2019/9/15 マタイ伝1章18~25節「覚めない夢を見せてくださる」
マタイはキリストの聖書を書き始めるに当たって、
「アブラハムの子、ダビデの子」
と旧約を貫く系図を長々と書き、次に「使徒信条」の「主は…処女マリアより生まれ」を書きます。
18イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアは、ヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
そして、処女降誕という奇蹟を主張する以上に、それを巡って起きた出来事、特にヨセフの姿を通して、キリストがどんなお方か、イエスのメッセージは何かを浮き彫りにするのです。
マリアとヨセフの「婚約」は今の婚約よりも「結婚」そのものに等しい厳粛なものでした。その破棄は「離縁(離婚)」と呼ばれますし、まだ一緒に暮らしてはいなくても「妻」と呼ばれているのです[1]。万一、夫の与り知らない所で妻がこどもを身ごもったとしたら、それは姦通の大罪として、石打ちで死刑にされるのが当然とされていました[2]。ですから、小さな村のナザレでヨセフがマリアを公に離縁したら、マリアはさらし者にされ、殺されることも目に見えていました。ヨセフはそれを望まずに
「ひそかに離縁しようと思った」
のでした。
ヨセフはマリアの妊娠を
「聖霊によって身ごもっていることが分かった」
とハッキリ書いています。ヨセフがマリアの身ごもったのが、不貞や他の誰かによるのでなく、神のお働きだと分かったのは、御使いが夢に現れた時ではありません。最初から聖霊によってだと分かったのです。分かった上で、彼が離縁しようとしたのは、彼が「正しい人」だったからです。自分は、神に選ばれたマリアとの結婚や、生まれてくる特別なこどもの父親役には到底相応しくない。自分に出来るのは、マリアをさらし者にせずに、ひそかに離縁することだと思ったのです。
そう決めながら、具体的な方法やタイミングを考えて思い巡らしていたのでしょうか。
20…主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
夢のお告げで、ヨセフはマリアを迎える使命を与えます。その名をイエスと付ける使命も与えます。「イエス」とは「主は救い」という意味の名前です。主は私たちを救う方。そして、この生まれる子は名前の通り、ご自分の民をその罪からお救いになる、というのです。
「罪」とはマタイの福音書に七回だけ出て来る言葉で[3]、他にも神との関係が損なわれている状態を表す言葉はありますけれど、この言葉はいつも「赦し」と結びつけて使われています。罪とはどんな問題であるにせよ、主はその問題を解決して、そこから救い出してくださる。その事がこの最初の1章21節の時点で言われています。イエスは、ご自分の民を、その罪から救ってくださるのです。注意してください。
「救ってくださる」
は無条件の断定です。「救うことが出来る方で、後、救ってもらえるかどうかは、人間の信仰や悔い改めにかかっている」ではないのです。人間の側での信仰とか悔い改めとか、救われたい願いとかは、到底当てに出来ない程、罪は人の心を暗くし、病ませ、毒しています。だからこそ、イエスがご自分の民を罪から救ってくださることに希望があるのです。それが最初に宣言されたのです。22節もです。
22このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
これは旧約聖書のイザヤ書7章の言葉です。この言葉自体、当時のアハズ王という狡賢(ずるがしこ)い王に対して言われた言葉です[4]。つまりこの預言自体が、神の救いは、人の求めや健気な願いに対してではなく、神ご自身から与えられることをハッキリと示すものだったのです。神は、私たちを救ってくださるのです。それはここに記されている「インマヌエル」という名前が示す通り、神は私たちとともにおられる神だからです。神は正しく、罪を容認する事は決してありません。しかし「罪があるから一緒にいられない」と言って終わり、私たちの努力や償いがなければ始まらない、と離れている神ではなく、「ともにおられる」神。人を罪から救うために自ら立ち上がり、人の所に来て、私たちとともにいる。それが神というお方なのです。
19節のヨセフも「正しい人」と言われていました。ヨセフの正しさは、マリアをさらし者にせずにひそかに離縁することを考えるのが精一杯でした。マリアの妊娠が神の業だとは思えなかったのだとしたら、さらし者にはしないけれど夫婦として一緒にもいられない、という正しさ(潔癖さ)だったのでしょう。或いは、マリアが聖霊によって妊娠したのだと分かったのだとしたら、自分はその夫として相応しくないという、正義感からの辞退だったのでしょう。いずれにせよヨセフの「正しさ」は結び合わせるよりも、夫婦としては相応しくないと関係を解消するような「正しさ」でしかありませんでした。自分にはその価値がないとか、相手の失敗は夫婦としての価値を損なったとしか考えません。一章前半のあの系図、アブラハムもダビデも、女性達の名前もバビロン捕囚も、人が神から戴いた人生や大切な人間関係をどれほど壊し、傷つけてしまうか、呆れるしかない証拠でした。人の正しさからしたら絶望的です[5]。
しかし、本当に正しい神が、ヨセフの夢に御使いを遣わして語ったのは、「恐れずにマリアを迎えて、生まれる男の子にイエスと名付けよ」という言葉でした[6]。主はヨセフの「正しさ」よりも大きな正しさでヨセフを受け入れました。それは、ヨセフにとって自分の「正しさ」を引っ繰り返される言葉です。この時点で、マリアの妊娠が聖霊によるのだと分かったとしても、尚更ヨセフは遠慮したくならなかったでしょうか。自分ならどうでしょう。そんな大役は無理だ、そんな価値はないと思わないでしょうか。勿論、「自分がキリストの父親になるだけの価値があるから神もそれを分かって選んだのか」と自惚れたら大間違いです。神が人を救うのは、人に救われるだけの価値や善意や情熱があるからではありません。神が人を罪から救いたいと行動してくださる。それがアブラハムやダビデも含めて、聖書全体が証しする、神の主権的な・一方的な・先行的なことです[7]。そして、その神が人間を救い、愛するのは、人間を尊い者と見て下さっているからです。「相手に価値があるから愛する」のは神の愛ではありません。神は万物の造り主です。相手を尊い存在と見て、創造するのが神の愛なのです。神はヨセフをマリアの夫、イエスの父として相応しいと見て下さり、マリアを迎えイエスを名づける使命を託してくださいました。それはヨセフにとって、神が自分を尊い者と見て下さっていること、自分の人生を通して神の栄光を現そうとしている、という恵みを受け止めることでした。
24ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れた…
眠りから覚めたら、私たちは夢を夢として片付けたり、夢自体忘れたりします。ヨセフがそうしなかったのは不思議なことです。ともかくこの夢は夢で終わらず、ヨセフの決断を変えました。神はヨセフに、夢を生み出す程の深い心の奥に働きかけてくれました。神の夢は決して覚めることがありません。人として正しい人生ではなく、神がともにいてくださる歩みへと導いてくださったのです。神は、救い主イエスの誕生のため、ヨセフを用いただけではありません。まずヨセフに近づいて、ともにいることで救われたのです。神が罪から私を救い、私とともにおられる。その言葉を初めに聴いたのは、アブラハムの子、ダビデの末裔、神の民の挫折のどん底にあったヨセフでした。ヨセフは眠りから覚めても、この夢は覚めません。神はヨセフとともにいて、ヨセフの生涯を通して主の業をなさいました。私たちもその覚めることのない夢を見せてもらっています。イエスが下さった救いは、私たちが神を「ともにおられる神」として知る、人生そのものの救いです[8]。神は私たちの心の奥深くにもこの夢を下さいます。
「ともにいます主よ。ヨセフの夢に現れたように、私たちにもともにおられ、イエスの救いに与らせてくださることを感謝します。一人一人、どう関わるかはあなたの深いご配慮によりますが、どうぞあなたが心の奥深くに語りかけてください。この礼拝を後にしても、心に灯った夢が覚めることなく、あなたとともに歩む幸いを、あなたの使命を、果たさせてください」
[1] 20節の「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」は「恐れずにあなたの妻マリアを迎えなさい」が直訳です。
[2] レビ記20章10節、申命記22章22-23節、ヨハネ8章3~5節など。しかし、このヨハネの出来事そのものが表しているように、現実には一律な判断がなされていなかったとも言えます。律法は、売春も禁じていましたが、ユダヤに遊女はいましたし、「不品行な女」と呼ばれる女性が石打ちにされずに生活していたのも事実です。
[3] マタイ3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」、9:2「すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。」、9:5「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」、9:6「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。」、12:31「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。」、26:28「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」
[4] アハズは外国勢力の脅威に対して、神を信頼して落ち着いた行動を取るよりも大国の阿(おもね)ろうとしていました。それに対してイザヤは、主に信頼することを求めて、それが疑わしければ、しるしを求めよ、とまで譲歩したのです。しかしアハズは「私は求めません。主を試みません」と一見、謙遜そうな、しかしその実、もうイザヤの助言には聞く気がないからの拒絶をするのです。そうした優柔不断なアハズに対して、イザヤは「主ご自身がしるしを与える」と言って、この「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む」という言葉を告げるのです。
[5] マタイの福音書では「正しい人」が、限界ある面と、神の前での正しさでもある面と、両義的に使われています。正しい人(ディカイオス) 5:45「正しい者にも正しくない者にも」、9:13「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」、10:41、13:17、43「そのとき正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます」、49「御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、」、(20:4「相当の賃金」)、23:28「同じように、おまえたちも外側は正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ」、29「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者たちの墓を建て、義人たちの記念碑を飾って、」35「それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。」、25:37「すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。』、25:46「こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」、27:19「ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」
[6] 「恐れずに」はマタイに、10:26、28、31、14:27、17:7、28:5などで繰り返されます。
[7] この「神にしか出来ないことを神がしてくださること」が「恵み」なのです。
[8] マタイの福音書が語るイエスの教えは、高尚な道徳というよりも、神がともにいてくださる歩みがどういうものかを具体的に生き生きと歌い上げていくものです。それは私たちには到底完璧には従えないものです。しかし、イエスは私たちを罪から救ってくださいます。イエスが私たちとともにいて、私たちの生き方を、神とともに歩むよう変え続けてくださる。私たちが自分の力や無力さによって、神の前に相応しくないかのように思う自分の「正しさ」から、本当に正しい神が、私の罪も夢も過去も将来も全部知った上で、私を尊いと見て、ともにいてくださると知らされていきます。そして、他の人をも、イエスが見ている眼差しで、見ていくように変えられる。その生き方が語られていきます。それは、救いの条件でも、無理な要求でもなく、そのような生き方へと救われていくということです。そしてイエスは、間違いなく必ず、私たちを救って下さるのです。