2017/7/30 ヨハネ10章7-18節「イエスを知る喜び」
七月最後の日曜日ですので一書を取り上げます。今月はヨハネの福音書です。実は現存している最古の日本語訳聖書はヨハネの福音書なのです。
「はじまりにかしこいものござる。このかしこいものごくらくともにござる。このかしこいものわごくらく」
と始まるギュツラフ訳です[1]。日本宣教最初の翻訳にヨハネ伝を選んだ事実に、ヨハネ伝の大切さが物語られています。
1.イエスを知るために書かれたヨハネ伝
新約聖書の最初には、イエス・キリストの生涯を伝える四つの「福音書」があります。最初の三つ、マタイ、マルコ、ルカはよく似ていて、観点が共通している「共観福音書」と呼ばれますが、ヨハネはとてもユニークな書き方をしています。最も遅く書かれた事もあるでしょう、他の福音書にはない特徴がたくさんあります。その一つが、執筆意図を明確にしている事です。
二〇31これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
そのためにこの事を書いたのだと明言するのです。イエスが神の子キリストである。その事を伝えるため、ヨハネはいくつかの趣向を凝らしています。その一つが、イエスがなさった奇蹟という「しるし」です。この福音書にはイエスの奇蹟が八つ記されています。多くの奇蹟の中から、八つを厳選するのです[2]。カナの婚礼で水をブドウ酒に変え、生まれつき歩けなかった人や目の見えなかった人を癒やされます。その頂点は、死んで四日も経ったラザロを復活させた奇蹟です。そうした奇蹟は、イエスがどのようなお方か、というしるしです。奇蹟だけを求めたり、自分の願いが叶わなかったらイエスから離れたりする関係ではなく、イエスに出会うことが他では叶わない本当のいのちになる。そのしるしとして奇蹟があるのです。ですから、奇蹟の他にも、ヨハネだけが伝えている忘れがたい言葉が沢山あるのですね。一番有名なのは、
三16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
です。人目を憚って水を汲みに来た女性にイエスが話しかけられたエピソードも、姦淫の現場で捉えられた女性に赦しと再出発を与えてくださった話もここに出て来ます。障害があるのは、本人か親が罪を犯したためではなく
「神の栄光が現れるためです」
と言われたのも、このヨハネが伝えるイエスです。楽しみや人間関係、男女関係に走って、結局苦しい生き方をしてしまうこともあります。逆に、そういう生き方を馬鹿にして、自分は正しい、立派だという自信を、生きる支えとするのも虚しい生き方です。イエスはそういう渇いた世界、闇の中に来て下さって、責められたり除け者にされていた人も、ひとりとして滅びる事なく、本当のいのちを持つようにしてくださる方です。その事が、言葉でもしるしでも展開されるのです。
2.「わたしは○○です」エゴー・エイミー
もう一つのヨハネの特長は、イエスが「わたしは○○です」と何度も仰る事です。ハッキリと、そして必要以上のとても強い言い方でイエスは「わたしは○○です」と言われます。
「わたしがいのちのパンです」[3]
「わたしは、世の光です」[4]
「わたしは羊の門です」[5]
「わたしは、良い牧者です」[6]
「わたしは、よみがえりです。いのちです」[7]
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」[8]
「わたしはまことのぶどうの木」[9]
などです[10]。また「○○」なしに
「わたしがある」
とも数回仰いました[11]。これは本当に特別な言い方で、旧約聖書で神がご自分を
「わたしは「わたしはある」というものである」
と名乗られた言葉をそのまま用いられたのです。イエスは、ご自分が神の子であり天の父と一つであることを宣言なさったのです。イエスは神であられます。しかし、その旧約の神が「わたしはある」と名乗られたのも、そこに「○○」を入れて、
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」
と私たちの神となって、私たちとの関係を結んでくださった、という躍動的な神の恵みを現しているものでした。同じようにイエスも、ただ「わたしはある」と言われる以上に、「いのちのパン」「世の光」「葡萄の木」「良い牧者」などと、本当に豊かなイメージで御自身を差し出されたのです。
こんな豊かで、身近で、生き生きとしたイメージを駆使して、イエスはどんなお方で、私たちがこの方とどんな関係にあるかが、本当に瑞々しく、鮮やかに語られます。生きている時には艱難があります。世界は「闇」に思え、心がカラカラに渇くような思いもします。しかし、どんな事が起きて、苦しみ、悲しむとしても、イエスは私たちを愛して、命を下さる。パンの命、瑞々しい葡萄の実、羊の群れ、そういう絵を描かせようとなさるのです。
その一つが、今日の「良い牧者」(羊飼い)という言葉です。これは交読した詩篇二三篇でも使われたモチーフで、イスラエルの人にはとても身近でした。羊飼いという職業自体は、決して高貴でも儲かる仕事でもなく、蔑まれていた仕事だったようです。羊たちを集めて、一つの群れとして導くのは大変です。羊が迷ったら探しに行き、襲われたらいのちがけで守る羊飼いは、進んでなろうとする人はいなかった、貧しく汚れる仕事でした。そういう羊飼いにご自分を準えることも厭わずに、イエスは私たちに豊かないのちの関係を伝えたいのです。難しい表現はサラッと流して、ヨハネ伝全体を、そこに浮かんでくるイメージを聞き取って読むことをお勧めします[12]。
3.イエスの愛の中に
最後にこの著者のことを触れておきます。この著者はハッキリ名乗りを上げません。しかし福音書の中にさりげなく登場します。
「イエスの愛されたあの弟子」
と名乗って登場するのです[13]。勿論、他の弟子は愛されていなかったということではないでしょう。でも、自分のことを
「主が愛された弟子」
と呼びます。それは、本当に主が愛のお方だから、主が何よりも愛する事を求められたからです。ヨハネだけが記すもう一つの事は「洗足」、イエスが弟子の足を洗われた事です[14]。弟子たちの汚れた足を奴隷のように洗って、その愛を惜しげなく示されました。
そして、ご自分が足を洗ったように
「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」
と仰り、それに続いて葡萄の木の例えを語り、
「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことができません。わたしに留まっていなさい。」
それは
「わたしの愛の中に留まりなさい」
と同じ事でした[15]。イエスの愛に留まり、イエスに愛されたように愛し合う。だからでしょう。伝説では使徒ヨハネは、晩年どこでも「何かお勧めを」と頼まれたら、「互いに愛し合いなさい。主が愛されたように互いに愛し合いなさい」とだけ繰り返したそうです。
ヨハネ伝の最後に、イエスが弟子のペテロに
「あなたはわたしを愛しますか」
と三度仰る場面が出て来ます。ペテロはイエスを三度裏切った後でした。とてもイエスの顔をまともに見られなかったでしょう。でもイエスがペテロに問うたのは、他のどんな言葉でもなく
「あなたはわたしを愛しますか」
でした。イエスが求めるのは立派な人生でも、真面目な証しでも、失敗を償う善行でも、熱心な伝道でもありません。私たちの目をのぞき込んで「あなたはわたしを愛しますか」です。その証拠を見せよ、とも言われません。私たちが誰であれどんな事をしたかに関わらず、まずイエスとの愛に立ち戻ることを願われます。イエスが愛して下さったのだから、私もイエスを愛します。そう心から答えるなら喜んでくださる方です。それをより豊かに思い描いて信じるよう、ヨハネは厳選した奇蹟とイエスの言葉、そしていくつものイメージを畳み掛けるイエスを示しました。今も変わりません。神の子イエスは、多くの事がある歩みの中で、私たちを豊かに生かしておられます。羊飼いのように身を低くし、私たちの足を洗い、御自身が傷つきいのちを捨てることも厭わずに、私たちに豊かに命を持たせて下さるお方です。
「主イエスよ。あなたは今も、尽きない例えやしるしや多くの御業を通して、その御真実を私たちに示し、励まして下さいます。その愛から離れて、疑いや恐れや違うものに頼って渇いていく愚かさをもあなたは深く憐れみ、救い出し、回復させてくださいます。今日、新たに歓迎式をいたしました私たちが、このイエスの愛に根ざしてともに歩むよう、主よ導いてください」
[1] 三浦綾子『海嶺』は、このギュツラフ訳誕生のエピソードをノベライズしたものです。
[2] 八つの奇蹟(カナの婚礼[二1-11]、カナの役人の息子の癒やし[四46-54]、ベテスダの癒やし[五1-9]、五千人の給食[六1-14]、水上歩行[六16-21]、盲人の開眼[九1-7]、ラザロの復活[十一章]、大漁の奇蹟[二一章]。これ以外にイエスの復活)。そのうち六つがヨハネのみ。
[3] 六35、48。
[4] 八12。
[5] 十7、9。
[6] 十11、14。
[7] 十一25。
[8] 十四6。
[9] 十五1、5。
[10] この他に八18「わたしが自分の証人であり」もエゴー・エイミーです。
[11] 六20、八24、28、十八5、6、8。
[12] ジェームス・ブラウン・スミス『エクササイズⅠ』242ページ。彼は、「神はご自分を捧げるお方」と題する7章の最後に、ヨハネの福音書をまとめて読むことを提案しています。ヨハネの福音書のユニークさは、イエスと天の父との関係がはっきりと描かれている点にあり、だからこそ、福音書の中でもヨハネを読む事を特に推薦しています。「聖書研究」にならないよう、「物語」を読むように注意して、ヨハネ伝を読むのです。それによって、イエスを身近に見、イエスに出会うことが出来るのです。
[13] 十三23、十九26、二〇2、二一7、20。
[14] 十三1-20。
[15] 十五4、9。
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