[1] 原文の14節の始まりは、「天の御国」はなく、13節と結ぶ接続詞ガル(なぜなら)があります。「なぜなら、このようだからです」と始まっています。この譬えも、「13ですから、目を覚ましていなさい。その火、その時をあなたがたは知らないのですから。」の理由です。
[2] 19章では朝から働いた労働者にも最後の一時間しか働かない労働者にも同じ一デナリを与える農園主が語られました。18章では一万タラント(二十万年分の年収)の借金を棒引きする王でした。
[3] 「財産」19:21(富める青年)、24:47(まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。)
[4] 元々商才があったから倍に儲けたとも想像できますが、こんな大金、見たこともないのに、商売をしてみたら、なんと倍に運用しちゃった、でもいいでしょう。あくまでもこれは譬えですから、あまり四角四面に考えたら勿体ないです。私たちの経験値から「きっとこの五タラントのしもべは、商才があったのだろう。一タラントのしもべは、こんな不甲斐なさだから、一タラントしか預からなかったのだ」などと結びつけやすいのですが、神の譬えは、私たちの経験値・憶測・常識をひっくり返すものであるのです。
[5] 「ご覧ください」イドゥー(ヘブル語「ヒンネー」)は、聖書で頻出する注意を促すことばですが、マタイではこの三カ所と、26章65節で「なんと」と訳される四カ所のみです。
[6] ルカの福音書の並行記事「ミナの譬え」では、直訳すれば「あなた様の一ミナが十ミナを儲けました」という言い方になっています。ルカの福音書19章12~27節。
[7] 「よくやった」ユー 感謝ユーカリストー 祝福ユーロゲオー。マタイでここの2回のみ。Well done! それでもねぎらってくださる。日本語ですと、どうしてもかしこまった褒め言葉に聞こえてしまいますが、主人のこどものような大喜びを(そして、しもべもそうであることを)思い浮かべたいものです。
[8] 今、銀行の利子は0.001%だから、それでも良いとしたら、これまた太っ腹な話ですが、私たちが神からお預かりした命は、そんなつまらないものではありません。
[9] 「厳しい方」と言ったのは本心というより責任転嫁でしょうが、神の心には思い至らない、とても卑しく殺伐とした生き方しかありません。彼は外に追い出されても、後悔するより恨みがましく「歯ぎしり」するだけですし、もし追い出されず、主人の喜びをともに喜ぶよう招かれたとしても、そこにいることには御免被るでしょう。
[10] 神がこの世界に与えられている大事な法則の一つは「種まきと刈り取りの法則」です。
[11] 24章からずっと見てきたように、弟子や私たちが「世の終わり」に向けて不安や好奇心をかき立てられる中、イエスは将来については心配せず、今ここで神の言葉に生きることへと、見る目を変えてくださいました。ですからここでも、私たちは、今私たちに与えられた歩みを主の恵みの中で見ることを教えられましょう。終わりの時に、何と言い抜けるか、神のせいにしたり、誰かのせいにしたりすればいいではなく、今ここでの生き方が、結局、最後の時に向かう最善の備えとなるのです。
[12] 儲けた話ばかりではない、どんな商売や仕事も、順調な事ばかりではないように、失敗も損もあって、破産もあったかもしれない。ここでは、倍に増やした二人のしもべと、土に埋めたしもべの、極端な二人しか出て来ませんから、前者でなければ、後者、と決めつけやすいでしょうが、実際は、この間にある様々なバリエーションに入るのがほとんどの人生です。ですからそれを「私は良い忠実なしもべにはなれなかった」と卑下するのは、譬えの本意ではないでしょう。
[13] 「素晴らしき哉、人生!」では、自分なんか生まれてこないほうが良かった、と絶望する主人公が、「自分が生まれなかった世界」を体験することで、生きている喜びを取り戻すストーリーが見事に描かれています。オススメです。
[14] 21、23節の「主人の喜びをともに喜んでくれ」は「おまえの主人の喜びに入りなさい」という文です。自分の喜びへと招き入れる、喜びの神であるなら、私たちも信頼や感謝や忠実でありたいと願います。しかし、神を「蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい」神と捉えるならば、私たちのうちには距離、不安、黙従、被害者意識、対立などが大きくなってしまいます。
豊かに飲ませてくださった。
砂漠で いと高き方に逆らった。
欲に任せて食べ物を求めた。
「荒野で食事を備えることが 神にできるのか。
水が湧き出て 流れがあふれた。
だが神は パンも与えることができるのか。
民のために 肉を用意できるのか。」
メリバでのように 荒野のマサでの日のように。
わたしを試した。わたしのわざを見ていたのに。
硬い岩を 水のあふれる泉に。
[1] ヨハネの福音書18:3(それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。)、使徒の働き20:8(私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんついていた。)、ヨハネの黙示録4:5(御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。)、ヨハネの黙示録8:10(第三の御使いがラッパを吹いた。すると、天から、たいまつのように燃えている大きな星が落ちて来て、川の三分の一とその水源の上に落ちた。)。ほかにも「ともしび」と訳される語にはルフノスがありますが(マタイ5:15、ヨハネ5:35など)、これは小さなロウソクや燭台を表すものです。
[2] 愚か・賢いは、24:45とのつながりで、ともしびを灯し続ける油への油断ない準備を表します。7章の「砂の上の家と岩の上の家」にもつながります。
[3] たとえ、この「油」を「聖霊」の象徴として読むのだとしても、それは私たちに「主のお迎えのために、聖霊を祈って、私たちを整えていこう」という宗教的な勧告にはならないでしょう。聖霊の働きは、私たちをキリストに似た者へと変えること、聖霊の実は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。再臨待望とは、宗教的な準備ではなく、主の統治を今ここで示すような、神への愛と、互いへの愛へと方向付けることです。
[4] マタイの福音書5章14~16節。
[5] 世の光。それは、主の律法に従って、良い行い・兄弟愛を実践する生き方です。ただ、花婿の道を照らすだけでなく、花婿の願ったのは、食事時にしもべたちに食事を与える忠実で賢いあり方だということです。なにか「成金趣味」で、自分の花道を華やかに期待するような花婿ではないのです。
[6] もちろん、聖霊とか豊かさ、というイメージが聖書の「油」には伴います。それも、自分と神との関係だけに留まらない、他者を照らす光を産む「油」です。
[7] 重ねて言いますが、灯火を、油なしに絶やさないことは出来ません。時として、灯火をさげて、油を足すこと、油を買いに出かけることも必要なのです。いつ帰ってくるか、に気を取られて、この当たり前のメンテナンスを疎かにして、結果、油が足りなくなる。そんなことは、主人も賢いとは思わないでしょう。灯火には油が、電気にはバッテリーの充電が、人間には食事や眠り、睡眠や休息、養いや安心、学びが必要です。主の前に静まること、主からの豊かな恵みを全身でいただくために、惜しまずに時間を取ることが必要です。主は、私たちに、心が空っぽなまま輝くだなんて無理難題は言いません。(もしそうだとしたら、愚かなあり方です)。神の豊かな恵みを十分に戴く時に、私たちは地の塩、世の光とならずにはおれないのです。悲しみ、怒り、恐れ、罪や悩み、それらの重荷を主は持って来なさいと仰います。私たちの心の闇、病気、間違った恵みならざる生き方を、癒やすと仰います。そのお方の前に、重荷を下ろして、じっくりと憩うこと、その結果として私たちが主の光を映し出すことがあります。その光を、また毎週毎日、手入れしながら、自分を憩わせながら、歩む時、私たちは主をお迎えする時にも、慌てることがなくて済むと知っているのです。
[8] マタイの福音書26:38~41「そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」…40それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。41誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」」
[9] 5節の「寝入った」カシュードーは、8:24(すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。)、9:24(「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。)、13:25(ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。)、25:5(花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。)、26:40(それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。)、26:43(イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。)、26:45(それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。)で使用。
[10] 「知りません」7:23(しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』)、10:33(しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います)、26:34(イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」35ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。)
[11] 勿論、「愚かでもいい」じゃありません。もし、「それでも最後には救われるならいい」と考えるならそれ自体がここで問い直されている事です。私たちの信仰は、やがてイエスに見せるためだけ、神に見られた時に燃えていればいい、燃えていなくてもいいならもっと良い、と考えるようなものではありません。やがての「救い」に入れられるためだけの許可証ではないのです。
[12] マタイの福音書12章20節。「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。痛んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。異邦人は彼の名に望みをかける。」イザヤ書42章1~4節の引用。
[13] 「消えそうです」スベンニュミ ここと12:20「くすぶるともしびを消すことなく」。そう、イエスは、消えそうな灯をも、消さないお方です!
[14] お気づきのように、賢い娘達は眠らずに起きていた、という文字通りの意味で「目を覚まして」いたわけではなく、彼女たちも眠くなって、寝入ったのです。でも、その間もランプは油を燃やして減らし続ける。だから、油を絶やさずにいることは当然必要です。その、単純な事実を弁えていたのが、この娘達が賢い、目を覚ましていたと言われる違いでしょう。