聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/1/10 ヨハネ黙示録21章1~4節「寄留者として生きる」ニュー・シティ・カテキズム52

2021-01-09 13:08:50 | ニュー・シティ・カテキズム
2021/1/10 ヨハネ黙示録21章1~4節「寄留者として生きる」ニュー・シティ・カテキズム52

 ニュー・シティ・カテキズムでのお話しも最後になります。第52問はこれです。
問52 私たちにとって、永遠の命にはどのような希望がありますか?
答 それは私たちに今の堕落した世界がすべてではないことを思い起こさせます。もうすぐ私たちは新しい都市で永遠に神と共に住み、神を喜ぶようになります。その新しい天と新しい地において、私たちは罪から完全に、かつ永遠に解放され、新しくされて回復された世界の中で、新しく復活したからだに生きるようになります。

 最後には「永遠のいのち」についての確認です。ここには「新しく」という言葉が、五回も繰り返されています。私たちは、やがて新しくされます。その「新しさ」は、もう古くされることのない新しさです。私たちの生活だと、新しいものは必ずやがて古くなります。
 「新年」も、十日経って、もう慣れてしまいました。新型の家電製品も自動車も「最新式」が交代し続けていきます。新しいオモチャはとても魅力的に見えますが、少しすれば、また次のものが出てくる、際限の無いゲームです。時間が続く限り、新旧が入れ替わり続けるのが、私たちの生活です。でも、その「時間」そのものが終わる時が来て、「永遠」が始まります。古びる時間の代わりに永遠の新しさが始まります。新しい年で、新しい天と新しい地において、新しくされて回復された世界で、新しく復活した体に生きるようになるのです。その世界は永遠に新しく、今の理解を超えています。
ヨハネの黙示録21章1節また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
 当時の人たちにとって「海」は、恐ろしい所、嵐になったら人を飲み込んでしまう、死に通じる場所だったようです。だから、そういう人たちの考えを配慮して「海はない」と言ってあげているのでしょう。そのように、私たちは今の世界の中でしか、将来をも想像することは出来ません。けれども、この今の世界そのものが「以前の天と以前の地」と呼ばれるように、やがて過ぎ去って、「新しい天と新しい地」が来るのです。それは、今の天と地のように、幸せも消え去り、神が見えない世界とは全く違う世界です。
 3私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
 4神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
 以前のものが過ぎ去ったから、涙も死も、悲しみも叫び声も苦しみもない。そういう将来を聖書の終わりに、ハッキリ約束しています。しかし、ここだけではありません。ここにある言葉は、実は聖書の中で繰り返している言葉です。
「神が人々とともに住み、人々は神の民となり、神は彼らの神となり、ともにいてくださる」。
 これは、聖書の最初から最後まで、神がアブラハムを選び、イスラエルの民と契約を結び、預言者たちを通して呼びかけ、繰り返して語っていたことです。神がともにおられる。私たちは神の民、神は私たちの神。主イエスもこの言葉を繰り返して、私たちと神との関係そのものを示してくださいました。私たちが何かをするとか、神が何かをしてくださるとか、そういう行動以上に、私たちが神のもの、神が私たちの神となってくださった、その新しい関係を語られたのです。それは、今すでに始まっていることです。
…今の堕落した世界がすべてではないことを思い起こさせます。…
とありました。今の世界がすべてではない。
 私たちの今の世界はすべてではありません。最新の製品も、人の言葉も、苦しみや悲惨も、成功も喝采も、その時その時、私たちにはそれこそすべてのように思えます。そう思っているうちに、いつの間にか次のものが来、また新しいものが訪れては消えていく。そのような移りゆく世界がすべてではなく、やがて新しい世界が来る。その時に向けて、私たちは進んでいるのです。

 今日の説教題を「寄留者として生きる」としました。聖書には、私たちを「寄留者」とか「旅人」として描く言葉がいくつもあります。私たちは、今この世界に住んではいますが、私たちの永遠の住まいはここではなく、やがての永遠の家にあります。だから今は、旅をしているのです。今のこの世界がどんなに魅力的でも、どんなに悲惨でも、それは私たちにとって一番の問題ではありません。旅の途中のその場所から、やがては腰を上げて、家に向かっていくのですから。いつか、私たちは死に、この世界のことに別れを告げる日が来ます。この世界で手にしたもので、新しい世界と関係のないものは、すべて朽ちてしまいます。
 その事を思い起こすなら、私たちの生き方は、今ここにあっても自由になります。「永遠のいのち」という言葉は私たちに、今の世界がすべてではないことを思い起こさせてくれる。まもなく、いつまでも新しい世界へと帰り着く。その家に向かって、私たちは帰っていくのだ、ということを思い起こさせてくれるのです。
 人は、将来に対して、色々な希望を持ちます。死後や世界の終わりの先にも、想像力を逞しく、幸せな世界を描きます。神様は、私たちのそうした想像力よりも、遙かに素晴らしく、創造主であるお方ですから、世界の宗教やキリスト教が描き出す永遠よりもすばらしい世界を用意されるでしょう。ここにあった
「罪から完全にかつ永遠に解放され、新しくされて回復された世界」
というのもどんな世界なのか、私たちには到底理解も説明も出来ません。

人が罪をもう問われないとはどういうことでしょう。
私たちが会う人たちは、お互い分かるのでしょうか?
嫌な人にも会うことになるのでしょうか?

 そんな疑問も、今は湧き上がります。

抑も「永遠」なんて飽きないのでしょうか? 
疲れないのでしょうか?

 そんな心配が全部、無用な想像で終わるような、素晴らしい回復を神は用意しておられます。神とお会いすること自体、今はまだ、私たちにとって緊張したり、恐ろしい気もしたりする事です。しかし、私たちは神と共に住み、神を喜ぶようになる。永遠に喜び、生き生きと輝き続ける将来があります。その時に向けて、神は今も私たちを運び、ここで私たちとともにいて、私たちの旅路を導いてくださいます。

「永遠なる神よ、私たちはあなたの御国の完成を心待ちにしています。私たちの涙が完全に拭い去られ、肉体の戦いに苦しむことのない日々を待ち望んでいます。どうか永遠のいのちへの確かな希望によって、今与えられている人生の試練に向かっていく勇気を得ることが出来ますように。アーメン。主イエスよ、来て下さい」
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2021/1/10 マタイ伝15章1~11節「手も心も洗おう」

2021-01-09 12:00:15 | マタイの福音書講解
2021/1/10 マタイ伝15章1~11節「手も心も洗おう」

 今日の箇所は、パリサイ人、律法学者たちがエルサレムから来たことから書き出されます。首都エルサレム、神殿のある総本山からもイエスの働きに対するクレームがつく。風向きが徐々に厳しくなる状況を感じさせながら、「手を洗う」ことがテーマにされます。
 今、手洗い、うがいが大事なことは言うまでもありません。ここに「イエスの弟子は手を洗わない」とあるからと言って、私たちも手を洗ったり感染を心配したりしなくていい、という事はありません。ここで言われているのは
「長老たちの言い伝え」
 当時のユダヤ教の伝統に沿った、宗教的な儀式としての手洗いです。「自分たちは世間の汚れに染まらない特別な民だ」、そう表すために食事の前には手を洗い、食事の途中でも手を洗い、手の洗い方も必要以上に丁寧に定めていました[1]。ユダヤ人が「異邦人(ユダヤ人以外の民族)」とは一緒に食事もしなかったことも初代教会で度々問題になりました[2]。手を洗って「みそぎ」をすることは、それにも通じる行為でした。しかしイエスはそんな形式的な儀式を弟子たちにさせなかったのです[3]。その事を、エルサレムの宗教家たちは問題視したのです。これに対してイエスは、逆に問い返されます。
3そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。
4神は『父と母を敬え』。また、『父や母をののしる者は、かならず殺されなければならない』と言われました。
5それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、
6その物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。

「父と母を敬え」
は神の戒め「十戒」で第五番目の、大事な神の言葉です。それを強く教えています。けれども、当時のユダヤ教の理解では、
「神へのささげ物」
の方が大事だ。神に捧げると一旦言葉にしたら、それはもう変えられない。うっかりでも意地悪ででも「神へのささげ物[4]」と言ったら、親も口を挟めない。そう規定していました。すると、神ご自身が仰有った、父と母を敬え、父や母を罵ることへの警告が、当時の「言い伝え」によって、神の名を借りて反故にされたわけです[5]。神を口先で敬いつつ、神の戒めを破って、人を罵っている。それならば、どんなに手を洗ったり外面を取り繕ったり、熱心に神へのささげ物をしたところで、その礼拝は、口先で神を敬うだけのむなしい、空っぽな信仰です。[6]
 10~11節でイエスは群衆を呼び寄せて、丁寧に警告されます。
「聞いて悟りなさい。11口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」
と。更に12~20節でも弟子たちにも、この事が確認されて、結びを似た言い方で繰り返されます。
17口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。18しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。
 「汚(けが)す」とは「汚(きたな)い」というより「俗っぽい」「普通(コモン)の」「共通している」という意味です。心がどっぷり汚れて汚らわしい、のではなく、人と変わらない、同じだという状態です[7]。当時のユダヤ教のしきたり(手を洗う、異邦人とは食事をしない、等)は「自分たちは普通とは違う。特別な神の民だ。俗世間には染まらない。他の人とは違うのだ」という象徴的な表現でした。しかし、神の戒めが指摘する「父と母を敬え」や、私たちの心から出て来る罵りや悪い考えの内面は、人間の外側をどうやっても「みそぎ」など出来ない、私たちの今の現実です。いくら手を洗ったり、外側を潔癖にしても、心の汚れ(普通さ)はごまかせません。
19悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。
20これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。
 手を洗っているから自分は他の汚れた人とは違う、と思い、そうして人を蔑んだり罵ったりしているなら、それこそが自分を汚す(他の人と変わらないと証明する)のです。このすり替えは、イエスの弟子や群衆だけでなく、昔の預言者から、そして、教会の歴史の中でも繰り返されてきた、人の陥りやすい勘違いです[8]。あれをしたら汚れる、あの人は汚れていて、触りたくもない、そんな○○だとすり替えやすい。人を外見や経歴や仕事、いろんな要素で値踏みします。自分たちは洗礼を受けているから、信徒としての義務を果たしているから、「あの人と自分は違う」と思いたいのが神の民です。そして自分には受け入れがたい人を見下して安心したがる。しかし、そういう冷たい心こそが、自分も他の人と変わらない証明です。

 イエスが明らかにされたように、神が求めているのは、儀式でもないし、自分の心を自浄努力できよめることでもないのです[9]。イエスは私たちの心が人と変わらないことをご存じです。人には立派に見えても、心の底は誰も大差ないことをご存じです。
 「敬いなさい、罵ることは死に値する」というなら、イエスは弟子たちとも私たちとも、一緒に食事をするどころか、手を翻して退けたでしょう。しかし、イエスは私たちの心を、罵るなと言われても変わりがたい深く病んでいる心を、誰よりも知った上で、手を翻さず、「手を洗ってこい」と命じることもなく、パンを食べていた。つまり、イエスは弟子たちと一緒に、パンを食べ、過ごしていました。イエスがその手を伸ばして、一緒にパンを食べてくださる。その交わりに心が洗われるのです[10]。

 正直に心を見れば、五十歩百歩、団栗の背比べである私たちと、それでもイエスはともにいてくださいます。教会は「自分たちは他の人とは違う」と自負する場ではなく、「お互いに変わらない私たちの所にイエスが来て下さった。私たちを汚らわしいと退けず、赦しと回復を与えてくださった」と告白する群れです。その証拠としての洗礼と聖餐を私たちのしるしとして戴いているのです。心にある罪や汚れも分かち合い、ともに食事をする交わりです[11]。そうした恵みの中で、私たちの心は洗われるのです。
 うわべへの囚われや人への悪い考えや罵りが洗い流され、人も敬い、本当に神を敬う心を、イエスは私たちに下さるのです[12]。

「天の父よ。問題を自分の外に置き、人のせいだと思いたがる欺きから、救い出してください。愛し敬うことを願うあなたの御心をいつの間にかすり替えて、隣人や家族や他者を非難し、恥ずべき思いを抱く潔癖症を、どうぞあなたの憐れみによって新しくしてください。この礼拝は決して空しい繰り返しではなく、あなたが招き入れて下さった場です。私たちを蔑むことなく愛し、赦して命を与えるあなたが、互いへの尊敬と心からの礼拝を回復させてください」

脚注:

[1] 手を洗うのは、衛生的なことではなく、「長老たちの言い伝え」、宗教的な慣習。信仰を持たない俗人たちとの一線を画する行為。異邦人と一緒に食事をしないことと同様。「手の洗い方についても、きちんとした規定がありました。まず、指先の方から洗います。その指先を洗った水が元に戻ってくるといけないので、だんだん、指先を上に上げていく。そうすると水が手首の方に落ちてきます。その水で手首の方を洗います。それから、もう一度、今度は手首の方から、逆に水を指先の方に流して汚れを落とす。つまり水を往復させるわけです。そういうやかましい規定があったのです。」加藤常昭『マタイによる福音書3』326頁。

[2] 使徒の働き11章、15章、またガラテヤ書2章など、参照。

[3] ルカ11:38では、イエスご自身が、きよめの儀式をしなかったことが書かれています。

[4] ヘブル語で「コルバン」と言いました。マルコ7章11節「それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら――』と言って、12その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。」 この「コルバン」と口走ったために、息子の結婚式に同席できなかった父親がいた、などの記録があるそうです。

[5] それこそは、イザヤ書でも明言されていた神への口先だけの礼拝、神から遠く離れた礼拝だと、7~9節で深く指弾するのです。

[6] 「敬う」が4節(父と母)8節(神)で重なっています。「神を敬う」と言いつつ、両親をも敬わないなら、神への礼拝も的外れです。「他者に対する責任を負おうとしない者にとって、神という言葉は意味をなさない」(

[7] 「汚れる(コイノオー)」と語根が同じなのが、「交わり(コイノニア)」です。「朱に交われば赤くなる」のごとく、混ざっている状態です。

[8] 外面的な行動や、経歴や、成功・安定などは、自分の特別さを保証しません。信仰的な行動も、洗礼、礼拝出席、奉仕、献金も含めて、私たちの「聖さ」を保証しません。お酒やタバコ、映画やダンスを「キリスト者としてあるまじきこと」として禁じ、それが悪魔の決定的な誘惑だと考える時代もありました。もちろん、私たちは自分の心身の健康のために、行動を選び、嗜癖となるものを避けるに越したことはありません。また、洗礼や聖餐、礼拝出席も「しなくていい」ことではありません。しかし、それらをしていればキリスト者であり、自分たちはきよく、汚れた世とは違う、ということではありません。私たちが他の人とは何も変わらないし、それを忘れて他者を裁きかねないからこそ、キリストに縋り、洗礼・礼拝・教会生活によって、守られていくのだ。

[9] 事実、ここでは「きよくなりなさい」というような勧めは、ひとこともありません。

[10] そしてやがて、その手でパンを裂いて弟子たちに渡され、その手に私たちのための釘を打たれ、血を流してくださったのです。今私たちは、その主の裂かれた手と流された血を、この手に戴くのです。自分で手を清めたり、普通の関わりをしたりしない以上に、イエスとの交わりを通して、また、主にあってともにパンを手に取り、ともに食事をし、交わりをすること。それが、イエスが示してくださった道でした。

[11] 勿論、その準備では衛生的な必要から手を洗いますし、今は感染予防をお互いのために配慮するからこそ、会食は慎んでいます。だからこそ、また一緒に聖餐を分かち合い、会食できる日を心待ちにしています。

[12] 哀歌3:40「自分たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。41自分たちの心を、両手とともに、天におられる神に向けて上げよう。

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