聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ニュー・シティ・カテキズム5 世記1章26節~2章3節「神がすべてを作られたからには」

2019-11-12 09:48:15 | ニュー・シティ・カテキズム
2019/10/27 創世記1章26節~2章3節「神がすべてを作られたからには」
ニュー・シティ・カテキズム5
 先週は、三位一体の神がご自身のかたちに、人を男と女に造られたとお話ししました。私たち人は、神を映し出す存在として、神の栄光を現すために造られた、限りなく価値ある者なのです。その続きの今日は、神が人間の他に何を作ったか、を見ていきます。
第五問 神は他に何を創造されましたか?
答 神は全てのものを神の力強い御言葉によって創造し、全ての神の創造物は非常に良いものでした。全ては神の愛の統治のもとで栄えました。
 神は、人間だけでなく、この世界のすべての造り主です。勿論、科学の世界では、神が作ったとは言いません。今の科学では、世界がビッグバンから始まって、どのように今の宇宙になり、地球上に生物が誕生して、現在のような世界になったのかを説明しようとしています。化石や望遠鏡で調べて世界を解明しようとしています。その科学者の中には、沢山のキリスト者や、違う信仰を持っている人がいます。神が世界を造ったという信仰と、世界がどのようにして出来たのか、という科学とは決して矛盾しません。

 また、神がこの世界をお造りになったと信じることは、科学で神を証明することとは別です。科学で、神の証拠を発見できるとは言いません。小説を読んでも、作者の名前は載っていないでしょう。しかしそこに小説があること自体が、作者がいる証拠です。写真に色々なものが写っていても、カメラは写っていないことがほとんどでしょう。でも写真そのものが、カメラがあった証拠です。この世界も、科学で神を抜きにした説明は出来るとしても、この世界があること自体が、創造主がいることを証ししています。そして、こんな途方もなく大きく不思議で良く出来た世界を造られた神が、この私を作られて、今も支えておられることを思うと、私たちは驚き、神を賛美せずにおれません。
 またここにあるように、神の言葉の力強さ、神の創造力の偉大さに私たちは驚きます。この世界は偶然に出来たのではなく、神が創造されて、すべてが存在したのです。意味のないものや、神の計画外で出来ちゃった物は、何一つありません。私たちもそうです。私たちも誰でも、人間は、神が一人一人をお造りになったのです。実際には、お母さんのお腹の中で育ち、十ヶ月かけて生まれてくる準備をしたのだとしても、それも含めて、神が一人一人を作ってくださったのです。同じように、世界は科学的には、これからも研究されて、どんなプロセスを通って、今のようになったのか、学説が出て来るでしょう。それも含めて、神がこの世界を、神の力で、神の目的をもって、お造りになったのです。この世界は、神の芸術作品なのです。この事が聖書の最初の一頁、創世記1章に書かれています。とても美しく、豊かな表現で、世界の創造を歌い上げます。そこから、聖書の記述は始まるのです。その創世記一章の締めくくりが、31節です。
1:31神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。2:1こうして天と地とその万象が完成した。…
 神はこの世界を見て、「非常に良かった」と見られたのです。神にとって出来ないことは一つも無いし、ご計画通り完成したのだから、良かったのも当然だろうと思いますが、わざわざ神は世界を振り返って、「非常に良い」と喜んでおられるのです。
 他の国の神話は大抵、そうはなりません。神が世界を創造している間に、ハプニングが起きたり、予想外のことが起きて、世界は今問題だらけになっている、そういうお話しが多いのだそうです。この世界は、苦しみや戦いが起きる、壊れた世界。価値のない世界。神が作られたのだとしたら、失敗作だ。そのように捕らえるような神話です。
 それを考えると、聖書が世界の創造を、神の主権だと考えていることは特殊です。
「全ての神の創造物は非常に良いものでした。全ては神の愛の統治のもとで栄えました」
と言い切っていることも、とても驚きです。この世界は、非常に良い世界。私たちの生きている宇宙は、失敗作ではなく、美しい世界。この後、3章でアダムとエバが神から離れたために、醜い罪が入ってきます。裏切り、嘘、隠蔽工作、責任の擦り合い、主導権争い、沢山の苦しみ、悲しみが入りました。病気や死や、自然災害も起きます。世界が美しいとは到底思えない現実があります。だからこそ、聖書が私たちに、神がこの世界を「非常に良い」世界として見ていると語ることを覚えましょう。神はこの世界の中に、神の力や知恵、栄光を豊かに現しています。そして、今も、人の弱さや愚かさでも台無しになったような世界ではなく、この世界を回復してくださるのです。

 私たちは今、世界の壊れた部分が目について、人間の醜い部分、自分の足りないところに目が行ってしまうものです。しかし、だからといって、この世界や人間、自分が、虚しい、無価値だと思う事はありません。この世界を創造された神、三位一体の愛の神が、この世界を通して、栄光を現して、それを必ず完成なさるのです。そこに立ち返るのです。
Ⅱコリント4:18私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。…
ローマ1:20神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる…
 聖書にはこの両方があります。ともすると「見えるものではなく見えないもの」とか「見えるものに目を留めないのが信仰だ」が強調されます。それは極端です。この世界に神の永遠の力と神性は、ハッキリ現されています。空の鳥、野の花、夜の星空や自然の美しさ、皆さんの体、世界を支えている秩序や法則や不思議。見える物をシッカリ見て、神の栄光を知れると、聖書は招きます。問題や災害は一部で、普通や幸せや、命や美しさ、必要も楽しみも何一つ当たり前ではなく、奇跡です。神が作られた以上、世界はなお美しく、やがて神はこの世界を必ず回復なさるのです。ですから、頭で信仰を考えず、今ここで、全身で、神の作られた世界を感じましょう。目を開けて、世界に現された神の栄光を、臨在を十分に味わいましょう。
 イエス・キリストは、その神との関係を修復してくれました。私たちは世界を見る目も、驚きと賛美に変わったのです。

「その言葉によって世界を造られた主よ。私たちはあなたのなさった創造に驚嘆します。たとえ、世界が破綻しているとしてもです。あなたの美しさは、星々の輝きに現されています。あなたの力は大風の威力に示されています。あなたの秩序は、数学の法則に分かります。息のあるものはすべて、御手の業のゆえに、御名を賛美しますように」
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2019/11/10 マタイ伝4章18~25節「始まりはペテロ」

2019-11-12 09:36:15 | ニュー・シティ・カテキズム
2019/11/10 マタイ伝4章18~25節「始まりはペテロ」
 来週末からカトリック教会のローマ法王が来日する予定です。私たちプロテスタントには、隣人教会の大イベントという程度のことですが、カトリック教会は歴代のローマ法王(教皇)を使徒ペテロの継承者として重んじています。今日はそのペテロの召命という記事です。
 そう考えても、イエスが招かれた最初の人物が、シモンとアンデレの兄弟という漁師であったことは、驚きだなぁと思います。イエスの宣教が始まって最初になさったのが、立派で有能な弟子を神殿や王宮で探すことではなく、湖で網を打っていた漁師、ペテロとアンデレの兄弟、更に別の兄弟、ヤコブとヨハネという人選でした。勿論、ここだけを読むと偶然出会って、いきなり声を掛けて、四人とも
「すぐに」
今までの生活を捨てたような無茶苦茶に思えます。実際には、ヨハネの福音書を見ると、彼らは以前から既に洗礼者ヨハネの弟子としての生活をしていました。洗礼者ヨハネから教えを受け、イエスも紹介されていました。またルカの福音書5章では、イエスがペテロの舟に乗って、網が破れそうな位の沢山の魚が捕れた奇跡が出て来ます[1]。ここには書かれていない別の経緯もあってペテロたちは従ったのです。
 ただ、この記事があの大漁の奇蹟を省いた召命の記事だったにせよ、それとも二つは別で二段階あったにせよ、マタイはあの奇蹟を省略したのですね。奇蹟を見たからイエスに従ったのではなく、奇蹟があろうとなかろうと、イエスが招いて、ペテロたちがすぐに応える、それが肝心なのだというようです。今でも
「聖書にあるような奇蹟が起これば…神が証拠を見せてくだされば…自分の願いを叶えてくだされば…信じられるのに」
と無い物ねだりをして、自分が信じられない理屈や、誰かに信じてもらうのが難しい理由にしたりすることがあります。しかし、どんな奇蹟を見ても、人の心はそれでイエスに従うわけではない。それこそ、聖書の奇蹟の出来事が語るメッセージです。大事なのは、イエスが私たちに目を留めて、呼んでくださること。そしてそれは、奇蹟がなかろうと起きるし、神殿でなく職場でも起きるし、様々な形で起きるのです。
 ここでもそうです。イエスは、シモンとアンデレの兄弟を呼び、
「人間を捕る漁師にしよう」
と言われました。今までの生活を捨てた面ばかりが強調されがちですが、それ以上に「人間の漁師にしよう」[2]と、漁師の彼らならではの呼びかけをされましたし、兄弟を兄弟として招きました。兄弟を切り離すのではなく、兄弟として招かれて、当然その兄弟関係も、今までとは違うものになったでしょう。この後の五章以降の「山上の説教」では、「兄弟に対して」というフレーズが繰り返されますし[3]、それは実の兄弟以上の広がりを持つのですが、しかし一番弟子のペテロとアンデレ二人、ヤコブとヨハネの兄弟にとっては、まずお互いを思ったことでしょう。イエスは、弟子たちを今までの関係から断ち切り、過去を全く捨てて出家させたのではなく、それぞれの家族関係、漁師の仕事や経験を踏まえて、新しい生き方に招かれたのです。
 それは、まだペテロたちには十分分かっていたわけではないでしょう。ペテロはこの後、弟子の筆頭として、よく登場します。しかし、その発言はいつも背伸びや負けず嫌いな独り歩きです。湖の上を歩くイエスを見て「私にも水の上を歩かせてください」とのぼせ上がります[4]。16章では、イエスをキリストと告白する大切な告白をします[5]。そこでのイエスの言葉に基づいて、天の御国の鍵を代々のローマ教皇は与っていると考える、大事な告白です。しかし、その直後に、イエスがご自分の向かっているのが苦難の最後であるという予告を聞くと、ペテロはイエスを諫(いさ)めてしまう[6]。そして、最後の晩餐の席では、イエスを知らないなどとはたとえ一緒に死ななければならないとしても絶対に言わないと意地を張り、その夜には三度、イエスを知らないと裏切ってしまう。それがペテロの名前が出て来る最後になります。
 ペテロは主の一番弟子として選ばれて、初代教会のリーダーとなります。でも、競争心や自己顕示欲が強い人だったのかもしれません。本名はシモンで、ペテロはあだ名。
「岩」
という意味で、良く言えば動じない不屈さ、悪く言えば石頭、頑固者だというニックネームです[7]。そういうシモンにイエスが声を掛けたのは、シモンの欠けも問題もご存じの上で愛される、イエスの眼差し、神の国の懐の広さです。後々、優れたリーダーになるのも、イエスご自身が彼を辛抱強く訓練し、成長させたからに他なりません。3章でも4章でも「石ころからアブラハムの子らを起こす」「石がパンになるように命じなさい」という言い方がありましたが[8]、石以上に変わりがたいのが岩です。イエスは「岩」を「人間の漁師」になさいます。シモンという石頭から「神の国の最初の弟子」を起こし、おっちょこちょいの漁師を「人間を捕る漁師」、命のパンの宅配人に変え始めたのです。しかも偉そうに、力尽くで人を集めて食い物にする漁師ではありません。自分も人間臭さをプンプンさせながらイエスに招かれ、その後もその弟子の中でも「団栗の背比べ」をし、イエスをさえ諫め、裏切りながら、そこから頑固さを砕かれて立ち上がった。そう証しして、人の心に寄り添って励ます「人間の漁師」でした。それはこの時点でのシモンたちには誰一人思いも寄らないことでした。次もそうです。
23イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。24その評判はシリア全域[9]に広まって、人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。25こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。
 ペテロとアンデレが従い、ヤコブとヨハネが従い、大勢の群衆もイエスに従いました[10]。イエスがそこで教えていた内容は、5章以下の「山上の説教」で明らかにされます。そして、その最後に出て来るのは、イエスの語る説教を聞いた群衆達の、ビックリ仰天した姿です。
7:28イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
29イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。
 イエスの説教が魅力的だとか納得したではなく、驚いたのです。信じれば救われると語る、入信の勧め、入口の「伝道説教」でなく、神の国がどんなものかという、度肝を抜くようなゴールの幻を描いたのです。しかも「それを信じろ」でさえなく、イエスは無条件に病気や痛みを癒やされましたし、ついて来た群衆に対しては、もうすでにあなたがたは神の国の一員だという宣言でした。このイエスに従う人々が、そのままイエスの宣教の本質を物語っています。

 イエスに従うきっかけは人それぞれです。ペテロにはペテロの思惑があり、ヤコブとヨハネはイエスの右と左の地位が欲しいと取り入りました。自分の病気の癒やし、誰かの痛みの回復、というきっかけもあるかもしれません。教えに惹かれる人もいれば、自分捜しとか自分を変えたいとか、始まりは人の数だけ違うでしょう。初めのペテロがそうでした。石頭の漁師でした。礼拝や教会に来る求道からイエスに出会う場合もありますが、イエスは仕事をしているペテロに会いに来て招いたのです。また、群衆は病気や痛みがきっかけで集まりました。その、悲しみを知る人々を、イエスはすべて受け入れてくださった。そして動機は何であれ、ペテロも群衆もイエスに従ったことで、イエスの言葉に驚かされ続け、イエスによって変えられ続け、最初に求めていた幸いよりも遥かに素晴らしい幸いに生きるようになるのです。
 始まりがペテロだったとは、私たちには慰めです。ローマ教皇がペテロの直系なのではなく、私たち全員がペテロの直系なのです。簡単に変わらない石頭でも、イエスはわたしに従ってきなさいと仰る。その神の国の豊かな招きで私たちもここにいます。色々な思惑があり、恵みならざる思いを持ちつつ、それでもイエスの言葉やイエスの働きに惹かれて、ここに集められ、主に従う歩みをしています。そして、この群衆とも一緒に、山上の説教を聴き、御言葉を聞きます。私たちには驚くしかない、力強い言葉を語り、私たちも変えてくださるイエスに聴いていくのです。

 こうも言えないでしょうか。イエスこそ、シモンを取る漁師になってくださったのだ、シモンがまずイエスの最初の「収穫」だったのだ、と…。
 「人間をとる漁師に」というと、なんだか人間を魚扱いするようです。多くの人を信者にし、またその人たちを伝道の使命に生きるよう駆り立てる、というイメージが浮かんでしまいます。それは、恐ろしいことです。人を、人ではなく、魚や商品扱いするなんて。でも、実際、ペテロも私たちも、人間を人間扱いせず、商品やモノ扱いし合っていることが多いのではないでしょうか。
 そのままであれば、人間を魚か何かのように扱う伝道者になることもあるでしょう。しかし、イエスはペテロを、モノ扱い、働き人扱い、使いっ走り扱いはしませんでした。イエスはペテロを人として愛されました。だからペテロも、初めて、人を、イエスが愛したように愛し、イエスが回復させたように回復させる、「人間の漁師」として立ち得たのだ・・とも言えましょう。
 「人間を捕る漁師」とは、イエスがしてくださったように、人を呼ぶ働きに加わることです。イエスはシモンを無理矢理、弟子にしたり、ご自分の働きのための道具になるような人材集めではなく、シモンその人を愛し、喜び、そしてシモンも人間に人として向き合う生き方をさせたかった。だから、彼を呼び、あだ名をつけ、彼ならではの「人間を取る漁師」なんてフレーズで呼ばれたのです。同じように、ペテロも、人を取る漁師になる。主が自分を呼ばれたように、人にあなたを呼んでくださる主を伝える。ペテロ自身が、その人を愛し、その人の家族や経験を尊重して、その人と共に歩み、その人の失敗や問題に振り回されながらも、その人の変化、成長に寄り添っていく。そういう「人間を取る漁師」へと、ペテロは召されました。そして、私たちも、イエスが私たちを招いてくださったように、互いを招き合い、他の人にも、人として大切にしていく生き方へと変えられて行くのです。

「主よ。私たちもあなたに招かれてお従いし、今ここにある民です。痛みがあり願いがあり、誤解も罪もありますが、あなたが私たちに触れて癒やし、癒やし以上の幸いを下さる事を待ち望んで、お従いしたいのです。その私たちを、あなたの器としようとのご計画があなたにあることに、驚きつつ、心から受け止め、差し出します。先立つあなたとともにお遣わしください」

[1] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[2] 「人間をとる漁師」は意訳で、原文は、「人間の漁師」です。ルカ版では「今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」(5:10)ですから、あわせると「人間を捕る漁師」の意味でしょう。ただ、「とる」という言葉よりも、「人間性」が込められた表現とも読みたいのです。

[3] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[4] マタイ14章28節「するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。29イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。」

[5] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[6] マタイ16:章21節以下「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。22すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」前回、サタンの誘惑を退けたのに、最初に選んだペテロがサタンと重なるような足を引っ張る傾向を持っていた、という皮肉です。そんなペテロを、イエスは選んでくださったのです。

[7] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[8] 3章9節、4章3節。

[9] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[10] 「従う」(アコリューセオー)はマタイに24回使われます。

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