをお迎える道筋の灯火となりますように」

脚注:

[1] ヨハネの福音書18:3(それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。)、使徒の働き20:8(私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんついていた。)、ヨハネの黙示録4:5(御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。)、ヨハネの黙示録8:10(第三の御使いがラッパを吹いた。すると、天から、たいまつのように燃えている大きな星が落ちて来て、川の三分の一とその水源の上に落ちた。)。ほかにも「ともしび」と訳される語にはルフノスがありますが(マタイ5:15、ヨハネ5:35など)、これは小さなロウソクや燭台を表すものです。

[2] 愚か・賢いは、24:45とのつながりで、ともしびを灯し続ける油への油断ない準備を表します。7章の「砂の上の家と岩の上の家」にもつながります。

[3] たとえ、この「油」を「聖霊」の象徴として読むのだとしても、それは私たちに「主のお迎えのために、聖霊を祈って、私たちを整えていこう」という宗教的な勧告にはならないでしょう。聖霊の働きは、私たちをキリストに似た者へと変えること、聖霊の実は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。再臨待望とは、宗教的な準備ではなく、主の統治を今ここで示すような、神への愛と、互いへの愛へと方向付けることです。

[4] マタイの福音書5章14~16節。

[5] 世の光。それは、主の律法に従って、良い行い・兄弟愛を実践する生き方です。ただ、花婿の道を照らすだけでなく、花婿の願ったのは、食事時にしもべたちに食事を与える忠実で賢いあり方だということです。なにか「成金趣味」で、自分の花道を華やかに期待するような花婿ではないのです。

[6] もちろん、聖霊とか豊かさ、というイメージが聖書の「油」には伴います。それも、自分と神との関係だけに留まらない、他者を照らす光を産む「油」です。

[7] 重ねて言いますが、灯火を、油なしに絶やさないことは出来ません。時として、灯火をさげて、油を足すこと、油を買いに出かけることも必要なのです。いつ帰ってくるか、に気を取られて、この当たり前のメンテナンスを疎かにして、結果、油が足りなくなる。そんなことは、主人も賢いとは思わないでしょう。灯火には油が、電気にはバッテリーの充電が、人間には食事や眠り、睡眠や休息、養いや安心、学びが必要です。主の前に静まること、主からの豊かな恵みを全身でいただくために、惜しまずに時間を取ることが必要です。主は、私たちに、心が空っぽなまま輝くだなんて無理難題は言いません。(もしそうだとしたら、愚かなあり方です)。神の豊かな恵みを十分に戴く時に、私たちは地の塩、世の光とならずにはおれないのです。悲しみ、怒り、恐れ、罪や悩み、それらの重荷を主は持って来なさいと仰います。私たちの心の闇、病気、間違った恵みならざる生き方を、癒やすと仰います。そのお方の前に、重荷を下ろして、じっくりと憩うこと、その結果として私たちが主の光を映し出すことがあります。その光を、また毎週毎日、手入れしながら、自分を憩わせながら、歩む時、私たちは主をお迎えする時にも、慌てることがなくて済むと知っているのです。

[8] マタイの福音書26:38~41「そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」…40それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。41誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」」

[9] 5節の「寝入った」カシュードーは、8:24(すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。)、9:24(「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。)、13:25(ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。)、25:5(花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。)、26:40(それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。)、26:43(イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。)、26:45(それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。)で使用。

[10] 「知りません」7:23(しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』)、10:33(しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います)、26:34(イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」35ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。)

[11] 勿論、「愚かでもいい」じゃありません。もし、「それでも最後には救われるならいい」と考えるならそれ自体がここで問い直されている事です。私たちの信仰は、やがてイエスに見せるためだけ、神に見られた時に燃えていればいい、燃えていなくてもいいならもっと良い、と考えるようなものではありません。やがての「救い」に入れられるためだけの許可証ではないのです。

[12] マタイの福音書12章20節。「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。痛んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。異邦人は彼の名に望みをかける。」イザヤ書42章1~4節の引用。

[13] 「消えそうです」スベンニュミ ここと12:20「くすぶるともしびを消すことなく」。そう、イエスは、消えそうな灯をも、消さないお方です!

[14] お気づきのように、賢い娘達は眠らずに起きていた、という文字通りの意味で「目を覚まして」いたわけではなく、彼女たちも眠くなって、寝入ったのです。でも、その間もランプは油を燃やして減らし続ける。だから、油を絶やさずにいることは当然必要です。その、単純な事実を弁えていたのが、この娘達が賢い、目を覚ましていたと言われる違いでしょう。

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