聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2019/11/24 マタイ伝22章37~40節「神の要求とは」ニュー・シティ・カテキズム7

2019-11-24 17:30:03 | ニュー・シティ・カテキズム
2019/11/24 マタイ伝22章37~40節「神の要求とは」ニュー・シティ・カテキズム7
 
 ニュー・シティ・カテキズムを一つずつお話ししながら、神がこの世界を創造したこと、私たちは神の栄光を現すために創造されたことをお話ししてきました。その神の栄光を現すことには、神が私たちに要求していることに従うことも含みます。
第7問 神の律法は何を要求していますか? 答 個人の完璧な、永久の服従です。それは私たちの心を尽くし、魂を尽くし、知力を尽くし、力を尽くして神を愛することです。そして私たちの隣人を自分自身のように愛することです。神が禁じていることを決して行わず、神が命令していることを常に行う事です。
 私たちが神に服従すること。それが神の要求です。「個人的で完璧で永久の」というのは、元々の英語のカテキズムでは
「Personal, perfect, and perpetual obedience」。
 Pで始まる言葉を三つ並べる、覚えやすい、言葉遊びになっています。個人的で、完璧で、永久の、というと堅い印象があるでしょうが、もっと深く、生き生きした印象を持って欲しいと思います。神は、私たちに、私個人の服従を求めておられる。私が、少しもいい加減でなく、完全に服従することを、そして、いつまでも服従することを求めておられる。そうよくよく味わって欲しいのです。神が、私たち一人一人の、パーソナルでパーフェクトでパーペチュアルな服従を求めておられる…。
 今日のマタイ伝でも、イエスは、神の律法で一番重要なのはどの戒めですか、と問われて、答えました。
マタイ22:37イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38これが、重要な第一の戒めです。
39『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。…
 心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くして、神を愛すること、そして私たちの隣人を自分自身のように愛すること。これが神の定めた人間に対する律法、神の要求の中心だと仰ったのです。神が私たちに求めているのは、神を愛すること、そして、自分の隣人を自分のように愛すること。この二つ。イエス自身、この言葉を聖書にある言葉から引きました。第一は、申命記6章5節です、第二はレビ記19章18節です。これは聖書の最初の方です。神は、最初から、人間に個人的で完全な永久の服従を求めていました。
 神は私たちを造った創造主です。私たちを創造した時、既に神が人間に求めていたのが、この完璧な神に従う関係でした。それは、神ご自身が人間を愛して、個人的で完全で永久の愛を人間に注ぐお方だったからです。神が人間にだけ、完全な服従を要求されるのだと思うと苦しくなります。無茶な要求をなさるなぁと恐ろしくなります。でも、神ご自身が愛のお方だからこそ、私たちにも、完全な愛、隙のない服従を求めるのです。
 イエスの弟子のペテロという人がいます。この人はとても真面目で、頑張り屋だったようです。家や仕事をなげうってイエスに従いました。同じようにイエスに従った弟子の中でも、自分は一番になろうと競争していました。イエスのためなら、例え殺されても決して裏切らない、と言い張っていました。しかし、イエスが捕まって十字架に付けられる時、ペテロはイエスを見捨てて逃げてしまい、「イエスなんて知らない」と三度も強く否定のセリフを吐きました。イエスに完璧に従っていくつもりが出来ませんでした。そのペテロに、イエスが現れた時ペテロに何と言ったでしょうか。ペテロも、イエスに申し訳ない思いでいっぱいだったのか、何と言われるかビクビクしていたようです。しかしイエスがペテロに言ったのは
「あなたはわたしを愛しますか」
でした。もう裏切りませんか、とか、どうやって償うつもりか、とか、嫌味や何かではなく、
「あなたはわたしを愛しますか」
でした。ペテロは「はい。私があなたを愛する事は、あなたがご存じです」と言いました。それしか、言えませんでした。でもイエスは、その言葉を聞きたかったのでしょう。イエスは「あなたはわたしを愛しますか」と三回もペテロに聞きました。イエスがペテロに求めたのは、何か犠牲を払うことでもないし、ペテロの愛など要らないという一蹴でもありません。イエスに従い切れなかったペテロにも、「愛しますか」だけを問われたのです。それを求めるのがイエスなのです。なぜなら、イエスご自身がペテロを個人的に完璧に永久に愛していたからです。
 イエスは私たち一人一人にも求めます。「あなたはわたしを愛しますか」と。私たちが神を愛することを求めます。私たちが神に「私はあなたを愛します」と言う時に、神は喜ばれるお方です。勿論、口先のいい加減な「愛」ではありません。心も命も知性も傾ける偽りのない愛を求めます。私たちも、口先だけの愛や、心のこもっていない愛は要らないのです。神は私たちがお互いにも愛し合うことを望みます。隣人を自分のように愛する生き方を求めます。それは、ただ親切にするとか、嫌なことを我慢するとかの、形ばかりの善ではなく、自分も大事にして、同じように相手も大事にすることです。自分よりも隣人を愛しなさい、ではないし、隣人や自分よりも、神を愛しなさい、でもないのです。神が、ご自分を愛するように求め、私たちにも、隣人を自分自身のように愛しなさい、と仰った。それが、神の要求である、ということに私たちは驚くのです。
 そして、この要求は要求によっては果たせません。愛は、命じたり、強制することによって出来ることではないのです。愛は、ただ神の愛が注がれることによってのみ芽生えます。神の愛は、ただ私たちを愛するだけではなく、私たちのうちに自分も他者をも同じように愛するようにさせる命の力なのです。神の愛をもらうことなしに、私たちは神を愛することは出来ません。私たちの心には、神から離れた結果の、愛とは真逆の、自分勝手な思いや不安や淋しさでいっぱいです。神は、まず私たちとの関係を取り戻すため、御子イエス様を私たちに遣わしてくださいました。イエスこそ、愛の贈り物です。イエスの命が、私たちと神との関係を回復してくれました。その回復によって私たちは、神を愛することも、自分を愛することも、隣人を愛することも、出来るように変えられて行くのです。

 イエス・キリストは、私たちを愛するだけでなく、私たちと神との関係を整えてくれました。それによって、私たちは神の愛を受け取り、私たちも神を愛し、自分も隣人も同じように愛することが出来るようにされていきます。神は、ご自分の要求が果たされるよう、すべてのことをなさっています。だからこそ、私たちは心配せずに、安心して、神を心から愛し、自分もお互いをも愛するようになっていけるのです。
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2019/11/10 マタイ伝5章13~16節「地の塩、世の光」

2019-11-24 16:58:29 | ニュー・シティ・カテキズム
2019/11/10 マタイ伝5章13~16節「地の塩、世の光」
 マタイの五章から七章の「山上の説教」は、「幸いなるかな」という言葉で始まりました。それに続く13節以下に
「あなたがたは地の塩です。…世の光です」
と言われます。先の幸いも聞かされた群衆にとっては驚きの始まりだったわけですが、この言葉もまたビックリだったでしょう。何しろ、
「あなたがたは地の塩です
と大変強い言い方でイエスから断言されたのです。彼らは、イエスの教えを聞いたり、病気を癒やしてもらったりして、イエスに従ってきた人々です。よく分からないけれど、イエスに惹かれて、或いは様々な思惑があって、集まってきて、イエスの教えを聞こうと集まってきた人々です。その人々に、イエスは仰る。
「あなたがたは地の塩です」
と。「地の塩になります/してあげよう」でも「なりなさい」でもなく、
「あなたがたは地の塩です」
なのです。人の側ではそんなつもりはない。「私は地の塩とか世の光とかになりたいんじゃない」と思っても、イエスは、集まる人々の幸いだけではなく、集まった人々が地の塩となり、世の光となることを視野に入れていました。それが神の国でした。
 「地の塩」。塩は食事に不可欠で、生活にも健康にも欠かせません。甘い和菓子にも塩が入るとを引き締めます。また塩は防腐剤の役目もします。人間の体にも塩は不可欠です[1]。水と塩だけで生きのびる話もあります。ですから塩は高価で、お金の代わりに用いられていた程でした。鳴門は塩作りの町で、かつてはこの一帯も塩田。塩を作る大事な働きを担ってきた地域です。イエスはその塩のように、集まった人たちが地にとっての塩…味を引き締め、腐敗を引き止め、生命を維持する、不可欠で高価な存在と言われるのです[2]。しかし塩の取り過ぎは毒です。塩分を控えるべき病気もありますし、和菓子や食事も塩を入れすぎたら台無しです[3]。塩は塩味を主張せず、食事に馴染んで、隠し味になっているぐらいが適当です。ですからキリスト者も、「少数だから弱い」とか「もっと数を増やして目立たせよう」ではなく、少量で十分な役割を果たしている。目立たず、気づかれなくても、社会にとって大切な役割、引き締め、腐敗を防ぎ、命を支える存在である。そう言われているのです[4]。続く、
「…もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。」
の部分は、塩が塩気をなくしたら踏まれる、という警告にも聞こえます。当時の岩塩は塩気をなくすことがあったそうです。しかし、本当の塩は塩気をなくすことはありません。塩には賞味期限の記載がないのです。塩が塩気をなくしたら、というこの言葉を聞いて、皆さんは「ああ、私は塩気を失った塩だ。塩気や腐敗防止を果たせず、流されていてばかりだ。投げ捨てられて踏みつけられても仕方ない」と思うかもしれません。しかし、これは逆です。あなたがたは地の塩だ、とイエスは断言されました。その塩が塩気を失うことはないのです。投げ捨てられ、踏みつけられることは決してない。そう聞きたいのです。だからこそ、続く言葉は、塩気を失わないように頑張れ、地の塩になれ、というような命令や警告ではなく、
14あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
15また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
16このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。…
 地の塩よりももっと踏み込み「光」。
「あなたがたは世の光です」
と言い切るのです。これは「山上の説教」で、彼らは山の上にいました。そこで
「山の上にある町は隠れることができません」
と仰る。イエスの元に集まっている、その姿が光となる、というようです。ここでも私たちの中には「自分は光り輝くなんて出来ない」と遠慮する声が聞こえる気もします。安心してください。これも、「世の光になりなさい」とか「輝きなさい」と命じているのではありません。
「あなたがたは世の光です」
とイエスが仰るのです。
「明かりをともして升の下に置いたりはしません」
とありますが、当時、窓もないような狭く貧しい家では灯(あか)りを消す時には升を上から被せて、煙で空気が汚れないように消したのだそうです。しかし灯りを灯(とも)すのは消すためではありません。燭台の上に置き、家にいるすべての人を照らすためです。燭台が頑張って輝いたり、高価な燭台であったりする必要はありません。「世の光」とはその人が輝いた「スター」になるのではありません。神が、その人を通して、周りの人々を照らすのです。
 16節も「輝かせなさい」というより、
「あなたがたの光よ、人々の前で輝け」
光に命じる文法です。だからこそ最後も
「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」
と言われます。私が立派な行いをしてスターのように輝く、スポットライトを浴びる、それなら私が称賛されるでしょう。取って付けたように、「私ではなく、神様がしてくれたんです」とは言えるかも知れません。でもそういう事ではない。
 そもそも
「天におられるあなたがたの父」
の呼び名が、ここで初登場の言い回しです。旧約聖書には、神を天の父と親しく呼ぶことは極めて珍しく、恐れ多いことでした。しかし、イエスはここでサラリと神を
「天におられるあなたがたの父」
と呼ぶのです[5]。イエスは天からの
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」(3:17)
と告げられた御子ですが、そのイエスが群衆や私たちを集めて、神を「天にいます父」として結びつけて、親しく「アバ父」と呼ばせてくださる[6]。何にも持たない貧しい者に、天の御国を下さり、迫害の中でも喜ぶような幸いを下さる。イエスの元に来た人々は、そういう途方もない恵みを聞いたのです。イエスに従う時に聞くのは、私たちの心も人生のあらゆる面も知り尽くす神が、それでも私たちを見捨てず踏みつけず、「天にいます私たちの父」でいてくださる。私たちの罪のためにご自身が御子の命の犠牲を払い、赦しと回復を与えてくださる。この神の確かな愛です。
 聖書は神と人間との関係を「契約」と呼びます。それを
「塩の契約」
と呼ぶことが旧約には何度かあります[7]。神の人間に対する約束が変わらないから、そして、私たちの生活や共同体に塩気をもたらし、引き締めて、腐敗から救い出してくれるから、でしょう。「塩の契約」に生かされている私たちは、幼子のように喜び、正直になり、飾ったり輝いてるふりをしたりせずに生きていける。その幸いを戴き続け、イエスの教えに育てられていく。その安心感、喜びの生き方が「良い行い」として、父を証しするのです。
 具体的にはこの後17節から最後まで、その
「良い行い」
がどんなものか、が語られていきます。心でも人を蔑まない、復讐しない[8]。特に、6章1節には
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父からの報いを受けられません。」
とあります。世の光とは、人目を意識した善行ではないとハッキリします。むしろ人目ではなく、神の真実で憐れみ深い眼差しを覚えて生きる。私たちの心を見ている神の前に生きる。そして、6章後半には
「思い煩うな」
と言われます。あなたがたの天の父なる神があなたがたの必要を満たして下さる。だから、明日を思い煩わず、今日の十分な労苦を担っていける。それが、結果的に「天の父があがめられる」「善い行い」になります。「敬虔なキリスト者」の立派な生き方ではなく、罪人をも回復させる神の前に、飾らず、あるがままに生きる。その生身の歩みが全ての人への光ともなるのです。苦しみの中で慰めを受け、失敗したり罪を犯したり限界にぶち当たる時も、主に立ち返り、教会という神の家族の中で、慰めやサポートをもらうことが出来る。そんな歩みこそ、本当の意味で
「良い行い(立派な、美しい行い)」
となって、周囲を照らす「世の光」となるのです。醜さや闇や問題を隠した「美しさ」を装うのではない。醜い問題にも正直に向き合い、それが変えられ、ケアされることこそ、本当の美しさでしょう。「地の塩、世の光」は立派そうな証しを立てることだと思われたり、「こんなことは証しにならない」と問題を隠蔽したりすることになりかねない理解もされますが、その逆に、思い煩いや労苦や心の奥をも見ておられる天の父の前に生きることそのものです。
 主の言葉を聞かずにはおれずに教会に集まっている私たちです。主の周りに集まって御言葉に聴く歩みが、天におられる私たちの父なる神を示して、人々の心を照らす[9]。希望や正直さ、安心や喜びを与え、この世界を、気づかないぐらい僅かに、でも僅かでも確かに、住みよい世界にする。神のいます世界にしていくのです。
「あなたがたは地の塩です。あなたがたは世の光です」。
 イエスが私たちを愛して救うだけでなく、そのことを通してこの世界を生かそうとされている。私たち一人一人がそう言われています。
「『教会が教会であるのはそれが他者のために存在する時だ』[10]。主よ、あなたが私たちのために来られたように、私たちもあなたのため、他者のために存在する者です。あなたの恵みは、人の心には思い浮かばないほど大きく、深く力強いのです。どうぞあなたの愛に潤され、幸いを味わい、主の十字架と復活の福音に生かされて、あなたの恵みの器としてお用いください。」

[1] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[2] 「地の塩」塩はマタイに他の用法なし。新約全体でもコロサイ4:5-6の「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。」のみ。

[3] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:9.0pt;text-align:justify;text-indent:-9.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[4] 日本でキリスト者が0.4%というのは少なくてもっと増えてほしいところですが、キリスト者を多くすることが目的ではない。

[5] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[6] ローマ書8章11~17節「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。14神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。16御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。17子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」、ガラテヤ書4章4~7節「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。5それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。6そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。7ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」

[7] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[8] また、マタイ6:19~24「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。20自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。21あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。22からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、23目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。24だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」地上に宝を蓄えない生き方、富より神に仕える生き方。そうでなければ、光はない、と言われている。

[9] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[10]  Wikipediaでも紹介されている、ディートリヒ・ボンヘファーの代表的な言葉です。


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