2019/9/22 マタイ伝2章1~12節「礼拝せずにいられない」
クリスマスには何度もお話しをしてきた今日の箇所を、もう一度、マタイの福音書の講解説教として一緒に聴きます。この箇所で目につくのは、なんといっても東の方からやってきた博士たちの礼拝であり喜びです。2章16節を素直に読むなら、博士たちが星を見たのは二年前。彼らは二年も旅をして王を礼拝しに来ました。そして星が、幼子の家の上に留まった時、
10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
とても強い喜びです。「大いなる喜びを喜んだ」という文章です[1]。博士たちの姿は非常にインパクトあるものでした。最初に「ヘロデ王の時代に」とあるヘロデ大王は、大変有能な王でした。彼はユダヤ人ではなくイドマヤ人で、ローマ皇帝に取り入ってユダヤの王として任命された傀儡ですが沢山の都市や建築物を建てた建築家でした。彼が建てた壮大なエルサレム神殿はユダヤ人にも自慢されましたが、有能さと残酷さ、妬み深さを併せ持っていたヘロデその人への尊敬はありませんでした。そのエルサレムに、東の方からの博士たちがいきなり現れて、
2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
と言いました。この寝耳に水の知らせにヘロデは動揺し、エルサレム中の人々も、ヘロデを動揺させるようなこの知らせに、震え上がりました。しかも、それがユダヤ人ではなく、東の国から来た異邦人から、というのがまた夢にも思わない展開でした。[2]
この博士たちは、どうして星を見てユダヤ人の王の誕生を知ったのでしょうか。聖書には、メシアである王が来られることは書かれています。ダビデの子が永遠の王となる。それは聖書の全体像でお話しして来た、中心的な約束です。でも、それを告げる星の預言などありません。聖書の欄外に民数記の言葉が一応引用されますが、それは後付けで、キリストの星が昇ると明言してはいません[3]。祭司長、律法学者、聖書の専門家が、キリストの誕生は
「ユダヤのベツレヘムです」
と答えた根拠は旧約聖書のミカ書5章2節ですが[4]、この言葉だって当時の定説だったわけではなく、「都市伝説」みたいな読み方に見えます。それでも博士たちは出かけていきました。すると期待通り星が彼らを導いて幼子のところで止まりました。博士たちは大喜びを喜んで、幼子を礼拝して、贈り物を捧げ、そして夢で警告を受け、別の道からコッソリ帰っていった。素朴な礼拝、喜びに満ち、いつのまにか風のように帰っていたという、博士たちの巡礼でした。不思議な星が彼らを導いたというだけでなく、博士たちの訪問丸ごとが、不思議な彗星でした。エルサレムには場違いな異邦人が「ユダヤ人の王の誕生を知らせる星を見て礼拝しに来た」と言って消えた出来事そのものが聖書の読者にとって不思議な光なのです[5]。
この姿はなんと不思議でしょう。今でも教会が、新来者や通行人、他宗教の信者からハッとさせられることがあります。自分たちより遥かに純真な信仰、礼拝の姿勢、惜しみない生き方に頭が下がります。洗礼を受けていない人も主が不思議に導いて、喜びに溢れさせる出来事を目にします。聖書の言葉は異教徒や無神論者にも希望や生きる喜びを与え、その歩みに主は不思議に働いておられる。その事に自分の心を問われ、謙虚にされます。生きて働いておられる主への信仰を、色々な人によって教えられ、気づかされるのは恵みです。恥ではなく恵みです。
博士たちは他の人にも「お生まれになった王を一緒に礼拝に行きましょう」とは言いません。イエスご自身、「博士たちだけだとは不信仰だ、エルサレムはけしからん」と責めません。ヘロデならどうでしょう。ヘロデは自分の権力の座を誰にも奪われてはなるものかと戦々恐々としていました。イエスを殺そうとベツレヘムの男の子を皆殺しにしたように、自分を脅かす者の首をはね、エルサレムの住民は怯えて彼に頭を下げていたのです。大王とは呼ばれても所詮は人間に過ぎないヘロデの思い上がりでした[6]。しかし永遠の王であるイエスなら、自らへの礼拝を義務として要求し、強制的に集めてひれ伏させ、捧げ物を命じても良いのでしょうか。礼拝しない不届き者を罰する権利をお持ちなのでしょうか。
いいえ、イエスはそんな王ではありませんでした。イエスは礼拝されるためでなく、私たちを罪から救い出すため、私たちに仕えるために来て下さった王です。こう言われました。
20:28…仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た…[7]
「来た」。
博士たちも東の方から来ましたが、イエスはもっと遠くの神の座から来ました。
博士たちは王を求めて来ましたが、イエスは罪人、疲れた人、失われた人を求めて来ました。
博士たちは王の前にひれ伏して礼拝しましたが、イエスは弟子たちの足元に屈んで足を洗い、ゲッセマネでひれ伏して祈りました。
博士たちは宝の箱を空けて、黄金、乳香、没薬を捧げましたが、イエスはご自分の差し出せる全ての宝を下さいました。罪の赦し、神の子どもとしての立場、教会という交わり、日毎に必要な糧を。
そして、博士たちが星を見てこの上なく喜んだように、イエスは私たち一人一人との出会いを、この上もなく喜んでくださった。私たちの罪も、礼拝に腰の重い鈍さも、全てご存じの上で、そんな罪に死んだ生き方から救い出すために、イエスは来られました。それも、喜んで、愛して。
ヘロデのような王とは全く違う、民に仕え、私たちを喜んでくださる王。この方がおいでになったしるしが、博士たちだったのです。
ここで博士たちは自分たちの喜びだけで一杯でした。「人を誘わなければ」などとは考えず、自分がこの王を見る喜びで一杯になり、喜んでひれ伏して、捧げ物をして帰って行きました。その姿が、イエスが初めてくださる礼拝とはどんなものかを教えられるのです[8]。マタイの福音書最後の28章では、復活したイエスを弟子たちが礼拝したとあります。
28:17そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。
2章で博士たちの礼拝に驚かされただけのユダヤ人が、最後には弟子たちがイエスを礼拝するのです[9]。4章の荒野の誘惑では、人が悪魔に頭を下げて妥協する誘惑が取り上げられています。人が神を礼拝することから遠い現実があります。そのような人がイエスに出会うことで、イエスを礼拝するよう徐々に徐々に変えられて行き、イエスにひれ伏す姿は垣間見えます。そして、最後でイエスを礼拝をする[10]。それでもまだ、疑う者たちもいる。でも、そんな弟子たちをイエスは受け入れ、育て、ともにいてくださるのです。
礼拝は、命令されてする義務ではなく、イエスが私たちの心に育てて下さる関係性です。礼拝は「行かなければならない」からではなく「主を礼拝したいから、礼拝せずにはおれないから」来るのです。礼拝が「サービス」というのは、私たちが神に仕えるからではなく、神が先に私たちに仕えてくださったからです。キリストが私たちの所に来て下さいました。イエスが私たちの心の奥に働き、罪の赦しを与え、重荷を下ろさせ、神の子どもとしてくださいました。教会の交わりに入れ、他の人の中に主を見るような目を下さいます。神を、神だけを礼拝する思いをくださるのです。まだ疑い、よそ見する私たちをもじっくり時間をかけて、慰め、教えてくださいます。外国人や場違いな人を通しても気づかせてくれます。そうして私たちが心から主を喜び、礼拝する恵みを取り戻して、私たちの生き方に主を王として迎えさせてくださる。それもまた、私たちの努力でなく、イエスの御業です。イエスはそのような王です。そして、そのように私たちが、私たちに仕えておられ、私たちの周りの人を通しても語っておられることを知れば知るほど、ますます主を礼拝し、喜んで生きるようになり、人をも愛するようになります。その私たちの姿そのものが、この世界に光を投げかける星となるのです。
「崇められるべき主よ。あなたは私たちに礼拝を強いるより、むしろ自ら犠牲となり、私たちに跪いて仕えてくださいました。私たちを喜び、罪の赦しと光を下さいました。その愛と御業を知れば知るほど、私たちはあなたを礼拝せずにはおれません。闇や絶望や権力が力を振るうように思えます。ヘロデのような恐れに囚われそうになります。しかし、ここに来られたあなたこそ真の王です。あなたの恵みにより、全てを導いて、心からあなたを礼拝させてください」
[1] 喜ぶ:5:12「喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」、18:13「まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。」、26:49「それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。」、27:29「それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。」、28:9「すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。」。
喜び13:20「また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。」、13:44「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」、25:21「主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(25:23も)、28:8「彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。」
[2] 「博士たち」(マギ)には色々な訳語が当てられます。高貴な人(マジェスティ)、高官、天文学者、占星術師(新共同訳)、賢者、王、…?? 諸説あるにせよ、いずれにせよ、異邦人の高貴な身分の方々であることは間違いありません。3人というのも聖書には明記されていません。もっと多くだろうという説が伝統的には強くありました。
[3] 民数記24:17「私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみを、すべてのセツの子らの脳天を打ち砕く。」
[4] 「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
[5] 捕囚で散らされたユダヤ人から聖書の言葉を聴いて、メシアが来る約束を知っていて、見たこともない星が西の空に昇った時、「あの王の誕生の知らせだ!」と思ったのかもしれません。それは非常に危うい断定でした。
[6] 博士たちのように、喜んで「礼拝しに来ました」という存在はどんなに脅威だったことでしょう。彼らが義務感や理屈で礼拝に来たならまだしも、素朴な心で礼拝に来ている。聖書の約束を心から信じて、期待している。その目の輝きは、ヘロデを恐れてひれ伏す人々の目には決して見当たらないものでした。だから、ヘロデはイエスをますます憎み、殺そうと計ったのでしょう。同じ、イエスへの「礼拝したい、信じてお仕えしたい」という心を戴いた人々が増えていくことで、やがてローマ帝国そのものがイエスを迫害することを諦めるようになっていった、とも言えるかも知れません。
[7] マタイ20:28「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」
[8] 礼拝に誘わなければ、とか、人にも「礼拝に行かなければ」と誘うより、自分にとって礼拝が大事であれば、人も「あの人の行っている礼拝って何だろう?」と思うでしょう。勿論、礼拝がいつも喜びや恵みで満たされているばかりではありません。生きていることには悲しみや問題もあります。その浮き沈みをもともにしておられ、その私たちの歩みを治め、すべてを恵みと賛美に変えてくださる王がイエスです。だから私たちは心からイエスを礼拝するのです。私たちの罪、恥じ入るしかない思い、取り返しのつかない過ちをも知った上で、それを十字架の上で贖ってくださったイエスを仰がずにはおれないのです。私たち自身が、礼拝を「せねばならない」というより、「せずにはおれない」恵みとして受け止めて、生活の中心にイエスを迎える時に、それは周囲や家族にとっても、誘われなくても興味を持つ礼拝、誘って欲しい礼拝になるでしょう。そして、私たちは、主が様々な方法を用いて、一人一人の心に働きかけて、礼拝するよう導いてくださることを、信じているのです。
[9] 「ひれ伏して礼拝する」は、今日の2:2、8、11の他、4:9-10「こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」10そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」、8:2「すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。」、9:18「イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。」、14:33「舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。」、15:25「しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」、18:26「それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。」、20:20「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした」、28:9「すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。」、28:17。
[10] その途中でも、イエスご自身が弟子たちや人間にご自分への礼拝を要求した事は一度もありません。イエスは神の国の福音を語り続けたのであって、まず礼拝を義務化することはしませんでした。