2021/10/3 出エジプト記17章「さばくに湧いた水」こども聖書㉙
神は、奴隷とされてこき使われていたイスラエル人を、その奴隷生活から救い出してくださいました。そうして約束の地、カナンの地に向かう旅を始めさせました。その旅の途中で、色々な出来事が起きます。その一つが、水不足です。飲む水がなくて、民が不平を言い、神と争ってしまうのです。出エジプト記17章にはこうあります。
17:3民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」
水がないことは大変です。人が生きるのに水は必要です。水がないのは切実です。でも、ここまで彼らはパンを与えられ、肉も与えられてきたのです。いや、永遠かと思えた奴隷生活から解放されて、沢山の奇蹟も体験してきたのです。でも、そうした奇蹟のドラマは、この時に助けにはなりません。かえって、自分たちは助けられて当然、水がないなんてモーセが悪い、神様が悪い、文句を言って何が悪い、という「お客様意識」になっています。そして、殺気だってモーセに詰め寄っています。
4そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」
でもモーセは、恐れて逃げ出したりせず、自分の必要を真っ直ぐに申し上げています。
5主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。6さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」…
「杖を持って岩を打て」と仰るのです。その岩とは何でしょうか。主がその岩の上で、あなたの前に立つと仰った岩ですね。この時、主は雲の柱でイスラエルの民の前におられました。その雲の柱が、岩の上に移動したのかもしれません。主の足台、神の御座のような岩です。その、聖なる岩を、モーセの杖で打てと仰ったのです。神が立っている岩を打つ。恐れ多いことです。でもそうせよと主は仰いました。恐れ多い事を仰います。
今まで、エジプトの王ファラオを罰するために使われてきたモーセの杖で、今打たれるべきは、神の恩を忘れて不平を言って迫る、イスラエルの民であったはずです。彼らの立っている地面を打っても何の文句も言えません。しかし、その代わりに主は、ご自身が立っている岩を、モーセの杖で打たせました。それは、民の不平が、頑なさが、どれほど神の心を打って、神を悲しませているか、ということではないでしょうか。人間の、神に対する信頼のなさ、疑り深さは、どれほど神の心を痛めているのでしょうか。
それは、神が人間をどれほど愛し、私たちをどれほど深く思ってくださっているかの現れです。天地を作られた、宇宙よりも偉大な神が、その中の小さな星に住む、小さな人間のために、心を痛められるのです。水がなければ死んでしまう弱い生き物のために、限りないご配慮をしてくださるのです。そして、その憐れみが、民を生かすのです。
モーセが杖で、神の立つ岩を打った時、岩から水が出るのです。神が人間のために、心を痛め、神ご自身が傷ついてまでも、人間を受け止めてくださる。その憐れみによって、私たちはいのちをいただき、養われるのです。
後に、新約聖書で、使徒パウロは今日のところを元にこう書いています。
Ⅰコリント十1~4…私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。2そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、3みな、同じ霊的な食べ物を食べ、4みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。
岩はキリストを現し、その岩から水が飲んだことは、キリストが私たちにいのちの水を下さることを予告している。確かにキリストは、よく「水」にたとえてご自分の恵みを語られました。ヨハネ4章13~14節では、サマリヤの井戸で女性にこう言いました。
イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
イエスが私たちのために、十字架に掛かられました。神がご自身の岩を打たせて、水を出させたように、イエスが十字架によっていのちを下さるのです。信仰生活の出発の洗礼は、主が私たちに必要な水を与えてくださる約束です。目に見えるのは砂漠で、岩ばかりだとしても、神は、そこから水を湧き出させることが出来るお方です。
詩114:8
神は 岩を水の潤う沢に変えられた。
硬い岩を 水のあふれる泉に。
詩篇78:15~20節
荒野で 神は岩を割り 大いなる深淵の水を
豊かに飲ませてくださった。
豊かに飲ませてくださった。
17けれども 彼らはなおも神に罪を犯し
砂漠で いと高き方に逆らった。
砂漠で いと高き方に逆らった。
18彼らは心のうちで神を試み
欲に任せて食べ物を求めた。
欲に任せて食べ物を求めた。
19そのとき彼らは神に逆らって言った。
「荒野で食事を備えることが 神にできるのか。
「荒野で食事を備えることが 神にできるのか。
20確かに 神が岩を打たれると
水が湧き出て 流れがあふれた。
だが神は パンも与えることができるのか。
民のために 肉を用意できるのか。」
水が湧き出て 流れがあふれた。
だが神は パンも与えることができるのか。
民のために 肉を用意できるのか。」
詩篇95篇8~9節
あなたがたの心を頑なにしてはならない。
メリバでのように 荒野のマサでの日のように。
メリバでのように 荒野のマサでの日のように。
あなたがたの先祖は そこでわたしを試み
わたしを試した。わたしのわざを見ていたのに。
わたしを試した。わたしのわざを見ていたのに。
詩篇107篇33節
主は豊かな川を荒野に 水の湧き上がる所を潤いのない地に
35節 主は荒野を水のある沢に 砂漠の地を水の湧き上がる所に変え
詩篇114篇8節
神は 岩を水の潤う沢に変えられた。
硬い岩を 水のあふれる泉に。
硬い岩を 水のあふれる泉に。
申命記8:15
燃える蛇やサソリのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない乾ききった地を通らせ、硬い岩からあなたのために水を流れ出させ、
ネヘミヤ9:15
彼らが飢えたときには、天からパンを与え、
渇いたときには、岩から水を出し、
彼らに与えると誓われたその地に入ってそこを所有するよう、
彼らに命じられました。
イザヤ書48:21
主が荒れ果てた地を通らされたときも、彼らは渇くことがなかった。
主は彼らのために岩から水を流れ出させ、
岩を裂いて水をほとばしり出させられた。
今日の、神が砂漠で岩から水を出させた、という出来事は聖書の中で何度も思い出させられて、今も神が私たちの状況に働いて、荒野に泉を湧き上がらせてくださる、という信頼を呼び起こしてくれるのです。そして、それはただ神が全能だから、奇蹟もお茶の子さいさいな神様だから、というだけではありません。神が私たちを愛し、憐れみ、私たちの不信仰に心を引き裂かれてでも、なお私たちを潤し、いのちを注いで止まないお方だからです。神の、私たちへの深い慈しみが、荒野に泉を湧き上がらせもし、毎日の水やパンや、当たり前のような沢山の出来事に、込められているのです。
出エジプト記17章7節それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが『主は私たちの中におられるのか、おられないのか』と言って、主を試みたからである。
この場所にはマサ(試み)やメリバ(争い)という名前がつけられた、と聖書は結んでいます。ただ岩から水が与えられただけでなく、水が与えられるのに、民がモーセと争い、神様を試したこと、その失敗の歴史を胸に刻もう、そういうエピソードです。
出エジプトの旅はまだまだ始まったばかりです。彼らが進んだのは、荒野であって、オアシスの中ではありませんでした。いつも水があったのでもありません。私たちの人生もそうです。いつも神様が必要を満たして、すぐに奇蹟を起こしてくれるわけではない。それは、私たちの人生が旅だからです。その途中途中で、確かに必要は満たされて、私たちは旅に慣れていくでしょう。危険を避け、別れ道では賢い選択をする。それでも予想もしないハプニングが起きる。そういう私たちの旅の全体が、私たち自身ではなく、この世界をお造りになった神の手の中にある。そして、神は私たちの必要をその時その時満たしてくださり、石も泉に、禍も益に変えて、目的を果たしてくださるのです。
「造り主なる主よ。荒野のイスラエルの旅を導いたように、私たちをも不思議な支えの中に導いてください。私たちが飢え渇く時、どうぞ不満を秘めてしまうことがないよう助けてください。私たちのために打たれた主イエスが、恵みをもって日々私たちを潤してください。今までの数々の恵みをも思い起こしながら、私たちの不信心や疑いを超えて真実なあなたに、私たちの心の求めを、どう申し上げたら良いかも教えてください」