2017/3/26 ハ信仰問答58「永遠の値打ちあるもの」ヨハネ十七章1-6節
今日でハイデルベルグ信仰問答の「使徒信条」を解説するシリーズはお終いです。使徒信条の終わりは「永遠のいのちを信ず」ですから、「永遠のいのち」を学びましょう。その最初に、今日読んだヨハネの福音書で、イエスが何と仰っていたでしょうか。
3その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
どうでしょうか。これは、私たちが考える「永遠のいのち」とは全く違うことを言っています。一般的には「永遠のいのち」といえば「不死」、いつまでも生きて死なないことを考えるでしょう。永遠に続くいのちです。しかし、イエスは全く違うことを仰いました。本当の神を知り、神が遣わされたイエスを知ることが永遠のいのち。この場合の「知る」とはただ頭の知識としてではなく、知り合うとか深く関わるとか友人となるという意味があります。ですから、神を知るとは、神について調べて、知識を積むということではなく、永遠なる神と出会い、神を心に迎え入れることです。そして、神が遣わされたイエス・キリストを知り、イエスへの信頼をもって生きることです。そういう、永遠なる方と結び合わされた歩みこそが「永遠のいのち」なのです。
問58 「永遠の命」という箇条はあなたにどのような慰めを与えますか。
答 わたしが今、永遠の喜びを心に感じているように、この命の後には、目が見たことも耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。
ここでも言われていますね。永遠のいのちとは「この命の後」のことでもあるけれども、まずは
「今、永遠の喜びを(既に)心に感じている」
のだと。私たちが真の神と出会い、イエス・キリストを知る時、私たちは喜びを抱くようになります。それは何よりも、永遠なる神との関係に入れられることの喜びです。実は、この言葉は、ハイデルベルグ信仰問答の別の判では
「永遠の命を心に感じている」
とされているのだそうです。「命」と「喜び」は入れ替えて言えるようなことだとしたら、なるほど、と思います。喜びがない命とは、なんと詰まらない命でしょうか。喜びを欠いたまま、永遠にあるとしたら、それは永遠のいのちではなく、永遠の死、永遠の呪いかもしれません。
確かに聖書には命を指す二つの言葉があります。一つは、ゾーエーといい、「永遠の命」の場合にはこのゾーエーが使われています。もう一つはビオスといいます。これはバイオテクノロジーなどの語源で、生物学的な生命力・死んでいない状態です。動物の命はビオスです。それが永遠に続くのだとしたら、幸せでしょうか。喜びがなくても永遠に滅びない。神との出会いのような素晴らしい相手がいない、孤独で意味もない状態がずっと永遠に続いていくとしたら、そんなものは、とても望ましいとは思えません。「永遠などというものがあるとしたら、さぞかし退屈だろう」という人もいますが、そういう人が考えるのは、ただの不死の状態で、永遠のビオスです。
でも聖書がいうのは永遠のビオスではなく、永遠のゾーエーです。英語でも女性でゾーイという名前が珍しくありません。私たちの友人も娘にゾーイちゃんがいます。親が子どもに名前をつけるような、愛のこもったプレゼントです。そして、神は後の
「永遠のいのち」
ではなく、今私たちと出会い、私たちに喜びや愛や慰めを下さっています。この世界には、神の驚くべき御業が満ち満ちています。そして、イエスは今の私たちに関わり、喜びがないような状況でも喜びや希望をもって生きるようにしてくださいます。私たちといつまでもともにおられ、大切なことを教えてくださいます。今この時、イエスがともにいてくださって、私たちに喜びを下さいます。それこそが、もう永遠のいのちを与えられている始まりなのです。先ほど、「永遠など詰まらない」と言う人たちの話をしましたが、そういう人は今の人生を詰まらないと思っているのかもしれません。今が詰まらなければ永遠だって飽き飽きするでしょう。今日を楽しめなければ、永遠の喜びだって思い描けないのは当然です。しかし、イエス・キリストに出会い、自分の頭の中だけの世界から出て来るなら、私たちの人生は「詰まらない」はずがありません。聖書を通しても、人との関わりや、神が作られた世界の様々なもの、自然、また美しいもの、楽しいものに驚かされます。そして、それは今だけではありません。私たちが死んで、よみがえらされ、栄光のからだをいただいても、永遠に果てしなく喜ぶのです。
ハイデルベルグ信仰問答では
「この命の後には、目が見たことも耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる」
とありました。これは、聖書のⅠコリント二9の言葉からの表現です。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神は、神を愛する者のために、私たちが見たことも聞いたことも、思い浮かべたこともないことを備えてくださいます。今もそうですし、死の後にも、それは永遠に
「完全な祝福」
を受け続ける。そして、その結果
「神を永遠にほめたたえる」
というのです。それはどういう状態か、私たちには想像できません。心に思い浮かびもしないこと、というのですから、それを想像しようというのは無理な話です。でも、それによって私たちは永遠に神を誉め称えることは分かっています。それは、ただの義務感や仕事だから永遠に神をほめたたえるのではありません。本当に永遠に、神の素晴らしさを味わい、心を永遠に打たれて、喜びながら、ますます感激しながら、神を賛美するのです。そういう喜び歌う姿が、永遠のいのちには伴っていることは聖書に繰り返されています。神とイエス・キリストを知ることは、永遠に生きるに値することです。細く長く永遠に生きるのではないのです。永遠に、ますます喜び溢れ、限りなく神の素晴らしさを賛美する。そういう永遠の値打ちのあるいのちを神は私たちに下さるのです。
自分の死を恐れて「永遠のいのち」を求めなら、永遠も退屈に思えて揺れます。しかし、いのちよりも大事なもの、神と出会い、キリストにある人生をいただく時、今を喜び、死も恐れなくなります。神を誉め称え、人も自分も大事にするようになります。それは、イエス・キリストが私たちに、永遠に生きるいのちを与えられたしるしなのです。