聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問58「永遠の値打ちあるもの」ヨハネ十七章1-6節

2017-03-26 16:47:07 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/3/26 ハ信仰問答58「永遠の値打ちあるもの」ヨハネ十七章1-6節

 今日でハイデルベルグ信仰問答の「使徒信条」を解説するシリーズはお終いです。使徒信条の終わりは「永遠のいのちを信ず」ですから、「永遠のいのち」を学びましょう。その最初に、今日読んだヨハネの福音書で、イエスが何と仰っていたでしょうか。

 3その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

 どうでしょうか。これは、私たちが考える「永遠のいのち」とは全く違うことを言っています。一般的には「永遠のいのち」といえば「不死」、いつまでも生きて死なないことを考えるでしょう。永遠に続くいのちです。しかし、イエスは全く違うことを仰いました。本当の神を知り、神が遣わされたイエスを知ることが永遠のいのち。この場合の「知る」とはただ頭の知識としてではなく、知り合うとか深く関わるとか友人となるという意味があります。ですから、神を知るとは、神について調べて、知識を積むということではなく、永遠なる神と出会い、神を心に迎え入れることです。そして、神が遣わされたイエス・キリストを知り、イエスへの信頼をもって生きることです。そういう、永遠なる方と結び合わされた歩みこそが「永遠のいのち」なのです。

問58 「永遠の命」という箇条はあなたにどのような慰めを与えますか。

答 わたしが今、永遠の喜びを心に感じているように、この命の後には、目が見たことも耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。

 ここでも言われていますね。永遠のいのちとは「この命の後」のことでもあるけれども、まずは

「今、永遠の喜びを(既に)心に感じている」

のだと。私たちが真の神と出会い、イエス・キリストを知る時、私たちは喜びを抱くようになります。それは何よりも、永遠なる神との関係に入れられることの喜びです。実は、この言葉は、ハイデルベルグ信仰問答の別の判では

「永遠の命を心に感じている」

とされているのだそうです。「命」と「喜び」は入れ替えて言えるようなことだとしたら、なるほど、と思います。喜びがない命とは、なんと詰まらない命でしょうか。喜びを欠いたまま、永遠にあるとしたら、それは永遠のいのちではなく、永遠の死、永遠の呪いかもしれません。

 確かに聖書には命を指す二つの言葉があります。一つは、ゾーエーといい、「永遠の命」の場合にはこのゾーエーが使われています。もう一つはビオスといいます。これはバイオテクノロジーなどの語源で、生物学的な生命力・死んでいない状態です。動物の命はビオスです。それが永遠に続くのだとしたら、幸せでしょうか。喜びがなくても永遠に滅びない。神との出会いのような素晴らしい相手がいない、孤独で意味もない状態がずっと永遠に続いていくとしたら、そんなものは、とても望ましいとは思えません。「永遠などというものがあるとしたら、さぞかし退屈だろう」という人もいますが、そういう人が考えるのは、ただの不死の状態で、永遠のビオスです。

 でも聖書がいうのは永遠のビオスではなく、永遠のゾーエーです。英語でも女性でゾーイという名前が珍しくありません。私たちの友人も娘にゾーイちゃんがいます。親が子どもに名前をつけるような、愛のこもったプレゼントです。そして、神は後の

「永遠のいのち」

ではなく、今私たちと出会い、私たちに喜びや愛や慰めを下さっています。この世界には、神の驚くべき御業が満ち満ちています。そして、イエスは今の私たちに関わり、喜びがないような状況でも喜びや希望をもって生きるようにしてくださいます。私たちといつまでもともにおられ、大切なことを教えてくださいます。今この時、イエスがともにいてくださって、私たちに喜びを下さいます。それこそが、もう永遠のいのちを与えられている始まりなのです。先ほど、「永遠など詰まらない」と言う人たちの話をしましたが、そういう人は今の人生を詰まらないと思っているのかもしれません。今が詰まらなければ永遠だって飽き飽きするでしょう。今日を楽しめなければ、永遠の喜びだって思い描けないのは当然です。しかし、イエス・キリストに出会い、自分の頭の中だけの世界から出て来るなら、私たちの人生は「詰まらない」はずがありません。聖書を通しても、人との関わりや、神が作られた世界の様々なもの、自然、また美しいもの、楽しいものに驚かされます。そして、それは今だけではありません。私たちが死んで、よみがえらされ、栄光のからだをいただいても、永遠に果てしなく喜ぶのです。

 ハイデルベルグ信仰問答では

「この命の後には、目が見たことも耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる」

とありました。これは、聖書のⅠコリント二9の言葉からの表現です。

 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。

「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

 神は、神を愛する者のために、私たちが見たことも聞いたことも、思い浮かべたこともないことを備えてくださいます。今もそうですし、死の後にも、それは永遠に

「完全な祝福」

を受け続ける。そして、その結果

「神を永遠にほめたたえる」

というのです。それはどういう状態か、私たちには想像できません。心に思い浮かびもしないこと、というのですから、それを想像しようというのは無理な話です。でも、それによって私たちは永遠に神を誉め称えることは分かっています。それは、ただの義務感や仕事だから永遠に神をほめたたえるのではありません。本当に永遠に、神の素晴らしさを味わい、心を永遠に打たれて、喜びながら、ますます感激しながら、神を賛美するのです。そういう喜び歌う姿が、永遠のいのちには伴っていることは聖書に繰り返されています。神とイエス・キリストを知ることは、永遠に生きるに値することです。細く長く永遠に生きるのではないのです。永遠に、ますます喜び溢れ、限りなく神の素晴らしさを賛美する。そういう永遠の値打ちのあるいのちを神は私たちに下さるのです。

 自分の死を恐れて「永遠のいのち」を求めなら、永遠も退屈に思えて揺れます。しかし、いのちよりも大事なもの、神と出会い、キリストにある人生をいただく時、今を喜び、死も恐れなくなります。神を誉め称え、人も自分も大事にするようになります。それは、イエス・キリストが私たちに、永遠に生きるいのちを与えられたしるしなのです。

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「ゼカリヤ書 夕暮れ時に光がある」ゼカリヤ書14章4-11節

2017-03-26 16:42:24 | 聖書

2017/3/26 「ゼカリヤ書 夕暮れ時に光がある」ゼカリヤ書14章4-11節

 来週4月の月報が出ます。受難週とイースター、そして六〇周年記念礼拝を控えた4月ですので、いつもの巻頭言と違い、私も自分の十年の歩みを振り返った内容を書きました。鳴門教会の六〇年、また前回の五〇周年から十年を振り返りつつ、私たちも自分の歩みを振り返ること。そして、かつてとは違う「今」を受け止め、将来に目を向けたい、と思うのです。

1.失意の中でのゼカリヤ書

 今月取り上げる「ゼカリヤ書」は旧約聖書の最後から二番目にあります。旧約の歴史の終盤です。旧約聖書の歴史の最後に、捕虜となったバビロンから、イスラエルの民族がエルサレムに戻ってきて、神殿の再建を始めるのです。もう一度、神を礼拝する民として歩み直そうとするのです。ところが再建工事を始めたのに、六年後、周囲の敵やペルシヤの政治情勢が理由で、工事は中断してしまいます。この辺りはエズラ記の四章に書かれています[1]。しかもその中断期間は十年にも及びました。そういう中断期間に、エズラ記五章にこう書かれるのです。

エズラ五1さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。

 2そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。…」[2]

 これが今日の「ゼカリヤ書」と結びつくのですね。イスラエルの民は折角復興を始めたけれど、肝心の神殿建設は進まないという失意を抱えていました。いいえ、そもそも神殿の土台を据えた時点で、以前の壮大なソロモンの神殿を知っていた人々は、あまりにも質素な建物だと嘆いていたのです。「昔はもっと良かった」という不毛な懐かしみです。そして現実に対しても、十年、諦めや現状容認の状態になって、礼拝が後回しにされていました。主はそういう時代にゼカリヤを立てられて、イスラエルの民を励まし、奮い立たせようとなさったのです。

 更に、ゼカリヤ書の九章以降は、八章までのメッセージの四〇年近い後に書かれたと考えられています。工事が中断されていた神殿は、民の奮起によって再建されましたが、まだ彼らの歩みは続き、願っていたような展望も開けません。そういう中で、神は再びゼカリヤを送られて、気落ちした民にお語りになりました。四〇年ぶりでしたが、主はまた民にお語りになりました。そしてここで、聖書の小預言書で最も多くの「メシヤ預言」が語られていくのです。

2.数々の幻をもって

 ゼカリヤ書の中には沢山の不思議な幻が出て来ます。預言書の中でも特に幻想的な、黙示文学でもあります。人や四つの角、測り綱、汚れた祭司とサタンの法廷、燭台と二本のオリーブの木、飛んでいる巻き物、四台の戦車、などなどです。その一つ一つの意味を詳しく解説することは到底できません。ただ、そういう思い切った幻を人々に思い出させることで、主は意気消沈した人たちの想像力に働きかけたのでしょう。どういう意味かは大事なはずですが、現実には確定しがたいのです。むしろ、その幻を想像することで持たせられる強いインパクト、衝撃的なイメージそのものを大事にしたほうがいいのかもしれません。

 その一つが、九章の9-10節で出て来る「ろばの子に乗る王」という預言です。これは、主イエスが十字架にかかられる週の最初にエルサレムにおいでになった時に成就しました。

 9シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和でろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

 王となるお方がおいでになる。それは良いのですが、その方が「柔和でろばに乗られる」とは全く意外であったはずです。強い王として軍馬に乗って入場されるなら分かります。しかし、軍馬ではなくロバ、それもまだ人を乗せ慣れていない子ろばに乗って来られる。振り落とされるかもしれません。

 威厳どころか、笑いものになるような、そんな柔和な王としておいでになる。それは民にとって、本当にビックリするようなものだったのだと思います。ゼカリヤは、民の不信仰や意気消沈に発破をかけます。惰性的な礼拝や、神を小さく考える態度を戒めます。でもそれを叱って脅しつけて、神を恐れさせたかったのではありません。

一14…万軍の主はこう仰せられる。「わたしは、エルサレムとシオンとを、ねたむほど激しく愛した。」17…『わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。主は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。』

二8あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。

 こういう神の情熱的な愛の言葉を鏤めながら主がおいでになることをゼカリヤは語るのです[3]。そしてそれを言葉だけでなく、豊かなイメージで告げるのです。そのイメージはまさにイエスにおいて成就しました。当時は到底理解も納得も出来なかったことですが、ゼカリヤの預言通りイエスはおいでになり、子ろばに乗り、銀貨三〇枚で売られ[4]、突き刺されたのです[5]

3.「夕暮れ時に光」

 そういうゼカリヤ書の最後一四章も、想像しづらいイメージが畳み掛けられています。私たちにはその全てを理解も説明も出来ません。何かとても力強く、社会の常識をひっくり返してしまうようなことを神はなさる、というのが精一杯のような気がします。その中にある、忘れがたい言葉の一つがこの7節の

「昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある」

という言葉です。

 夕暮れ時。それは、ゼカリヤの時代の人々が体験していた時代とも重なります。エルサレムに帰ってきたけれど、神殿建設を諦めざるを得なかった時代。また、やっと工事を再開して神殿を完成させたけれども、直ぐに礼拝が惰性的になっていった時代。そして、旧約時代も終わりに差し掛かっていたという意味でも「夕暮れ」というイメージはピッタリです。でも、ゼカリヤはそういう夕暮れ時にも

「光がある」

と語ります。神がメシヤをお遣わしになる時、夕暮れで、どんどん暗くなる一方という時にも薄れることのない光が与えられるのです。そして、旧約のもう終わりという夕暮れに、失望の中に埋もれそうな民に、神がこの不思議なゼカリヤの預言を与えられたことが「光」でした。神はあなたがたを嫉むほどに愛しておられると語られました。三章では、罪の汚れた服を着ている大祭司の汚れた服を脱がせ、礼服を着せ、きよいかぶり物をかぶらせてくださる幻が語られています。主は、私たちが、自分の罪で真っ暗闇の中にいるような思いをする時にも、そこに光を与えて、新しい歩みをくださいます。主御自身が、人の時間や常識を超えた光を与えてくださると約束されたのです。

 ゼカリヤ書が約束したイエスがおいでになるのは五〇〇年も後でした。イエスの御生涯を通して成就した預言もあれば、いまだに分からない言葉もあります。ですがその預言の意味や成就と同じぐらい大事なのは、主がその時代の人々に希望を示された事です。ゼカリヤ書を想像力を働かせて読むなら、私たちも夕暮れ時に光を照らされる主の恵みをいただくのです。教会の歩み、私自身の歩み、皆さんの歩み。そこにイエスが来られても、夕暮れや真夜中もあるでしょう。これまでも、これからも、私たちが予想もしない歩みをするのです。でも、そこにも神は光があると約束されます。思いもかけない光を下さるのです。御言葉を通して、おいでになったイエスの慰めと愛をゼカリヤ以上にハッキリ深く知ります。そればかりでなく、イエスは私たちの闇をも、かけがえのない時間にしてくださり、慰めを下さいます。その闇を通らなければ分からない本当の光を知るのです。不思議なゼカリヤ書を通して、神が不思議なお方であり、私たちの歩みに不思議な恵みを輝かせるお方である、この事実を教えられたいのです。

「世の光なるイエス[6]。ゼカリヤの時代の人々とともにおられたように、私どもとともにおられます。何十年、何百年のスパンで、人の思いや予想を超えたあなた様の良きご計画が、喜びや慰めの光がある幸いを感謝します。私たちを御自身の瞳として慈しまれ、罪の赦しや再出発、慰めや癒やしの恵みを、どうぞ今、私どもの小さな歩みを通して、豊かに輝かせてください」



[1] 紀元前539年、バビロンがペルシヤによって滅ぼされる。538年、ペルシヤ王クロスによる、イスラエルの民のエルサレム帰還の勅令。536年、神殿再建開始。530年、神殿再建中断。520年、ハガイ、ゼカリヤによる神殿再建再開。516年、神殿完成。

[2] また、エズラ記六14にも「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、また、クロスと、ダリヨスと、ペルシヤの王アルタシャスタの命令によって、これを建て終えた。15こうして、この宮はダリヨス王の治世の第六年、アダルの月の三日に完成した。」と書かれています。

[3] ゼカリヤとハガイは、神殿工事が中断した中で、工事の再建を促しました。しかし、ハガイも神殿再建そのものを求めたのではなく、心からの礼拝を求めたのでした。ゼカリヤはそれがもっと全面的に教えられています。「ゼカリヤは、ハガイのように民に対して神殿再建を完遂するよう励ましたが、ゼカリヤのメッセージは物質的な壁や現時点での諸問題をはるかに超えていた。ゼカリヤは壮麗で黙示に満ちた象徴を細部まで生き生きと描きながら、神の民を救い全世界を治めるために神から遣わされるメシヤという人物について語っている。ゼカリヤ書は非常に重要な預言書の一つであり、メシヤについてこまごまと言及している。これらはイエス・キリストの生涯において明らかに成就された。」バイブルナビ1475ページ。

[4] 十一13主は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い値を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。

[5] ゼカリヤ書十二10-11など。

[6] ヨハネ八12「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

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