2017/3/12 「礼拝⑭ 養い主なる神」マタイ14章13-21節
私たちがいつも祈っています「主の祈り」を、改めて一つずつ取り上げています。前回まで「御名、御国、御心」と来て、まず天の父なる神をあがめ、神を礼拝し、委ねる祈りであることを見てきました。今日から「私たちの」祈りになります。その最初は、何を祈るでしょうか。私たちなら、自分のためにまず何を祈るのでしょうか。主イエスが教えられたのは「糧(パン)」です。
1.「糧」はパン
「日毎の糧を今日もお与えください」。
なんと有り触れた願い事でしょうか。もっと高尚で、信仰的で、壮大な祈り-たとえば「世界平和」「奇蹟を行う力を」「神の栄光を現す大事業を」などと祈ることも出来るのに、イエスが教えられたのは
「日毎の糧」
つまり自分の一日分の食事を乞う祈りでした[1]。しかし、こう祈る事を教えることによって、イエスは私たち弟子に毎日のご飯、生きるのに必要な最低限のことさえひとえに神が下さると教えられました。「食事はあって当たり前、神に願うならもっと大きなもの、特別な事を」ではないのです。食べ物や命さえ当たり前ではありません。私たちは神に養われて生かされていると教えられるのです。
この「糧」はパンです[2]。私たちの食事、ご飯です。これを直ぐ、もっと「神聖」な意味に換えて「みことばのパン」とか主の聖晩餐のパンだとか広げようとしてはなりません。本当に私たちの食事、必要最低限のものが神からの賜物だ、神が私を生かしておられるのだ、と生々しく覚えさせるところに、主の祈りのインパクトがあるのです。イエスは祈りについて、
六6祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて…祈りなさい。
と言われましたが、その「奥まった部屋」とは食料庫のことだとも言われるそうです[3]。食料庫に入り、生活の現場から祈りをささげる。私たちはこの生々しい現実を棚上げしがちです。「神は自分の祈りなど聞かれない、祈っても何にもならない」と呟きがちです。呟きながら、神から備えられた食事を食べているのです。神は天の父として、私たちに必要な食事を下さり、生かしておられます。祈りに応えてくださらない、何もしておられない、ではないのです。
「主の祈り」が教えられたマタイ五から七章の「山上の説教」をまた思い返してください[4]。主はこの祈りに続いて、弟子達に
「何を着ようか、何を食べようかと思い煩うな」
と教えられ、天の父が私たちを養ってくださっていることを信頼するよう教えられました。野の花や空の鳥を見て、天の父の養いを信頼せよ、と言われました[5]。そして、今日の十四章15節以下では
「五つのパンと二匹の魚」
で男だけでも五千人の人々を養われた奇蹟を見せられました。これはマタイとマルコとルカ、ヨハネの四つの福音書が全て記している唯一の奇蹟です[6]。それだけにこの記事にはイエスの福音が凝縮されて、豊かに生き生きと物語られていると言えます。
2.天地の造り主を信ず
ここでイエスは、子どもの弁当に過ぎないパンと魚で一万もの人を満腹させるパフォーマンスで人々を惹き付けられたのではありません[7]。そうだと誤解した人々に対してイエスは一線を引かれたと、ヨハネの六章に記されています[8]。そして実際こんな奇蹟をイエスがなさったのは二回だけです[9]。しかし、イエスが天に帰られた後も、いいえ、天地創造の最初から今に至るまで、神は私たちをパンや魚で養い続けておられます。人間が神に背き、恵みを忘れて呟いてもなお神は太陽を上らせ、雨を降らせておられます[10]。穀物を生じさせ、豊かな実りに至らせ、それが食料となって人間の手に入り、手間暇をかけて調理されて食卓に並ぶまでの全てのプロセスを備えておられます。それは、パン五つを何千倍にした一瞬の奇蹟に、遙かに勝ってダイナミックでドラマチックな奇蹟です。イエスが五つのパンと二匹の魚の奇蹟で示されたのは、天の父が私たちに食べ物を豊かに与えてくださること、私たちもその養いと憐れみを信頼して、互いにその配慮をしていくことでした。言わば、
「私たちの日毎の糧を今日も与えてください」
という祈りがどれほど現実的であるか、ということでした。
イエスは日毎の糧を与えたもう父、「天地の造り主」を信じる信仰を育てられます。この世界のものや現実と切り離された信仰の世界、天国の宗教ではなく、この世界を造られ、支えられる神を信じ、今朝の食事も、それを食べたこの体、手足も、神のものとして見るのです。また、糧を生じさせるこの世界の、ユニークな自然、ビックリするほど面白い動物や、カラフルな植物など多様な生態系、太陽や宇宙、不思議な自然界を造り、支えたもう神を信じます。もっと言えば、神から与えられたこの世界の営みを、自分のためではなく、神を喜び、感謝して育てる使命を信じます。人間は、体や「世俗」と切り離して、伝道や奉仕や教会の事をするのが信仰だと誤解しやすいものです。天地を作られた神を信じる時、自然を育てること、体を大事にすること、社会を営んでいくこと自体が神の栄光を現す、かけがえのない意味を取り戻します。牧師や伝道者になるのは素晴らしい人生ですが、それは社会に生きる人、また体が弱くて生きるのが精一杯という人にさえ、その生きる喜び、生かされている素晴らしさを取り戻すお手伝いをするためです。神に日毎の糧を求めて祈る祈りは、そういう招きなのです。
3.私たちのものを私たちに
イエスが教えてくださった祈りは「私たち」と繰り返しています。「私」ではなく「私たち」と教えられます。この第四祈願でも「私たちの日毎の糧を私たちに」です。自分が食事に事欠きませんよう、ではなく、私たちの日毎の糧を私たちに、なのです[11]。豊かな人が他者の食料まで取り上げて、贅沢に楽しむことをこの祈りは窘めます。「私たちに」と祈る時、私たちは自分だけでなく、この祈りを祈るすべて方々に思いを馳せるのです。実際イエスも弟子達に、
マタイ十四16…あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。
と仰ったのです。この言葉を受け止めて弟子達は、教会に長老と執事とを立て、監督の務めと食卓の配慮の務めを大事にしようとしました。ただの宗教ではなく、現実の問題に取り組もう、この世界は神がお造りになった素晴らしい世界である意味を取り戻そうとするのです[12]。
二千年前と今では、社会の構造は大きく変わりました。弥生時代の日本と現代では社会も全く様変わりして、同じような働きは求められていないかもしれません。同時に「糧」に凝縮される人間の必要はより深く理解されています。人に必要なのは栄養補給だけでなく、噛むことや香りや楽しみ、また食べた物の排泄も含めた健康もだと分かってきました[13]。食糧の心配よりも、食べ過ぎや肥満の解決も必要になっています[14]。その根っこには、豊かさが幸せだと勘違いが扱われなる必要があります[15]。人間が生きるのには、健康は勿論、知恵や正しい情報を見分ける力、人格的な成熟などもあるのです。ストレスでさえ、ある程度はなければダメなのだそうです。
生き甲斐も必要です。家族や友人、共同体も必要です。一緒に人生を分かち合い、喜んだり泣いたり、笑わせてくれる仲間がいて、健全な自尊心、自己肯定感をもらうことも必要です。そして、そうした所での問題が人間を深く傷つけているという現実もあります。それは、伝道や信仰だけで解決できない、現実的な問題です[16]。
ですから、教会には食料の援助や教育の働き、様々な支援団体の活動があるのです。その全てに取り組めるわけではありません。それでも主イエスが私たちに「私たちの日毎の糧をお与えください」と祈る道を示してくださいました。ですから私たちは祈るのです。
「私たちの日毎の糧を、生きるのに必要なものを私たちにお与えください。食べる物がない人に食べ物を、食べ物が豊かにあるのに生きる意味を見失っている人に生き甲斐を、孤独な人に良い仲間を与えてください。そのために遣わされている私たち一人一人を助け、祝福してください。そうして、私たちに命も糧も与えてくださっているあなたを、ともに心から誉め称えさせてください」
と祈り、行動するのです。
「日毎の糧を与え、私たちを養いたもうあなたの御愛を感謝します。あなたが私たちを喜んで養い、今ここに生かしておられます。そうして、私たちがともにあなたのいのちを戴くよう、その事を願い、仕え合うよう送り出してくださいます。どうぞ主の恵みに気づき、感謝する者としてください。互いに生かし合い、喜び合い、天の父を称える私たちとならせてください」
[1] 先の「荒野の誘惑」では、石をパンに変える誘惑に抵抗されたイエスが、ここではパンを求めよと言われる。そこに、人間をバランス良く見ておられるイエスの深い理解が現れている。私たちも自分の必要に気づこう。そして、そのすべてが天父の養いによって与えられることを祈り求めよう。
[2] もちろん、ご飯ではなくパン、という意味ではありません。日本人はパンではなく米食文化で、食事の事全部を「ご飯」というように、このパンはパン食文化での食事全体です。ですから日本語では「糧」と堅い言葉を使ったのでしょう。どちらにしてもこれは食事のことです。
[3] ジェームズ・フーストン、『神との友情』、199頁。
[4] マタイでの「パン」 四3、4(荒野の誘惑)、七9(パンを求めるのに石を)、十二4(ダビデが供えのパンを食べた史実)、十四(五つのパンと二匹の魚)、十五2(洗わない手でパンを)、26(机の上のパンを子犬にはあげない)、33以下(七つのパンの給食)、十六5(パンを持ってこなかった)、二六26(最後の晩餐)山上の説教では、天父の養いも強調。六25以下の「思い煩うな」も、七9以下「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。10また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。11してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。12それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」も。ここでは、神が下さるのがパンである、という以上に、神は当然必要なものをくださるし、何よりも、神の国とその義を求めて生きる生き方、自分にしてもらいたいことを他の人にもする生き方を下さる、そのような心、生き方を下さる、というメッセージである。食べ物や必要から、神の恵みに生かされる生き方、神の恵みの栄光を現す生き方まで、神は下さらないはずがない、というメッセージである。
[6] マルコ六32-44、ルカ九10-17、ヨハネ六1-13。マタイ、マルコ、ルカの三つは「共観福音書」と呼ばれ、重なる記事は多いのですが、ヨハネは独自です。イエスの復活以外に四つの福音書に共通する奇蹟記事は、この「五つのパンと二匹の魚」だけです。
[7] ヨハネの並行記事では、この「五つのパンと二匹の魚」が「少年の持っている」ものだとあります。そこからよく「お弁当」という言い方がされます。本当にお弁当だったのか、少年が差し出したのか、などは想像の域を出ませんが。
[9] マタイの十五32-39(及び、マルコの並行記事)では男四千人を七つのパンと少量の魚で満腹にされた記事があります。この二つでイエスのメッセージとしては十分であったとお考えであった事は、十六8-11で明らかです。
[11] 「私たちの場合、物質が溢れかえった消費文化のただ中で、次のように言うことができるようになる恵みを求めて、この祈りを祈るべきなのです。「もうこれで十分であるということを知る恵みを与えてください。」「この世界が多くの物によって誘惑して来るときにも、私たちが『いらない』と言えるように助けてください」。(ハワーワス、148頁)
[12] 神が私たちに糧を与えておられることに気づく時、それは何のためか、も考えずにはおれない。それは決して無駄ではなく、目的がある。ただしそれは、人間が考えがちな、有用性とか効果ではない。憐れみ豊かな神は、私たちをも神の恵みに沿って生きる者とならせることを考えておられる。私たちが何かをすることが大事なのではなく、神の恵みに応えて、感謝と喜びをもって生きることこそ、神が私たちを生かしておられる目的である。
[13] 天の父は、私たちの下の世話をも配慮してくださっています。
[14] 「しかし、私たちは、パンが少なすぎることによってではなく、自分をむしばむ虚無感を絶え間なく消費し続けることでごまかそうと、あまりに多くのパンを集めることによって滅びていくのです。」(ハワーワス、『主の祈り』、147頁)
[15] ここで思い出されるのは、箴言三〇8-9です。「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」
[16] それは、食糧難が祈りだけでは解決しないのと同じです。食糧が与えられるように、とは祈りますが、それを祈るだけで何もしないとか、「祈れば空腹で悩むことはなくなる」などという事はないでしょう。