聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/10/3 出エジプト記17章「さばくに湧いた水」こども聖書㉙

2021-10-03 15:49:55 | こども聖書
2021/10/3 出エジプト記17章「さばくに湧いた水」こども聖書㉙

 神は、奴隷とされてこき使われていたイスラエル人を、その奴隷生活から救い出してくださいました。そうして約束の地、カナンの地に向かう旅を始めさせました。その旅の途中で、色々な出来事が起きます。その一つが、水不足です。飲む水がなくて、民が不平を言い、神と争ってしまうのです。出エジプト記17章にはこうあります。
17:3民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」

 水がないことは大変です。人が生きるのに水は必要です。水がないのは切実です。でも、ここまで彼らはパンを与えられ、肉も与えられてきたのです。いや、永遠かと思えた奴隷生活から解放されて、沢山の奇蹟も体験してきたのです。でも、そうした奇蹟のドラマは、この時に助けにはなりません。かえって、自分たちは助けられて当然、水がないなんてモーセが悪い、神様が悪い、文句を言って何が悪い、という「お客様意識」になっています。そして、殺気だってモーセに詰め寄っています。
4そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」
 でもモーセは、恐れて逃げ出したりせず、自分の必要を真っ直ぐに申し上げています。
5主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。6さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」…

 「杖を持って岩を打て」と仰るのです。その岩とは何でしょうか。主がその岩の上で、あなたの前に立つと仰った岩ですね。この時、主は雲の柱でイスラエルの民の前におられました。その雲の柱が、岩の上に移動したのかもしれません。主の足台、神の御座のような岩です。その、聖なる岩を、モーセの杖で打てと仰ったのです。神が立っている岩を打つ。恐れ多いことです。でもそうせよと主は仰いました。恐れ多い事を仰います。

 今まで、エジプトの王ファラオを罰するために使われてきたモーセの杖で、今打たれるべきは、神の恩を忘れて不平を言って迫る、イスラエルの民であったはずです。彼らの立っている地面を打っても何の文句も言えません。しかし、その代わりに主は、ご自身が立っている岩を、モーセの杖で打たせました。それは、民の不平が、頑なさが、どれほど神の心を打って、神を悲しませているか、ということではないでしょうか。人間の、神に対する信頼のなさ、疑り深さは、どれほど神の心を痛めているのでしょうか。

 それは、神が人間をどれほど愛し、私たちをどれほど深く思ってくださっているかの現れです。天地を作られた、宇宙よりも偉大な神が、その中の小さな星に住む、小さな人間のために、心を痛められるのです。水がなければ死んでしまう弱い生き物のために、限りないご配慮をしてくださるのです。そして、その憐れみが、民を生かすのです。
 モーセが杖で、神の立つ岩を打った時、岩から水が出るのです。神が人間のために、心を痛め、神ご自身が傷ついてまでも、人間を受け止めてくださる。その憐れみによって、私たちはいのちをいただき、養われるのです。

 後に、新約聖書で、使徒パウロは今日のところを元にこう書いています。
Ⅰコリント十1~4…私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。2そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、3みな、同じ霊的な食べ物を食べ、4みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。

 岩はキリストを現し、その岩から水が飲んだことは、キリストが私たちにいのちの水を下さることを予告している。確かにキリストは、よく「水」にたとえてご自分の恵みを語られました。ヨハネ4章13~14節では、サマリヤの井戸で女性にこう言いました。
イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 イエスが私たちのために、十字架に掛かられました。神がご自身の岩を打たせて、水を出させたように、イエスが十字架によっていのちを下さるのです。信仰生活の出発の洗礼は、主が私たちに必要な水を与えてくださる約束です。目に見えるのは砂漠で、岩ばかりだとしても、神は、そこから水を湧き出させることが出来るお方です。



詩114:8
神は 岩を水の潤う沢に変えられた。
硬い岩を 水のあふれる泉に。

詩篇78:15~20節
荒野で 神は岩を割り 大いなる深淵の水を
豊かに飲ませてくださった。

17けれども 彼らはなおも神に罪を犯し
 砂漠で いと高き方に逆らった。
18彼らは心のうちで神を試み
 欲に任せて食べ物を求めた。
19そのとき彼らは神に逆らって言った。
 「荒野で食事を備えることが 神にできるのか。
20確かに 神が岩を打たれると
水が湧き出て 流れがあふれた。
だが神は パンも与えることができるのか。
 民のために 肉を用意できるのか。」

詩篇95篇8~9節
あなたがたの心を頑なにしてはならない。
メリバでのように 荒野のマサでの日のように。
あなたがたの先祖は そこでわたしを試み
わたしを試した。わたしのわざを見ていたのに。

詩篇107篇33節
主は豊かな川を荒野に 水の湧き上がる所を潤いのない地に
35節 主は荒野を水のある沢に 砂漠の地を水の湧き上がる所に変え

詩篇114篇8節
  神は 岩を水の潤う沢に変えられた。
 硬い岩を 水のあふれる泉に。

申命記8:15 
燃える蛇やサソリのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない乾ききった地を通らせ、硬い岩からあなたのために水を流れ出させ、

ネヘミヤ9:15 
彼らが飢えたときには、天からパンを与え、
渇いたときには、岩から水を出し、
彼らに与えると誓われたその地に入ってそこを所有するよう、
彼らに命じられました。

イザヤ書48:21 
主が荒れ果てた地を通らされたときも、彼らは渇くことがなかった。
主は彼らのために岩から水を流れ出させ、
岩を裂いて水をほとばしり出させられた。

 今日の、神が砂漠で岩から水を出させた、という出来事は聖書の中で何度も思い出させられて、今も神が私たちの状況に働いて、荒野に泉を湧き上がらせてくださる、という信頼を呼び起こしてくれるのです。そして、それはただ神が全能だから、奇蹟もお茶の子さいさいな神様だから、というだけではありません。神が私たちを愛し、憐れみ、私たちの不信仰に心を引き裂かれてでも、なお私たちを潤し、いのちを注いで止まないお方だからです。神の、私たちへの深い慈しみが、荒野に泉を湧き上がらせもし、毎日の水やパンや、当たり前のような沢山の出来事に、込められているのです。

出エジプト記17章7節それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが『主は私たちの中におられるのか、おられないのか』と言って、主を試みたからである。
 この場所にはマサ(試み)やメリバ(争い)という名前がつけられた、と聖書は結んでいます。ただ岩から水が与えられただけでなく、水が与えられるのに、民がモーセと争い、神様を試したこと、その失敗の歴史を胸に刻もう、そういうエピソードです。

 出エジプトの旅はまだまだ始まったばかりです。彼らが進んだのは、荒野であって、オアシスの中ではありませんでした。いつも水があったのでもありません。私たちの人生もそうです。いつも神様が必要を満たして、すぐに奇蹟を起こしてくれるわけではない。それは、私たちの人生が旅だからです。その途中途中で、確かに必要は満たされて、私たちは旅に慣れていくでしょう。危険を避け、別れ道では賢い選択をする。それでも予想もしないハプニングが起きる。そういう私たちの旅の全体が、私たち自身ではなく、この世界をお造りになった神の手の中にある。そして、神は私たちの必要をその時その時満たしてくださり、石も泉に、禍も益に変えて、目的を果たしてくださるのです。

「造り主なる主よ。荒野のイスラエルの旅を導いたように、私たちをも不思議な支えの中に導いてください。私たちが飢え渇く時、どうぞ不満を秘めてしまうことがないよう助けてください。私たちのために打たれた主イエスが、恵みをもって日々私たちを潤してください。今までの数々の恵みをも思い起こしながら、私たちの不信心や疑いを超えて真実なあなたに、私たちの心の求めを、どう申し上げたら良いかも教えてください」
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