聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/1/12 ヤコブ書2章8~13節「境界線ある生き方」ニュー・シティ・カテキズム12

2020-01-12 15:59:19 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/1/12 ヤコブ書2章8~13節「境界線ある生き方」ニュー・シティ・カテキズム12

 今日は十戒の最後の2つ、
第九戒「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」
第十戒「あなたの隣人のものを欲しがってはならない」
の2つを覚えます。
 最初の「わたしの他に神があってはならない」から、「殺してはならない」と来て、姦淫、盗み、そして嘘、最後は「ほしがる」という心の中の思い。大きな事、ハッキリした悪から、段々と小さな事、見えないことになっていきます。神は、ご自身の他に神があることを禁じるだけではなく、人間が大きな罪からも小さな心の妬みからも自由になることを求められます。今日のヤコブ書の言葉でもこう言われていました。
ヤコブ2:10律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。11「姦淫してはならない」と言われた方は、「殺してはならない」とも言われました。ですから、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になっているのです。
 十戒は、私たちが人殺しや姦淫はしていないとしても、嘘や心の中で思いにおいて罪があるならば、自分は正しいなどと誇れないことを教えてくれます。確かに、他にいいことをしているから、と悪いことをしても良いわけではありません。むしろ、表面的には何の問題もないようでも、心の中に我が儘や醜い思いを隠している方が、厄介でしょう。警察につかまる事は何もしていないとしても、人の噂話ばかりをしたり、貧しい人を馬鹿にしたりしているほうが醜いことは多いのです。だから、第九戒と第十戒は、私たちが自分の言葉や心の在り方を見つめて、ハッとさせてくれる大切な戒めです。
第十二問 神は第九戒、十戒に何を求めていますか? 
答 第九戒は、私たちが嘘をつかず、だますことなく、愛をもって真理を語ること。第十戒は、私たちが満ち足りて、誰をもをねたまず、神が私たちや人々に与えたものを拒まないことです。
 第九戒の「隣人について偽証をしてはならない」は平たく言えば、嘘をつかないことです。嘘は人を騙すことになります。だから、正直に本当のことを言いましょう。クリスチャンになるとは、いい人になることではありません。自分に正直になれることです。ごまかしたり、事実を隠したりせず、正直になれるのです。でも、ここには
「愛をもって真理を語ること」
とあります。時には、本当のことをベラベラしゃべらないことが愛である場合もあります。「お家のどこにお金がある? クレジットカードの暗証番号は何番? 電話番号教えてよ」と聞かれても、正直に言う必要はありません。「言う必要がないから、違うことを話しましょう」とでも言えばいい。それに対して「冷たいなぁ。教えないなんて、もう遊んであげない」と言われても、気にすることはないのです。教えないことが冷たいとかケチだとか、誰かを仲間はずれにしていい、という考えの方が、大きな嘘なのです。聖書は、一番大事なのは愛だと言います。でも、私たちの周りには愛よりひどい言葉や思いがたくさんあります。すべての人が大切なのに、イジメや戦争やものを取り上げられることがあります。神がすべての人を愛しているのに、「あなたなんか愛されていない」「本当の私には価値がない」という言葉や考えが、深く染みついています。それこそ、大うそです。それは、世界の最初にヘビの形をしてサタンが人間に吹き込んだ、神を疑わせる嘘です。神は私たちを愛しています。私たちの本当の事、すべてを知り尽くした上で、私たちを愛しています。だから、私たちも神様からの愛をいただいて、真実を語り合うように勧められているのです。
 第十戒は「隣人のものをほしがってはならない」です。
「私たちが満ち足りて、誰をもをねたまず、神が私たちや人々に与えたものを拒まないことです」。
 聖書では「隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のもの」とあります。今は、奴隷や牛を持っている隣人のほうが少ないでしょう。また、周りの人のものをきっかけに、自分の生活をよくすることもあるでしょう。ここで言われているのはとても強く欲しがる思いです。心の中に、自分のものではないものを強く強く欲しがる。自分の家や暮らしに満足しないで、「あの人のようだったらいいのに」「あの家の方にはあれがあるのに僕にはそれがないから不公平だ」というような思いを強く持つ。それは、自分の生活と他の人の暮らしを混同した、とても不幸な考えです。
 「不幸になる一番簡単な方法は人と比べることだ」
という言葉があります。人は人、私は私です。比べることは止めて、自分が自分として生きる。それが妬みや不機嫌や惨めな思いから私たちを守ります。この「私は私、人は人」という健全な関係を
「境界線」
と呼びます。神は私たちを、一人一人、特別なものとして作り、出会わせてくださいました。私たちは、一人で生きていくことは出来ませんが、一緒に生きる事で自分を殺すのではなく、ますますみんながその人らしく生きていくのです。比べるために顔を合わせるのではなく、比べなくなる時に本当の意味で一緒に生きることが楽しくなるのです。それが、この
「隣人の家を欲しがってはならない」
と仰ることで神が示している、幸せへの道なのです。私たちは、この十戒によって、自分の中にある馬鹿馬鹿しい妬みから自由になります。私たちはすぐにそうは出来なくても、イエスが下さるのは、本当に自由で、正直な心です。そこで人に対しても、嫌々ではなく心から、あわれみを示すことが出来るのです。自分の境界線が守られている時に、安心して人も尊重できるのです。
 十戒は、神が私たちに望んでいる生き方を示しています。それは、そもそも私たちがこう生きるように造られている、このように生きる時に、私たちは最も伸び伸びと、幸せに、喜んで生きられる生き方です。ですが、私たちの心には今、罪があります。神に背いた、疑いや恐れが満ちています。しかし、そのような私たちのために、神は御子イエス・キリストを贈って下さいました。イエスは私たちに、神の恵みの言葉、真実を語ってくださいました。また、私たちを誰かと比べたりせず、私たちを愛して、すべてを惜しまず捨てて下さいました。イエスを見る時、私たちの心も言葉も自由にされます。安心して真実を語り、妬みよりも感謝の心を持つようになります。



「すべての真理の上に立たれる主よ、どうか私たちの言葉と行いが、あなたの素晴らしさを現すものでありますように。あなたはすべてを知っておられます。あなたに隠されているものは何もありません。あなたは、神の子とされた私たちに、良いものを惜しまず与えてくださいます。どうか、私たちの唇にいつも神の真理が宿り、私たちに与えられている恵みに満足できますように。アーメン」
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2020/1/12 マタイ伝6章9節「天にいます私たちの父よ」

2020-01-12 15:54:23 | マタイの福音書講解
2020/1/12 マタイ伝6章9節「天にいます私たちの父よ」

 今日から「主の祈り」を見ていきます。9節の
「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。」
は「このように」という意味です。「主の祈り」を唱えてさえいればこの言葉に従ったことになるのではなく、主の祈りを知り、その言葉を理解し、そこに込められた願いが身についていく時に、私たちの神との関係は整えられます[1]。この祈りを本当に味わうようになることで、私たちの信仰は養われます。今日はその冒頭の呼びかけを味わいましょう。
9『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
 神に向かって、私たちの父よ、と呼びかける。それは決して当たり前のことではありません。まずこの呼びかけ自体が、イエスの説教を聴いている人々にとって、驚嘆すべきことでした[2]。キリスト教会の特徴は「使徒信条」の冒頭、天地の造り主なる神を「父」と呼ぶ告白にあります。キリスト者はイエスを神の御子と信じますが、その神の永遠の御子であるイエスが、私たちの所に来られて、神を
「天にいます私たちの父よ」
と呼ぶように結びつけてくださいました。それも、イエスは永遠の神の子、言わば「本当の子ども」実子で、私たちは言わば「お情け」で神を父と呼ばせていただくゲームに入れてもらっている、というのではありません。
エペソ1:5神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。6それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
 これが、神の永遠からの御心でした。これは、本当に大胆な告白です。罪の赦しという救いだけではなく、イエス・キリストが私たちを神の子どもとしてくださった。もう私たちは孤児ではなく、神が父となってくださったのだ、というのがキリスト教信仰なのです。[3]
ガラテヤ4:4しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。5それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。6そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。7ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。[4]
 この「アバ」はヘブル語で「お父さん」の幼児語で今なら「パパ」に近いでしょう。子どもも大きくなったら、外で人が聞いている時に自分の父親に「アバ」と呼ぶことは恥ずかしいと考えられていたそうです。それほどの親しい呼びかけです。イエスは、十字架にかけられる直前、ゲッセマネの祈りで神に向かって「アバ」と叫んで祈りました[5]。イエスは、神に「アバ」と無垢な信頼を込めて呼びかけました。これ自体、イエスを疑う人々からは冒涜と見なされるような大胆なことでした。けれども、その「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊、を神は私たちの心に遣わされたので、私たちも神を「アバ、父よ」と呼びかけることが出来るのです。それは、私たちの身分不相応な願いではなく、神ご自身の惜しみないゴールなのです。日本語は敬語を大事にしますので、神に敬語を使わないことは難しいのですが、神はここで、敬語ではなく、幼児語で呼ぶ関係を下さって、私たちの関係を根底から引っ繰り返してくださったのです。
 今礼拝で用いている文語文も、新改訳や日本語訳のどれでも、「主の祈り」の最初は「天にいます私たちの父よ」という順番ですが、元々の言葉では「父よ」から始まっています。まず「お父さん」それも「アッバ!」と、叫ぶほどの親しい関係なのです。「天にまします」ではなく、「父よ。アッバ」といきなり呼べる。ですから、「天にまします」で堅苦しい礼儀や、あまり馴れ馴れしくしないよう釘を刺された思いにならないでください。ここには「アッバ」と呼ぶほどの関係、永遠の、揺るぐことのない、すっかり信頼して、叫ぶことが許されている程の親しい絆が、神によって与えられている恵みがギュッと詰まっているのです。
 では、「天にまします」を付け加えるのは何故でしょう。それは、この父が地上にいるどんな父親とも違うからです。神は、地上にいる最も完璧な父親よりも遥かに優る父であり、多くの不完全な父親がモデルとして思いつきもしなかった、最善の父でいてくださいます。場所だけ天にいて永遠で力があって、後は自分の父親と変わらない、という意味ではないのです。神は「お父さんのような方」ではなく、人が思い描く父とは比べものにならないほど真実で、安心でき、良いものを惜しまず与え、成長させてくださり、神に似た者としてくださる「父」であり、この父こそが、私たちの本当の父、私たちを永遠にわが子としてくださった父です。
 聖書は私たちに、神を「父」と呼ぶ関係へと招き入れます。しかし、聖書は神が男性だとは言いません。むしろ、神はご自身のかたちとして男と女を作られたのです。それなのに人間は、男尊女卑や階級社会を作っていきます。父・夫が威張る社会が出来て、神の権威を悪用するようになります。聖書の周辺社会では、容易に神が「父」と呼ばれて、自分たちはその子孫だと思い上がる構造があったようです。だからこそ、旧約の時代には神を「父」と呼ぶことには極めて慎重でした[6]。イエスが神を父と呼んだ時、それは大変インパクトがあったぐらい、イエスが来るまでは、神を父と呼ぶことは慎まれていたのです。一方、神がご自分を母として表すこともありました。特に、イザヤ書には主が女たち、母を引き合いに出して語ります。
イザヤ49:15「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。[7]
 主が女性たちと並べてご自分を表しています。この「あわれむ」という言葉は女性の子宮を表すラハミームから来ています。母が胎の中で育てたわが子を思う痛みです。神はご自分に子宮があるかのように、女性であるかのように私たちへの憐れみを語るのです。それは、神が私たちを子としてくださるのに、母として産むに等しい痛み、憐れみ、準備や覚悟があったことでもあるでしょう。私たちは法的に神の子どもとされただけではなく、神の胎を痛めて産み出された実子でもあるのです。神は、私たちの「天の父」です。人間の男性には、その代わりを不完全に果たすことしか出来ませんし、無理だから最初から父と母の共同作業で、分担しているのです。神は「遠い天にいます、よく分からない父」ではなく、私たちの必要を知り、私たちの心の奥の呻きまでも聞いておられ、隠れた所での行いや思いまでもすべてご存じの、「天にいます父」です。この神に祈る事は、私たちが神の子どもだ、という所に立ち戻ることです。
 そしてもう一つ、イエスは「私の父」ではなく「私たちの父」と祈るように仰って、私たちが自分と神だけの関係を考えるのではなく、他にも「私たち」に入る隣人がいることに目を向けさせました。私が神を「父」と呼ばせて頂けるように、他にも多くの人が神に「私たちの父」と呼びかける特権を与えられた。その事によって、私たちの横の人間関係も新しい光の中で見るようになります。イエスは私たち一人一人を神の親子関係の中に入れたことによって、お互いも神の家族という新しい関係に入れてくださいました。勿論それも、「教会は家族のように理想的な関係だ」という、内に閉じ籠もった関係ではなく、人間のどの家族とも違う、ユニークで、新しい、自由な関係です。私たちが「私たち」と言えること自体が、既に神の子どもとされた始まりです。まだその子どもとして教えられ、鍛えられ、訓練されて成長していく途上にあります。憎しみや差別や力関係や暴言を乗り越えていく途上です。しかし、必ず主が神の家族として、一つ食卓を囲ませてくださると信じる。私たちは家柄や肩書き、血筋、経歴で、良かれ悪しかれ自分を名乗りますが、今や何よりも「神の子ども」です。主の祈りはそこに引き戻してくれます。ここから、家庭や教会や職場の人間関係にも向かって行けるのです。

「天にいます私たちの父よ。御子イエスが私たちにそう呼ばせて下さったことを感謝します。主が来られ、その命によってあなたを父と呼べる祈りは特権です[8]。悩みや苦しみに心が塞ぎ、どう祈れば良いのか分からない時も、「天にいます私たちの父よ」と祈ることで、大きく息をつくことが出来ます。父よ、この関係の恵みを日々味わわせて、御名を聖とさせてください」

脚注

[1] 事実、聖書ではルカの11章にある以外なし。そして、ルカ版も、違いが多い。宗教改革者のマルチン・ルターは「主の祈りは歴史上、最大の殉教者だ」、礼拝や毎日大勢の人に数えきれない程唱えられながら、イエスが教えられた大切さも弁えられず、ただ形式的に唱えられて殺されている、と言いました。ルターは「主の祈り」は福音のエッセンスだとも言いますから、主の祈りのすばらしさを知らせたかったのであって、祈る人の無知を責めたかったのではないはずです。そして、冒頭の「天にいます私たちの父よ」を、ルターは「福音のエッセンスのエッセンス」と言います。
[2] 特にマタイの読者は、ユダヤ人キリスト者だと想定されますが、マタイはこの「天にいます父」の呼びかけを最もくり返しています。マタイ5:16、45、6:1、26、7:11、21、10:32、33、11:25、12:50、16:17、18:10、14、19。それ以外では、マルコ11:25のみです。
[3] ウェストミンスター信仰告白12章「義とされる者たちすべてを、神はその独り子イエス・キリストにおいて、またイエス・キリストのゆえに、子とする恵みにあずかる者としてくださる。その恵みによって彼らは神の子たちの数に入れられて、そのもろもろの自由と特権を享受し、神の御名をその上に記され、子とする霊を受け、大胆に恵みの御座に近づいて、「アッバ、父よ」と叫ぶことができるようにされ、父親からのように、神によって憐れまれ、守られ、養われ、そして懲らしめられる。しかしそれでも決して見捨てられることはなく、贖いの日に対して保証されており、そして永遠の救いの相続者として、もろもろの約束を受け継ぐのである。」(村川訳)。「義とされた者たちすべてを、神は、その独り子イエス・キリストにおいて、また彼のゆえに、子とする恵みにあずかる者としてくださる。これによって彼らは、[第一に]神の子たちの数に入れられて、神の子たちの自由と特権を享受し、[第二に]神の御名をその上に記され、[第三に]子とする霊を受け、[第四に]恵みの御座に大胆に近づき、[第五に]「アッバ、父よ」と呼ぶことができるようにされ、[第六に]父によってされるように、神によって、憐れまれ、守られ、必要を満たされ、懲らしめられる。しかし、決して捨て去られてしまうことはなく、かえって贖いの日のために証印され、永遠の救いの相続人として、もろもろの約束を受け継ぐ。」(松谷訳)
[4] また、ローマ書8章14~17節「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。16御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。17子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」
[5] マルコ14章36節「そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」。平行記事のマタイ26章39節では「それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」となっています。「アバ」と「わが父よ」が平行しています。
[6] 「旧約聖書では神をあまり父とは呼びません。これにはそれなりの理由があることが、近年分かってきました。古代中東の異教の多くは、自分たちの神を「父」と呼び、人間はその子孫であるとしていました。これは旧約聖書信仰と明らかに異なります。ごくまれに旧約聖書で神が父と呼ばれる場合、神がイスラエルの父であるのは、ただその民を神が息子として選ばれたといういきさつによることが明らかでした。預言者たちもイスラエルを神の息子と呼ばれる値打ちのない、反抗的な民と見ました。ホセアは、神がイスラエルに「お前はわたしの息子ではない」、「わたしの民ではない」と宣言される、とまで言っています。/ 新約聖書は神の父性をより積極的にとらえています。イエスは常に父なる神について語り、その教えは新約の他の書でも一貫して強調されています。神は特別な意味でイエスの父であるにとどまらず、子とされる特権は神の国に属するすべての人に及びます。ですから神の父性についての教えを除去するために新約聖書を書き直せという声は、聞き流せきない(ママ)ほど深刻な脅威をはらんでいるのです。」ジェームズ・フーストン『神との友情 あなたを変える祈り』179頁。
[7] イザヤ書66章13節「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰める。エルサレムであなたがたは慰められる。」
[8] 「初代教会はこの祈りを特別真剣に受け止めていました。この祈りは受洗志願者にだけ教えられ、外部には秘密とされました。それでこの祈りは、これから招き入れられるキリスト教信仰と信仰者の生命共同体に対する献身のしるしとなったのです。この伝統は今日の状況とは全く逆です。今日多くの場合、「主の祈り」は単なる形式となり、意味も十分理解されないまま機械的にくり返されています。「主の祈り」とは本来、神の愛、主イエスの恵み、聖霊の絶えざる臨在において、信者たちをより深くより広く一つにする力を持っているものなのです。」フーストン、前掲書、192頁
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2020/1/5 ローマ書13章8~10節「隣人も自分も」 ニュー・シティ・カテキズム11

2020-01-05 15:27:02 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/1/5 ローマ書13章8~10節「隣人も自分も」    ニュー・シティ・カテキズム11
 
 夕拝では「ニュー・シティ・カテキズム」からお話ししています。私たちは今、十戒を学び、第五戒までを見てきました。今日はその続きで、第六戒「殺してはならない」、第七戒「姦淫してはならない」、第八戒「盗んではならない」を見ていきましょう。
第十一問 神は第六戒、七戒、八戒で何を求めていますか?
答 第六戒は、私たちが隣人を傷つけたり、嫌悪したり、敵意を表すことをしないで、忍耐強く、平和を保ち、私たちの敵をも愛そうとすること。
第七戒は、私たちが性的不道徳を避け、純潔と誠実を持って生き、既婚であれ独身であれ、不純な行動、目、言葉、思考、欲望、それらに導くもの全てを避けること。第八戒は、私たちが他人のものを許可無く取ることをせず、私たちが他人に与えることのできる益をおしまないことです。
 「殺してはならない」の第六戒は、殺さなければいいのではなくて、言葉や暴力で傷つけることも禁じています。イエス・キリストは、今から二千年前の時代に来られた時、当時の人々が「殺さなければいい」と言いつつ、人をバカにしたり、心の中で怒りをぶつけたり、「あいつは頭が空っぽだ」と言うことは平気でされていたことを、鋭く批判しました。神が望んでいるのは、殺さないだけではありません。人が憎み合ったり、ぶつかったりすることがあっても、
「忍耐強く、平和を保ち、私たちの敵をも愛そうとすること」
です。どの人をも、大事にする。心の中でも、人を殺さないこと。言い換えれば、神はあなたも私も、殺されてはならない存在だと見て下さっている、ということです。たとえ、誰かの心の中ででも、私たちが馬鹿にされたり軽く見られたりすることを神は願わないのです。それは、なんと有り難い事でしょうか。
 でも、聖書には神が人間を罰して殺すような出来事も沢山書かれています。その典型はノアの洪水です。神は、地上の人たちを大洪水で滅ぼして、ノアの家族だけが生き残りました。生き残ったノアの家族に、神はこう仰います。
「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。」(創世記9:6)
 神は人を神のかたちとして造られた。それが、人を殺してはいけない理由とされています。私たちは、神のかたちとして造られたのです。私たちは一人一人が、神を現すかけがえのない命なのです。だから、心の中ででも、殺されてはならないのです。このように言われているのは、裏を返せば、ノアの洪水そのものが、それまでの社会で人が軽々しく殺されて、血が流されていたことを思わせます。だから神は、洪水後の再出発に当たって、
「人の血を流す者は人によって血を流される」
と念を押されたのです。けれども、その後も人の血が流される出来事は続いています。殺人事件もですし、戦争も、イジメも、差別も「殺してはならない」が禁じている悲しい暴力です。
 第七戒は、私たちが性的不道徳を避け、純潔と誠実を持って生き、既婚であれ独身であれ、不純な行動、目、言葉、思考、欲望、それらに導くもの全てを避けること。
 「姦淫してはならない」は、私たちが男性や女性に造られていることを、大切にする、ということです。結婚を大事にして、それ以外でセックスや、ポルノ、性的なことを弄ぶことを禁じるのです。これも、ただ結婚関係以外での相手と寝ることを禁じるだけだと誤解されていたのに対して、イエスは厳しく批判しました。心の中で、女性を見下すことは既に姦淫なのだ、と仰いました。男性が女性を、どんな女性も見下さない。女性も男性を、どんな男性でも軽く見ない。それは、結婚していても、していなくても変わらない、過去にどんな性的な間違いや虐待をされた人も、変わらずにたいせつに扱われるべきだと覚える。神が一人一人を男性や女性や、性的な面を持っている者として生かして下さったことを大切に受け取る、とても美しい思いです。
 
 「盗んではならない」も
「第八戒は、私たちが他人のものを許可無く取ることをせず、私たちが他人に与えることのできる益をおしまないことです。」
 ただ盗まないだけではありません。私たちが持っているものは、自分だけでなく、他の人のために用いるためにもあります。人のものも盗らないし、自分のものも誰にも分けない、というのでは淋しいことです。勿論、嫌々取り上げられてはなりませんが、自分のものは誰にもあげない、としか思えないのは、それはそれでとても淋しい。人と一緒に喜んで分け合い、誰かに喜びを贈ることが出来る方が、神様が私たちを造られた素晴らしい生き方です。今も、泥棒は少なくても、違う盗みは増えています。電話やネットで人を騙してお金を稼ぐ犯罪は、毎年、件数も被害額も増え続けています。たとえ、法律的には問題に出来なくても、騙すようにして、人から奪うやり方は、神の前には「盗み」です。そして、誰かの生活を苦しめる、人の人生を大きく狂わせてしまうことを、神は私たちに厳しく禁じているのです。

 
 さて、今日の聖句は、こうでした。
ローマ13:9「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。
 今日の「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない」が三つとも出て来ます。それはすべて
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」
に要約される、とありますが、この「要約」という言葉は聖書にもう1箇所だけ「一つに集める」と訳されて使われている言葉です。
「あなたの隣人を自分自身のように愛する」
という言葉は「殺さない、姦淫しない、盗まない」その他の戒めをひとまとめしてしまう言葉です。ただ殺さない、姦淫しない、盗まない、という戒めを守ろうとしても出来ない。ただ、最終的なゴールが、隣人を「自分自身のように愛する」という所に見据えられるときに、憎しみや姦淫や盗みからも救い出されるのです。罪を犯さないように、という以上に、神が私たちに愛することを命じておられます。神の愛をいただいて、罪に勝ちましょう。
 
「私たちの魂を導く忠実な羊飼いであられる神よ、あなたは私たちがこの地において愛と交わりのうちに生きるよう創造してくださいました。しかし、私たちは度々失敗を犯します。どうか、あなたの愛が、あらゆる人間関係を治めてくださいますように。その愛によって、私たちが聖く歩み、情欲を捨て、貪らず、強欲にならず、あなたの御名が掲げられますように」
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2020/1/5 マタイ伝6章5~8節「父への祈り」

2020-01-05 15:18:06 | マタイの福音書講解
2020/1/5 マタイ伝6章5~8節「父への祈り」
 マタイの六章は「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」と言われて始まり、今日の箇所ではそれを「祈る」ことに当てはめて語っています。祈る事が、人々に見せるパフォーマンスではないか、とイエスはハッキリと仰るのです。祈っているふりをする。聴いただけでも、嫌らしい、見栄っ張りだと嫌悪感を抱きます。イエスはそれを「偽善者たちのよう」だと言っています。実際、当時は宗教家たちが、会堂や大通りの角に立って、大声で祈っているふりをしていたのかもしれません。だから、イエスはこう言われます。
6:6あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。[1]
 この「家の奥の自分の部屋」は、食料庫を指す言葉です[2]。食料庫の戸を閉めれば、食糧や保存食が見えます。食べ物を切らさないよう、貯めている食糧が見える。あるいは、その倉庫が空っぽで、明日への心配が湧き上がってくるかもしれません。この後の「主の祈り」では、私たちに自分のために何よりも
「日毎の糧を今日もお与えください」
と祈るよう教えられます。立派で、霊的な願いを教えるかと思ったら逆で、パンを乞う。そんな祈りは、人前で大声で祈るには格好悪すぎましょう。しかし、イエスは私たちが食糧も神から頂いて養われている事から始めさせます[3]。食いっぱぐれないとか、食べるための備えとか、そうした現実に引き戻して、そこから祈らされます。人に見せるため祈るとか信心深さを尊敬されるとか、そういう上っ面な信仰から、隠れた所の食糧、あるいは、自分の隠れた現実、人に見えない自分の影や弱さ、必要、見せたくない所から祈りは始まる。「家の奥の自分の部屋に入って」とは私たちの祈りを所帯じみた、生活に根差したものにしてくれる言葉です。そして、そこでこそ、
「そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」
と神からの報いが来る、と言われるのです。神は、私たちの隠れた必要、食料庫のストックや、毎日の必要も、心配事も、それを隠して人前にどう見られるかを装おうとしてしまう心も、全てご存じのお方です。その神を忘れて、神への祈りが人に見せるための演技になるなんて、勿体ないことです。しかし、それを私たちはすぐに忘れてしまうかもここで念を押されています。この言葉を知っているのに、隠れて祈っている事が自慢され、「あの人の祈りは立派だ。あの先生は祈りの人だ」などと言う噂がまことしやかになされる[4]。教会では「祈りは人に見せるためではない」と言いながら人前で祈る事が求められる。人が聞いている所で祈る緊張や誘惑こそイエスが明言されたのに、教会はそこに鈍感になりやすいのでしょう[5]。次の、
6:7また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。
も、こうは言われているのに、「どれほど長い時間祈っているか」が信仰を図る基準になることもあります。言葉数が多い、長く祈れば祈るほど、なにか神が根負けして祈りを叶えてくれるかのように考える。これは「異邦人のよう」な祈り、つまり、本当の神を知らず、神を小さく考えている祈りだ。ここでも祈っている神がどんな方かが教えられています。祈りを通してイエスは、神がどんなお方かを気づかせる。ここで言われているのは、
8ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。
 私たちが求める前から、私たちに必要なものを知っておられる神。神に説明しなければ、私たちの必要や事情は分からないとか、長々と祈ったり、沢山のささげ物を備えたりしたら神が動いて願いを叶えてくれるとか、そういう神ではないのです。神は私たちの必要も事情も私たち以上にご存じですし、私たちが祈りやささげ物やパフォーマンスで言いくるめれば、何か煙に巻いて重い腰を上げるわけでもありません。神は私たちより先に、すべてをご存じです。
伝道者の書5:2神の前では、軽々しく 心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。
 この神を知るなら、祈りは当然、人に見せるためなどではあり得ませんし、祈りの長さや言葉の立派さや声の大きさで神を拝み倒そうとするものでもあり得ません[6]。そう思っている限り、私たちは神に対してではなく、人が考えた小さな神々、偶像に祈っているのと変わらない。神を知らないまま祈る前に、まず神がどんな方か、その偉大さを思い出させます。そして、
9ですから、あなたがたはこう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。…
と、イエスは「主の祈り」を教えてくださったのです。「神が私たちの必要をすべて知っているなら、なぜ私たちが祈らなくてはならないのか。祈らなくても良いではないか」。そういう疑問は、ここに答があります。私たちの必要をご存じの神が、私たちに祈りが必要だと知って、祈りを教えてくださっているのです。祈りは、願いを叶えてもらうためでなく、私たちのために必要なのです。私たちも、自分の貧しさや必要を忘れて上辺を装うことに走りやすい。すべてご存じの神を忘れて、私たちの祈りが足りなければ神も動いてくれないかのように思い込む。だからイエスは、奥の部屋、とっちらかった倉庫や隠している見えない自分の欠けだらけ、心配だらけの状況の中に立って、そこを見ておられる神に心を向ける。神が私たちの心の願いも、本当に何が必要かも、呻きさえもご存じだと言う事実に、祈りは立ち戻らせてくれます[7]。
ローマ8:26-27…私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
 祈りは、その人の信仰のバロメーターでも、神を喜ばせて願いを聞き届けさせるための手段でもなく、神との関係に立ち戻る時です。私たちは焦って言葉を並べる必要もないし、「祈りは苦手だ」などと臆病にならなくても良い。
「祈りたいという願いもまた、祈りである」
と言われます[8]。「祈れたらいいなぁ」という願い自体が、神が私たちの父となって、私たちに贈られた思いです。神が私たちの呻きも憧れも、何一つ隠れることなく知っていることを、祈りの中で味わううちに、私たちは心の奥深くの思いまでを新しくされます。立派そうな言葉を並べる祈りではなくて、自分の本心の願いを、既にご存じの神に祈るようになる。「こんな事は神には祈れない」から「こんな事は神にしか言えない」に変わっていく。
 ある宣教師が「先生は普段どんなことを神に祈っているのですか?」と尋ねられて、大柄のその方が顔を赤らめて「そんなことは恥ずかしくてとても言えません」と応えた、というエピソードがあります。そんな関係が、神との間に始まっているのです。祈りの「報い」は、神を動かしたり、神を変えたりする力ではありません。私たちを変える力です。礼拝で一緒に「主の祈り」や賛美歌という歌の祈りを献げ、御言葉に聴く。説教や礼拝や、交わりが、一人一人と神との関係を養うのです。二人や三人で一緒に祈り、祈ってもらう体験をして、普段の一人一人の生活が祈りになる。私の隠れた所も、すべての必要も知っている神が、私の天の父だ。それをじっくり、静かに味わい、時には自分の呻きをとりとめのない言葉にして安心して吐露する。本当に安心して神に心を向けて、祈らずにはおれないようになりたい。そして、祈りで神を動かすのではなく、自分の祈りを神が確かに聞いて、祈りに応えるようにして確かに動いてくださることにさえ、私たちは期待することが出来る。祈りには、大きな報いがあるのです。

「天にいます私たちの父よ。あなたが私たちを知り、私たち以上に私たちを愛し、配慮したもうことを感謝します。ますますあなたを知ることで、あなたに信頼すれば良いのだと気づかせてください。私たちの願いも求めも祈りへの憧れも、あなたが既に聞き、受け入れておられます。この礼拝を通して、私たちの祈りへと押し出し、普段の生活も新しくしてください。」
[1] しかし言うまでもないことですが、この形そのものが大事なのではありません。「私は祈る時は、決して人前では祈らず、いつも家の奥の部屋に入って祈っているのですよ」と自慢するなら、同じ事です。そうしたらしたで、自分の祈り方について、何も語らないけれど、心のどこかで人から「あの人の祈りは立派だな。謙虚に祈っているなぁ」と思われたい計算があるなら同じ事です。祈りの人だと思われたい、あるいは、信仰が足りないと思われたくない、そういう動機そのものがここで一蹴されています。そういう祈りは、もはや祈りではなく、自分を見せるためであって、もう報いは受けている。イエスは、ここで人に自分を見せるためのパフォーマンスではなく、祈りとは神に祈ることだと思い出させます。当たり前のようですが、誰に祈っているのかを忘れているからこそ、祈りや信仰が、人に見せるためのものになるのです。私たちにとって、神への祈りは、その祈る相手の神がどんな方かに基づきます。
[2] 「家の奥の自分の部屋」 倉庫、食料庫(ルカ12:3、24)ジェームズ・フーストン、『神との友情』、199頁。 目を瞑るより、自分がいかに豊かに養われているかに気づく。神の恵みに目を開いて、謙虚になる。生活感のない虚栄ではなく、生活感のある生き方をする。
[3] それが「何を食べようか、何を着ようかと思い煩ってはならない」という、25節以下の有名な言葉にも通じていくのです。
[4] 人前で祈るのが悪いのではない。しかし、人前で祈る時には、当然、聴かれている、という意識が発生する。聴いている方も「今日の祈りはどうの」「あの人の祈りはまだまだ」「あの人は祈りの人だ」と、評価してしまうことがある。それは、神への祈りを、偽善者の祈りとしてしまうことになりかねない。聖書にも、会衆の代表祈祷はあり、祈りの例文は多い。しかし、むしろ「立派」ならざる祈りによって、私たちのお上品な信仰を、素朴に引き下ろす祈り。
[5] 人前で祈る事には誘惑がつきものだ、ということ。人前で祈ることが苦手、というほうがむしろ健全なのかもしれない。人前で祈る人が、誰も見ていない所では祈っていない、という生活ならば、それはここで指摘されている姿そのもの。そして、誰も見ていない所での祈りが、神にすべてを見られていると知った祈りか。
[6] それほどに、自分の恥も必要も隠している思いも全部ご存じである方の前に祈っている、という自覚こそが、ここで言われている、神を知っている祈りなのだ。
[7] 単純に言って、祈りは、まず神に向かうこと。すでに私たちの必要を、求める前から知っている神に祈る。どう祈る、かで神に願いが届いたり聞かれなかったりはしない。既に神は私たちの必要も隠れた思いもご存じだから。むしろ、それを偽善的に胡麻菓子してしまう私の間違いこそ壊されるべき。
[8] デイビッド・ベンナー。引用は、中村佐知「「霊的同伴」の本質を知る」より。『舟の右側』2019年12月号、地引網出版、15頁。
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2020/1/1 エペソ書1章3~10節「一つの奥義」 一書説教 エペソ人への手紙

2020-01-05 07:00:30 | 一書説教
2020/1/1 エペソ書1章3~10節「一つの奥義」
 エペソ書は「パウロの修養会」とも言わる、心躍るような手紙です。何しろ、書いているパウロ自身が喜びに溢れています。今読みました1章3~10節は、元々の言葉は○で区切れることなく、14節まで一気に続く長い文章です。15節から23節も一続きです。流れるように続く美しい告白とも言えますし、止まらなくなってしまって分かりにくいゴチャゴチャした駄文、とも言われます。短い言葉には要約しきれない、語り尽くせない主の恵みを歌う。元々エペソだけに宛てた書簡ではなく、周辺の多くの教会で読まれるように書かれた手紙でした[1]。まさに全教会に対する、「パウロの修養会」という内容、私たちへのメッセージなのです。[2]
 このようなエペソ書。何よりの特徴は
「愛」
です。日本語で24回、原文で17回。パウロの手紙で一番多い、「愛の手紙 エペソ書」です[3]。エペソ書には沢山の金言があります。

2:14実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、15様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。…

4:26怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。…

5:8あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。…

5:19詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。…

22妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。…
25夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

 5章後半の妻と夫に対する教え。6章10節~の「神の武具」リストも、よく引用されます。ここには、キリスト者として生きる歩み方が、具体的に、丁寧に、教会で、家庭で、職場での関係に当てはめながら、豊かなイメージで描かれます。そして、もう一つの鍵が「一」です。

1:9…その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、10時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。

 キリストが一切のものを一つに集められる。それがエペソ書の中で、一つの家族とか、一つのからだとか言い換えられます。今風の言い方をすれば、一つの「物語」のかけがえない一人一人になること。エペソ書には「一つ」が13回も出て来ます。決して全体主義や画一化のような意味ではなく、皆が個性あるまま、キリストにあって一つに結ばれる。そういう壮大な御心をパウロは溢れるように語るのです。余りに壮大すぎるようですが、パウロは私たちの選び、私たちが神の子どもとされたこと、私たちの罪の赦し、という私たちの事を、「御心の奥義」という大きな枠組の中で語るのです。特に「一つ」という奥義が現れるのは教会です。今、ここで私たちが一つの元旦礼拝をともにしている。私たちが一つの鳴門キリスト教会で、各地の日本長老教会が一つの教会で、世界の教会が一つの教会だという告白を与えられている。誰も、バラバラではなく、キリストにあって一つの民とされた。それが神の御心なのだと体験しているのです。そしてここから、私たちが互いに愛し合う、と「愛」「愛」が強調されるのです。
4:1…あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。
 これは4章1節、つまりエペソ書の丁度(ちょうど)真ん中のつなぎ言葉です。ここでは「一致せよ」とは言われていませんね。「一致しなさい」ではなく
「御霊による一致を熱心に保ちなさい」
なのです。「一致」は神の御霊によって、既にあるのです。私たちはその一致を、熱心に保つ。決して違いを裁いて、一体感や表面的な一致を造り上げるのではなく、既にある一致を保つ、なのです[4]。エペソ書には「一つ」の延長で、「ともに」が8回[5]、「互いに…し合い」が5回も出て来ます[6]。ともに生き、互いに受け入れ合う。違う同士、異なる私たちが、違うまま、キリストにあって一つとされ、互いを自分と同じように大事にする。主の愛を知り、自分の罪の赦しを戴くこと。そして今ここでの生活、人間関係、家庭生活、職場での在り方へ向き合う。人との関係で葛藤しつつ改善を努めること。そうした私たちの、極々個人的なことを通して、神の「一つ」という奥義が実現するのです。ヘンリ・ナウエンの言葉を紹介します。
「「神の子であって、イエスの兄弟姉妹である私たちのこの世での務めは何でしょうか。私たちの務めは和解をもたらすことです。家族、コミュニティー、町、国、大陸のどこにでも、人々の間には分裂があります。これらの分裂はすべて、私たちが神から離れてしまっていることの悲しい反映です。人はみな神の一つの家族であるという真理を目にすることはほとんど出来ません。私たちに神から与えられた務めは、日々の生活の現実の中でその真理を示すことです。/それがなぜ私たちの務めなのでしょうか。なぜなら、私たちを神と和解させ、人々が互いに和解するよう力を合わせるという務めを与えるために、神はイエスを遣わされたからです。イエスによって神と和解した私たちには、和解の使命が与えられています(2コリント5・18参照)。したがって、私たちが何をするにしても中心となるのは、「これは人々の和解につながるだろうか」という問いかけです。」[7]

 私たちが、「あけましておめでとうございます」「クリスマスおめでとうございます」と声を掛けること、教会で一緒に礼拝をすること、それはキリストの一致を保つお祝いです。夫が妻にありがとうを言う、上司が部下を尊重する。気になっている人のために祈る、時には正直に「嫌です」や「ノー」や「出来ません」を言う。そうした地味でささやかな事、なかなか難しい一つ一つが、小さくない。神の「一つ」という奥義が私たちの中でじっくり実現していくプロセスだ。そんな驚くことをエペソ書は語るのです。これを書いたパウロ自身がそうでした[8]。かつては異邦人には目もくれなかったパウロが、異邦人のための伝道者となり、教会の中の差別とも戦ってきたのです。エペソ書執筆はパウロの晩年。それも投獄され、囚人としての鎖に繋がれていた時です[9]。不自由な中、じっくりと福音を思い巡らし、円熟味のある思想をエペソ書に書いたのか。あるいは、他の書簡からも、囚人となったパウロを訪問してくれ、献金を送って助けてくれる異邦人たちもいたようです[10]。パウロは困難も多い中で、本当に神はキリストによって私たちを一つとされたのだ、と実感しながらこの手紙を書いたのです[11]。

 私が最初に覚えたエペソ書の言葉は2章の「信仰による救い」を明言する言葉です。
2:4…あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。…8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。10実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
 私たちは、自分の行いによらず、ただ神の賜物として信仰も戴き、恵みの救いもプレゼントされました。それは、ただ私たちが「救われる」だけでなく、私たちがバラバラな存在でなく、神の「御心の奥義」、一つとされた召しに与って、それを実らせる「善い業」も一人一人に備えられている。そういうエペソ書のメッセージに、私も段々と気づかされています。神が願っているのは、本当に深く、真実な、時間を掛けた回復です。どうしようもないほどの敵対や断絶を、イエス・キリストが命をかけて和解させてくださる御業です。それを、私たちは一歩一歩受け止めます。理想主義になって、焦ったり諦めたりしなくてよい。本当の一つを用意されている神への信頼から、本心からの和解を、心込めて受け取っていこう。私を献げていこう。そう気づかせてくれるのもエペソ書です。エペソ書3章16~21節の祈りで終わります。[12]

[1] 1章1節の欄外に「異本に「エペソの」を欠くものもある」、そちらの方が有力です。

[2] 1章の17~19節には祈りが出て来ます。3章の最後14節以下も祈りで、結びの6章23、24節も祝福の言葉。書きながら祈ってしまう、パウロの熱い説教です。今回も、大竹護牧師の説教を大いに参考にしました。エペソ人への手紙2章10節「一書説教 エペソ書~召された者として~」

[3] 英語では14回loveが出て来ます。他のパウロ書簡では、ローマ書26回(英語12、ギリシャ語14)1コリント21回(14、13)、Ⅱコリント18回(11、12)、ガラテヤ5回(4、5)、ピリピ10回(5、4)、コロサイ13回(5、7)、Ⅰテサロニケ11回(6、7)、Ⅱテサロニケ5回(3、7)、Ⅰテモテ8回(6、5)、Ⅱテモテ9回(5、6)、テトス6回(3、1)、ピレモン6回(2、3)。

[4] エペソ書には、日本語では「一つ」が11回。ギリシャ語本文では、ヘイス(一、それぞれ)が11回(2:14~16、18、4:4~7、16、5:31、33)、ヘノーテス(一致)が2回(4:3、13)、アナケファライオー(一つに集める、こことローマ13:9だけの言葉)です。

[5] 2:5「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」、22「あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」3:6「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」、18「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、」、6:24「朽ちることのない愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する、すべての人とともに、恵みがありますように。」。4:31(「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。」)にも「ともに」が出て来ますが、ここでいう意味とは違うので除外しました。

[6] 4:2「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、」、25「ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。」、32「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」、5:19「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」、21「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。」

[7] ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』421頁。

[8] 2章11節「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、12そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。13しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。14実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、15様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、16二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。17また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。18このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。19こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」パウロ自身が、かつてパリサイ人というガチガチの民族主義者で、ユダヤ人以外の「異邦人」とは一緒に食事もしない人でした。しかし、パウロはキリストに出会って、異邦人とも近くされました。その個人的な独白も、三章に吐露されています。

[9] 6章20節「私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」

[10] ピリピ書4章など。

[11] 神に背を向けて、罪の故にも、人間関係が壊れて、人の心の奥にも深い傷があります。神は表面的な一致や一体感や仲良しではなく、本当に深い癒やしと心からの和解と、本物の回復を与えたいと願っていらっしゃる。それをパウロ自身体験してきたのです。

[12] 3章16~21節「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。20どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、21教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」

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