2019/9/1 マタイ19章13~15節「こどもたちの御国」はじめての教理問答133~136
先週から「洗礼」についてお話しをしています。水を用意して、私たちがキリストによって洗われ、いのちを注がれたことを表すのが洗礼(バプテスマ)。では、洗礼を受けるのは誰でしょうか、というのが今日の学びです。
問133 洗礼を受けるのはだれですか? 答 信徒とそのこどもです。
問134 どうして幼児のときに、洗礼を受けるのですか?
答 神さまは、信徒のこどもも契約に入れられ、洗礼によってその民のしるしを与えられるからです。
問135 キリストは幼児について、どのようにいっていますか?
答 「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです」といいました(マタイ19:14)。
問136 洗礼を受けることで、あなたはどのようなものとならなければなりませんか? 答 ほんとうにキリストに従うものとならなければなりません。
まず、洗礼を受けるのは誰か、というと、信徒とその子ども。キリストを信じた人が洗礼を受けます。その子どもも一緒に洗礼を受けることが出来ます。私たちの教会、長老教会は「幼児洗礼」を行います。洗礼式に、信じた方だけでなく、その子どもも一緒に預かります。また、信徒の方に赤ちゃんが生まれたら、その赤ちゃんに洗礼を施すこともあります。それは、ここに書いてある通り、「神様は、信徒の子どもも契約に入れられ、洗礼によってその民のしるしを与えられるから」と書いてある通りです。
聖書を読むと、神は最初から、人間を家族として見ています。神の約束は、私たちだけでなく、私たちの家族、子どもたちにまで代々祝福を約束するものです。ペテロは、
使徒2:39この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
と語りました。あなたがたの子どもたちに、とわざわざ言われます。それは、子どもを持つ親にとっては当然嬉しい驚きです。神は私たち一人一人に信じることを求めるだけでなく、私の子どもたち、家族にも祝福を約束して、良いご計画を持っておられます。ですから、同じ使徒の働きの後の方では、こんな言葉も言われます。
使徒16:30…「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。31二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」32そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。33看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。
この「その家の者全員」に子どもがいたかどうかはハッキリしません。パウロの言葉もあなたが信じれば自動的に家族も救われる、と言ったのではなく、あなたもあなたの家族も、主イエスを信じなさい、そうすれば救われます、と言ったのです。けれども、その前に
「(自分が)救われるためには何をしなければなりませんか」
と問うた問に、聞かれてもいない
「あなたの家族」
の事まで話している事自体が素晴らしいですね。神が見ておられるのは、あなただけでなく、あなたの家族丸ごとです。聖書のメッセージは、私たち一人一人だけでなく、家族単位の、私たちの生活丸ごとの祝福なのです。そして、それは例え夫婦両方でなく、片親が信者であるだけでも、既にもう片方の親も、子どもたちも神様との特別な関係に入れられていると言われる程です。
Ⅰコリント7:14なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。
夫も子どもたちももう「聖なるもの」、つまり神様との関係に入れられているのです。こういう言葉を、幼児洗礼は幼い子どもが洗礼に与ることによって、見せてくれます。
とはいえ、それは決して自動的にその子が救われる、何をしても関係ないということではありません。洗礼自体が、特別な魔力や保証になるのではないのと同じです。しかし、残念なことに教会の中では幼児洗礼が儀式的に行われてきた歴史もあります。本当に神の民とされて、聖い生き方を求めることもないまま、洗礼や幼児洗礼が行われてきました。それに対する反動として、今では幼児洗礼をしない教派も沢山あります。私も、生まれ育った教派は、幼児洗礼なんてとんでもないと思っていました。ですから、幼児洗礼に抵抗を感じる心情も自分なりに理解できます。無理に押しつけることはしません。それでも、今日のマタイの福音書の言葉を一緒に味わうことは出来るでしょう。
14…イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」
弟子やオトナの目から見れば、子どもは聖書の事も信仰の事も分からず、礼拝でも静かにしていなさいと言われる脇役に見えるかもしれません。でもイエスは、子どもたちこそ天の御国の所有者です。イエスは子どもを神の国に招かれました。「良い子にしてたかい?」とか「洗礼を受けるまでじっとしていなさい」などと仰らず、天の御国にイエスは子どもを迎え入れてくださいます。本当に、イエスは天の御国を子どもの国と仰いました。その子どもたちを邪魔して、見下すなら、大人をイエスは叱るのです。
今日の最後で
「洗礼を受けることで…あなたは本当にキリストに従う者とならなければなりません」
とありました。キリストに従う。それは、清く真面目で立派な人になることではありません。子どもを喜び、小さな人を受け入れたキリストにならうことです。一人の救いを通して、その家族まで招いてくださるイエスの大きな愛に私たちもついていくのです。私をキリストが愛してくださっているように、私たちもキリストに従って、自分を愛し、人を愛したいと思います。自分の力で頑張るのではありません。イエスご自身が私たちを助けて、イエスに従う者にしてくださるのです。
イエスに従うような人に変えられる…。それ抜きに洗礼だけ受けて自分は救われた、なんて姿がクリスチャンだったら、ああはなりたくないと思うでしょう。キリストに従う姿は、それを見る子どもたちにも、主を信じる素晴らしさを伝えます。あなたがたも神の国に招かれているんだよ、と伝わるような大人の模範です。子どもも大人も、このイエスに招かれて、洗礼を受けて、一緒に歩んで行くのです。