聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/1/5 ローマ書13章8~10節「隣人も自分も」 ニュー・シティ・カテキズム11

2020-01-05 15:27:02 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/1/5 ローマ書13章8~10節「隣人も自分も」    ニュー・シティ・カテキズム11
 
 夕拝では「ニュー・シティ・カテキズム」からお話ししています。私たちは今、十戒を学び、第五戒までを見てきました。今日はその続きで、第六戒「殺してはならない」、第七戒「姦淫してはならない」、第八戒「盗んではならない」を見ていきましょう。
第十一問 神は第六戒、七戒、八戒で何を求めていますか?
答 第六戒は、私たちが隣人を傷つけたり、嫌悪したり、敵意を表すことをしないで、忍耐強く、平和を保ち、私たちの敵をも愛そうとすること。
第七戒は、私たちが性的不道徳を避け、純潔と誠実を持って生き、既婚であれ独身であれ、不純な行動、目、言葉、思考、欲望、それらに導くもの全てを避けること。第八戒は、私たちが他人のものを許可無く取ることをせず、私たちが他人に与えることのできる益をおしまないことです。
 「殺してはならない」の第六戒は、殺さなければいいのではなくて、言葉や暴力で傷つけることも禁じています。イエス・キリストは、今から二千年前の時代に来られた時、当時の人々が「殺さなければいい」と言いつつ、人をバカにしたり、心の中で怒りをぶつけたり、「あいつは頭が空っぽだ」と言うことは平気でされていたことを、鋭く批判しました。神が望んでいるのは、殺さないだけではありません。人が憎み合ったり、ぶつかったりすることがあっても、
「忍耐強く、平和を保ち、私たちの敵をも愛そうとすること」
です。どの人をも、大事にする。心の中でも、人を殺さないこと。言い換えれば、神はあなたも私も、殺されてはならない存在だと見て下さっている、ということです。たとえ、誰かの心の中ででも、私たちが馬鹿にされたり軽く見られたりすることを神は願わないのです。それは、なんと有り難い事でしょうか。
 でも、聖書には神が人間を罰して殺すような出来事も沢山書かれています。その典型はノアの洪水です。神は、地上の人たちを大洪水で滅ぼして、ノアの家族だけが生き残りました。生き残ったノアの家族に、神はこう仰います。
「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。」(創世記9:6)
 神は人を神のかたちとして造られた。それが、人を殺してはいけない理由とされています。私たちは、神のかたちとして造られたのです。私たちは一人一人が、神を現すかけがえのない命なのです。だから、心の中ででも、殺されてはならないのです。このように言われているのは、裏を返せば、ノアの洪水そのものが、それまでの社会で人が軽々しく殺されて、血が流されていたことを思わせます。だから神は、洪水後の再出発に当たって、
「人の血を流す者は人によって血を流される」
と念を押されたのです。けれども、その後も人の血が流される出来事は続いています。殺人事件もですし、戦争も、イジメも、差別も「殺してはならない」が禁じている悲しい暴力です。
 第七戒は、私たちが性的不道徳を避け、純潔と誠実を持って生き、既婚であれ独身であれ、不純な行動、目、言葉、思考、欲望、それらに導くもの全てを避けること。
 「姦淫してはならない」は、私たちが男性や女性に造られていることを、大切にする、ということです。結婚を大事にして、それ以外でセックスや、ポルノ、性的なことを弄ぶことを禁じるのです。これも、ただ結婚関係以外での相手と寝ることを禁じるだけだと誤解されていたのに対して、イエスは厳しく批判しました。心の中で、女性を見下すことは既に姦淫なのだ、と仰いました。男性が女性を、どんな女性も見下さない。女性も男性を、どんな男性でも軽く見ない。それは、結婚していても、していなくても変わらない、過去にどんな性的な間違いや虐待をされた人も、変わらずにたいせつに扱われるべきだと覚える。神が一人一人を男性や女性や、性的な面を持っている者として生かして下さったことを大切に受け取る、とても美しい思いです。
 
 「盗んではならない」も
「第八戒は、私たちが他人のものを許可無く取ることをせず、私たちが他人に与えることのできる益をおしまないことです。」
 ただ盗まないだけではありません。私たちが持っているものは、自分だけでなく、他の人のために用いるためにもあります。人のものも盗らないし、自分のものも誰にも分けない、というのでは淋しいことです。勿論、嫌々取り上げられてはなりませんが、自分のものは誰にもあげない、としか思えないのは、それはそれでとても淋しい。人と一緒に喜んで分け合い、誰かに喜びを贈ることが出来る方が、神様が私たちを造られた素晴らしい生き方です。今も、泥棒は少なくても、違う盗みは増えています。電話やネットで人を騙してお金を稼ぐ犯罪は、毎年、件数も被害額も増え続けています。たとえ、法律的には問題に出来なくても、騙すようにして、人から奪うやり方は、神の前には「盗み」です。そして、誰かの生活を苦しめる、人の人生を大きく狂わせてしまうことを、神は私たちに厳しく禁じているのです。

 
 さて、今日の聖句は、こうでした。
ローマ13:9「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。
 今日の「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない」が三つとも出て来ます。それはすべて
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」
に要約される、とありますが、この「要約」という言葉は聖書にもう1箇所だけ「一つに集める」と訳されて使われている言葉です。
「あなたの隣人を自分自身のように愛する」
という言葉は「殺さない、姦淫しない、盗まない」その他の戒めをひとまとめしてしまう言葉です。ただ殺さない、姦淫しない、盗まない、という戒めを守ろうとしても出来ない。ただ、最終的なゴールが、隣人を「自分自身のように愛する」という所に見据えられるときに、憎しみや姦淫や盗みからも救い出されるのです。罪を犯さないように、という以上に、神が私たちに愛することを命じておられます。神の愛をいただいて、罪に勝ちましょう。
 
「私たちの魂を導く忠実な羊飼いであられる神よ、あなたは私たちがこの地において愛と交わりのうちに生きるよう創造してくださいました。しかし、私たちは度々失敗を犯します。どうか、あなたの愛が、あらゆる人間関係を治めてくださいますように。その愛によって、私たちが聖く歩み、情欲を捨て、貪らず、強欲にならず、あなたの御名が掲げられますように」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/1/5 マタイ伝6章5~8節「父への祈り」

2020-01-05 15:18:06 | マタイの福音書講解
2020/1/5 マタイ伝6章5~8節「父への祈り」
 マタイの六章は「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」と言われて始まり、今日の箇所ではそれを「祈る」ことに当てはめて語っています。祈る事が、人々に見せるパフォーマンスではないか、とイエスはハッキリと仰るのです。祈っているふりをする。聴いただけでも、嫌らしい、見栄っ張りだと嫌悪感を抱きます。イエスはそれを「偽善者たちのよう」だと言っています。実際、当時は宗教家たちが、会堂や大通りの角に立って、大声で祈っているふりをしていたのかもしれません。だから、イエスはこう言われます。
6:6あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。[1]
 この「家の奥の自分の部屋」は、食料庫を指す言葉です[2]。食料庫の戸を閉めれば、食糧や保存食が見えます。食べ物を切らさないよう、貯めている食糧が見える。あるいは、その倉庫が空っぽで、明日への心配が湧き上がってくるかもしれません。この後の「主の祈り」では、私たちに自分のために何よりも
「日毎の糧を今日もお与えください」
と祈るよう教えられます。立派で、霊的な願いを教えるかと思ったら逆で、パンを乞う。そんな祈りは、人前で大声で祈るには格好悪すぎましょう。しかし、イエスは私たちが食糧も神から頂いて養われている事から始めさせます[3]。食いっぱぐれないとか、食べるための備えとか、そうした現実に引き戻して、そこから祈らされます。人に見せるため祈るとか信心深さを尊敬されるとか、そういう上っ面な信仰から、隠れた所の食糧、あるいは、自分の隠れた現実、人に見えない自分の影や弱さ、必要、見せたくない所から祈りは始まる。「家の奥の自分の部屋に入って」とは私たちの祈りを所帯じみた、生活に根差したものにしてくれる言葉です。そして、そこでこそ、
「そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」
と神からの報いが来る、と言われるのです。神は、私たちの隠れた必要、食料庫のストックや、毎日の必要も、心配事も、それを隠して人前にどう見られるかを装おうとしてしまう心も、全てご存じのお方です。その神を忘れて、神への祈りが人に見せるための演技になるなんて、勿体ないことです。しかし、それを私たちはすぐに忘れてしまうかもここで念を押されています。この言葉を知っているのに、隠れて祈っている事が自慢され、「あの人の祈りは立派だ。あの先生は祈りの人だ」などと言う噂がまことしやかになされる[4]。教会では「祈りは人に見せるためではない」と言いながら人前で祈る事が求められる。人が聞いている所で祈る緊張や誘惑こそイエスが明言されたのに、教会はそこに鈍感になりやすいのでしょう[5]。次の、
6:7また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。
も、こうは言われているのに、「どれほど長い時間祈っているか」が信仰を図る基準になることもあります。言葉数が多い、長く祈れば祈るほど、なにか神が根負けして祈りを叶えてくれるかのように考える。これは「異邦人のよう」な祈り、つまり、本当の神を知らず、神を小さく考えている祈りだ。ここでも祈っている神がどんな方かが教えられています。祈りを通してイエスは、神がどんなお方かを気づかせる。ここで言われているのは、
8ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。
 私たちが求める前から、私たちに必要なものを知っておられる神。神に説明しなければ、私たちの必要や事情は分からないとか、長々と祈ったり、沢山のささげ物を備えたりしたら神が動いて願いを叶えてくれるとか、そういう神ではないのです。神は私たちの必要も事情も私たち以上にご存じですし、私たちが祈りやささげ物やパフォーマンスで言いくるめれば、何か煙に巻いて重い腰を上げるわけでもありません。神は私たちより先に、すべてをご存じです。
伝道者の書5:2神の前では、軽々しく 心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。
 この神を知るなら、祈りは当然、人に見せるためなどではあり得ませんし、祈りの長さや言葉の立派さや声の大きさで神を拝み倒そうとするものでもあり得ません[6]。そう思っている限り、私たちは神に対してではなく、人が考えた小さな神々、偶像に祈っているのと変わらない。神を知らないまま祈る前に、まず神がどんな方か、その偉大さを思い出させます。そして、
9ですから、あなたがたはこう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。…
と、イエスは「主の祈り」を教えてくださったのです。「神が私たちの必要をすべて知っているなら、なぜ私たちが祈らなくてはならないのか。祈らなくても良いではないか」。そういう疑問は、ここに答があります。私たちの必要をご存じの神が、私たちに祈りが必要だと知って、祈りを教えてくださっているのです。祈りは、願いを叶えてもらうためでなく、私たちのために必要なのです。私たちも、自分の貧しさや必要を忘れて上辺を装うことに走りやすい。すべてご存じの神を忘れて、私たちの祈りが足りなければ神も動いてくれないかのように思い込む。だからイエスは、奥の部屋、とっちらかった倉庫や隠している見えない自分の欠けだらけ、心配だらけの状況の中に立って、そこを見ておられる神に心を向ける。神が私たちの心の願いも、本当に何が必要かも、呻きさえもご存じだと言う事実に、祈りは立ち戻らせてくれます[7]。
ローマ8:26-27…私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
 祈りは、その人の信仰のバロメーターでも、神を喜ばせて願いを聞き届けさせるための手段でもなく、神との関係に立ち戻る時です。私たちは焦って言葉を並べる必要もないし、「祈りは苦手だ」などと臆病にならなくても良い。
「祈りたいという願いもまた、祈りである」
と言われます[8]。「祈れたらいいなぁ」という願い自体が、神が私たちの父となって、私たちに贈られた思いです。神が私たちの呻きも憧れも、何一つ隠れることなく知っていることを、祈りの中で味わううちに、私たちは心の奥深くの思いまでを新しくされます。立派そうな言葉を並べる祈りではなくて、自分の本心の願いを、既にご存じの神に祈るようになる。「こんな事は神には祈れない」から「こんな事は神にしか言えない」に変わっていく。
 ある宣教師が「先生は普段どんなことを神に祈っているのですか?」と尋ねられて、大柄のその方が顔を赤らめて「そんなことは恥ずかしくてとても言えません」と応えた、というエピソードがあります。そんな関係が、神との間に始まっているのです。祈りの「報い」は、神を動かしたり、神を変えたりする力ではありません。私たちを変える力です。礼拝で一緒に「主の祈り」や賛美歌という歌の祈りを献げ、御言葉に聴く。説教や礼拝や、交わりが、一人一人と神との関係を養うのです。二人や三人で一緒に祈り、祈ってもらう体験をして、普段の一人一人の生活が祈りになる。私の隠れた所も、すべての必要も知っている神が、私の天の父だ。それをじっくり、静かに味わい、時には自分の呻きをとりとめのない言葉にして安心して吐露する。本当に安心して神に心を向けて、祈らずにはおれないようになりたい。そして、祈りで神を動かすのではなく、自分の祈りを神が確かに聞いて、祈りに応えるようにして確かに動いてくださることにさえ、私たちは期待することが出来る。祈りには、大きな報いがあるのです。

「天にいます私たちの父よ。あなたが私たちを知り、私たち以上に私たちを愛し、配慮したもうことを感謝します。ますますあなたを知ることで、あなたに信頼すれば良いのだと気づかせてください。私たちの願いも求めも祈りへの憧れも、あなたが既に聞き、受け入れておられます。この礼拝を通して、私たちの祈りへと押し出し、普段の生活も新しくしてください。」
[1] しかし言うまでもないことですが、この形そのものが大事なのではありません。「私は祈る時は、決して人前では祈らず、いつも家の奥の部屋に入って祈っているのですよ」と自慢するなら、同じ事です。そうしたらしたで、自分の祈り方について、何も語らないけれど、心のどこかで人から「あの人の祈りは立派だな。謙虚に祈っているなぁ」と思われたい計算があるなら同じ事です。祈りの人だと思われたい、あるいは、信仰が足りないと思われたくない、そういう動機そのものがここで一蹴されています。そういう祈りは、もはや祈りではなく、自分を見せるためであって、もう報いは受けている。イエスは、ここで人に自分を見せるためのパフォーマンスではなく、祈りとは神に祈ることだと思い出させます。当たり前のようですが、誰に祈っているのかを忘れているからこそ、祈りや信仰が、人に見せるためのものになるのです。私たちにとって、神への祈りは、その祈る相手の神がどんな方かに基づきます。
[2] 「家の奥の自分の部屋」 倉庫、食料庫(ルカ12:3、24)ジェームズ・フーストン、『神との友情』、199頁。 目を瞑るより、自分がいかに豊かに養われているかに気づく。神の恵みに目を開いて、謙虚になる。生活感のない虚栄ではなく、生活感のある生き方をする。
[3] それが「何を食べようか、何を着ようかと思い煩ってはならない」という、25節以下の有名な言葉にも通じていくのです。
[4] 人前で祈るのが悪いのではない。しかし、人前で祈る時には、当然、聴かれている、という意識が発生する。聴いている方も「今日の祈りはどうの」「あの人の祈りはまだまだ」「あの人は祈りの人だ」と、評価してしまうことがある。それは、神への祈りを、偽善者の祈りとしてしまうことになりかねない。聖書にも、会衆の代表祈祷はあり、祈りの例文は多い。しかし、むしろ「立派」ならざる祈りによって、私たちのお上品な信仰を、素朴に引き下ろす祈り。
[5] 人前で祈る事には誘惑がつきものだ、ということ。人前で祈ることが苦手、というほうがむしろ健全なのかもしれない。人前で祈る人が、誰も見ていない所では祈っていない、という生活ならば、それはここで指摘されている姿そのもの。そして、誰も見ていない所での祈りが、神にすべてを見られていると知った祈りか。
[6] それほどに、自分の恥も必要も隠している思いも全部ご存じである方の前に祈っている、という自覚こそが、ここで言われている、神を知っている祈りなのだ。
[7] 単純に言って、祈りは、まず神に向かうこと。すでに私たちの必要を、求める前から知っている神に祈る。どう祈る、かで神に願いが届いたり聞かれなかったりはしない。既に神は私たちの必要も隠れた思いもご存じだから。むしろ、それを偽善的に胡麻菓子してしまう私の間違いこそ壊されるべき。
[8] デイビッド・ベンナー。引用は、中村佐知「「霊的同伴」の本質を知る」より。『舟の右側』2019年12月号、地引網出版、15頁。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/1/1 エペソ書1章3~10節「一つの奥義」 一書説教 エペソ人への手紙

2020-01-05 07:00:30 | 一書説教
2020/1/1 エペソ書1章3~10節「一つの奥義」
 エペソ書は「パウロの修養会」とも言わる、心躍るような手紙です。何しろ、書いているパウロ自身が喜びに溢れています。今読みました1章3~10節は、元々の言葉は○で区切れることなく、14節まで一気に続く長い文章です。15節から23節も一続きです。流れるように続く美しい告白とも言えますし、止まらなくなってしまって分かりにくいゴチャゴチャした駄文、とも言われます。短い言葉には要約しきれない、語り尽くせない主の恵みを歌う。元々エペソだけに宛てた書簡ではなく、周辺の多くの教会で読まれるように書かれた手紙でした[1]。まさに全教会に対する、「パウロの修養会」という内容、私たちへのメッセージなのです。[2]
 このようなエペソ書。何よりの特徴は
「愛」
です。日本語で24回、原文で17回。パウロの手紙で一番多い、「愛の手紙 エペソ書」です[3]。エペソ書には沢山の金言があります。

2:14実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、15様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。…

4:26怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。…

5:8あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。…

5:19詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。…

22妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。…
25夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

 5章後半の妻と夫に対する教え。6章10節~の「神の武具」リストも、よく引用されます。ここには、キリスト者として生きる歩み方が、具体的に、丁寧に、教会で、家庭で、職場での関係に当てはめながら、豊かなイメージで描かれます。そして、もう一つの鍵が「一」です。

1:9…その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、10時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。

 キリストが一切のものを一つに集められる。それがエペソ書の中で、一つの家族とか、一つのからだとか言い換えられます。今風の言い方をすれば、一つの「物語」のかけがえない一人一人になること。エペソ書には「一つ」が13回も出て来ます。決して全体主義や画一化のような意味ではなく、皆が個性あるまま、キリストにあって一つに結ばれる。そういう壮大な御心をパウロは溢れるように語るのです。余りに壮大すぎるようですが、パウロは私たちの選び、私たちが神の子どもとされたこと、私たちの罪の赦し、という私たちの事を、「御心の奥義」という大きな枠組の中で語るのです。特に「一つ」という奥義が現れるのは教会です。今、ここで私たちが一つの元旦礼拝をともにしている。私たちが一つの鳴門キリスト教会で、各地の日本長老教会が一つの教会で、世界の教会が一つの教会だという告白を与えられている。誰も、バラバラではなく、キリストにあって一つの民とされた。それが神の御心なのだと体験しているのです。そしてここから、私たちが互いに愛し合う、と「愛」「愛」が強調されるのです。
4:1…あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。
 これは4章1節、つまりエペソ書の丁度(ちょうど)真ん中のつなぎ言葉です。ここでは「一致せよ」とは言われていませんね。「一致しなさい」ではなく
「御霊による一致を熱心に保ちなさい」
なのです。「一致」は神の御霊によって、既にあるのです。私たちはその一致を、熱心に保つ。決して違いを裁いて、一体感や表面的な一致を造り上げるのではなく、既にある一致を保つ、なのです[4]。エペソ書には「一つ」の延長で、「ともに」が8回[5]、「互いに…し合い」が5回も出て来ます[6]。ともに生き、互いに受け入れ合う。違う同士、異なる私たちが、違うまま、キリストにあって一つとされ、互いを自分と同じように大事にする。主の愛を知り、自分の罪の赦しを戴くこと。そして今ここでの生活、人間関係、家庭生活、職場での在り方へ向き合う。人との関係で葛藤しつつ改善を努めること。そうした私たちの、極々個人的なことを通して、神の「一つ」という奥義が実現するのです。ヘンリ・ナウエンの言葉を紹介します。
「「神の子であって、イエスの兄弟姉妹である私たちのこの世での務めは何でしょうか。私たちの務めは和解をもたらすことです。家族、コミュニティー、町、国、大陸のどこにでも、人々の間には分裂があります。これらの分裂はすべて、私たちが神から離れてしまっていることの悲しい反映です。人はみな神の一つの家族であるという真理を目にすることはほとんど出来ません。私たちに神から与えられた務めは、日々の生活の現実の中でその真理を示すことです。/それがなぜ私たちの務めなのでしょうか。なぜなら、私たちを神と和解させ、人々が互いに和解するよう力を合わせるという務めを与えるために、神はイエスを遣わされたからです。イエスによって神と和解した私たちには、和解の使命が与えられています(2コリント5・18参照)。したがって、私たちが何をするにしても中心となるのは、「これは人々の和解につながるだろうか」という問いかけです。」[7]

 私たちが、「あけましておめでとうございます」「クリスマスおめでとうございます」と声を掛けること、教会で一緒に礼拝をすること、それはキリストの一致を保つお祝いです。夫が妻にありがとうを言う、上司が部下を尊重する。気になっている人のために祈る、時には正直に「嫌です」や「ノー」や「出来ません」を言う。そうした地味でささやかな事、なかなか難しい一つ一つが、小さくない。神の「一つ」という奥義が私たちの中でじっくり実現していくプロセスだ。そんな驚くことをエペソ書は語るのです。これを書いたパウロ自身がそうでした[8]。かつては異邦人には目もくれなかったパウロが、異邦人のための伝道者となり、教会の中の差別とも戦ってきたのです。エペソ書執筆はパウロの晩年。それも投獄され、囚人としての鎖に繋がれていた時です[9]。不自由な中、じっくりと福音を思い巡らし、円熟味のある思想をエペソ書に書いたのか。あるいは、他の書簡からも、囚人となったパウロを訪問してくれ、献金を送って助けてくれる異邦人たちもいたようです[10]。パウロは困難も多い中で、本当に神はキリストによって私たちを一つとされたのだ、と実感しながらこの手紙を書いたのです[11]。

 私が最初に覚えたエペソ書の言葉は2章の「信仰による救い」を明言する言葉です。
2:4…あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。…8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。10実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
 私たちは、自分の行いによらず、ただ神の賜物として信仰も戴き、恵みの救いもプレゼントされました。それは、ただ私たちが「救われる」だけでなく、私たちがバラバラな存在でなく、神の「御心の奥義」、一つとされた召しに与って、それを実らせる「善い業」も一人一人に備えられている。そういうエペソ書のメッセージに、私も段々と気づかされています。神が願っているのは、本当に深く、真実な、時間を掛けた回復です。どうしようもないほどの敵対や断絶を、イエス・キリストが命をかけて和解させてくださる御業です。それを、私たちは一歩一歩受け止めます。理想主義になって、焦ったり諦めたりしなくてよい。本当の一つを用意されている神への信頼から、本心からの和解を、心込めて受け取っていこう。私を献げていこう。そう気づかせてくれるのもエペソ書です。エペソ書3章16~21節の祈りで終わります。[12]

[1] 1章1節の欄外に「異本に「エペソの」を欠くものもある」、そちらの方が有力です。

[2] 1章の17~19節には祈りが出て来ます。3章の最後14節以下も祈りで、結びの6章23、24節も祝福の言葉。書きながら祈ってしまう、パウロの熱い説教です。今回も、大竹護牧師の説教を大いに参考にしました。エペソ人への手紙2章10節「一書説教 エペソ書~召された者として~」

[3] 英語では14回loveが出て来ます。他のパウロ書簡では、ローマ書26回(英語12、ギリシャ語14)1コリント21回(14、13)、Ⅱコリント18回(11、12)、ガラテヤ5回(4、5)、ピリピ10回(5、4)、コロサイ13回(5、7)、Ⅰテサロニケ11回(6、7)、Ⅱテサロニケ5回(3、7)、Ⅰテモテ8回(6、5)、Ⅱテモテ9回(5、6)、テトス6回(3、1)、ピレモン6回(2、3)。

[4] エペソ書には、日本語では「一つ」が11回。ギリシャ語本文では、ヘイス(一、それぞれ)が11回(2:14~16、18、4:4~7、16、5:31、33)、ヘノーテス(一致)が2回(4:3、13)、アナケファライオー(一つに集める、こことローマ13:9だけの言葉)です。

[5] 2:5「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」、22「あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」3:6「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」、18「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、」、6:24「朽ちることのない愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する、すべての人とともに、恵みがありますように。」。4:31(「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。」)にも「ともに」が出て来ますが、ここでいう意味とは違うので除外しました。

[6] 4:2「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、」、25「ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。」、32「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」、5:19「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」、21「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。」

[7] ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』421頁。

[8] 2章11節「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、12そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。13しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。14実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、15様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、16二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。17また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。18このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。19こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」パウロ自身が、かつてパリサイ人というガチガチの民族主義者で、ユダヤ人以外の「異邦人」とは一緒に食事もしない人でした。しかし、パウロはキリストに出会って、異邦人とも近くされました。その個人的な独白も、三章に吐露されています。

[9] 6章20節「私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」

[10] ピリピ書4章など。

[11] 神に背を向けて、罪の故にも、人間関係が壊れて、人の心の奥にも深い傷があります。神は表面的な一致や一体感や仲良しではなく、本当に深い癒やしと心からの和解と、本物の回復を与えたいと願っていらっしゃる。それをパウロ自身体験してきたのです。

[12] 3章16~21節「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。20どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、21教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする