聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記十九章(1~7節)「のがれのまちがある」

2016-04-03 17:33:14 | 申命記

2016/04/03 申命記十九章(1~7節)「のがれのまちがある」

 

 この申命記は、今から三千年以上前、エジプトの奴隷生活から救い出されたイスラエルの民が、本当の意味での自由な民、神の子どもとして歩むための指針を書いたものです。今日の一九章には、

「三つの街」

を取り分けることを述べています[1]。その目的は、殺人事件が起きた場合、その加害者が、危害を加えようとわざと殺したのでなく、また、以前からその人を憎んでいたわけでもなかった場合、その加害者がその街に逃れて暮らすため、です[2]。他の箇所ではこの街は「逃れの街」[3]と呼ばれます。そのシステムが立てられる目的は、

10あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないためである。

という事に尽きます。無実の罪の人が、冤罪で処刑されてはならない。その原則はよく分かります。勿論、何千年もの時代と文化の隔たりもあって、現代の感覚では理解できない点もあります。今の時代に、5節で

「たとえば」

と言われるような、斧を振り回してその頭が柄から抜けて隣人に当たって死ぬ、というのは滅多にお目にかかりません。斧より身近なのはたとえば自動車です。運転中、ウッカリ人を跳ねてしまった。しかしウッカリであって、引いた相手を前から憎むも何も、知り合いでさえない場合が多いでしょう。しかし、運転手は「罪がない」とは言えず、当然、過失運転致死罪となるのです[4]。ここでも

「罪のない者の血が流されることがない」

とは言いますが、わざとでなければ「無罪放免」とされて堂々と今までの通り暮らせるのではありません。6節に

「血の復讐をする者」

とありますが、死んだ者の一番の近親者には、亡くなった者の権利を代弁する責任がありました。「仇討ちをする権利」ではありません。律法では、決して個人的な復讐や私刑(リンチ)は許されません。裁きを行うのは長老や「さばきつかさ」など、公の制度です。しかし、亡くなった方の近親者がその公の対処では腑に落ちず、どこかでバッタリその加害者に出くわしたら、憤りに燃えて、私的に復讐する悲劇も起こり得ます。そのために、加害者の住む逃れの街が創られ、彼はそこで全く新しい生活を始めなければなりません。そして、時の大祭司が死ぬまでは、その街で新しく暮らすのです[5]。あなたが誤って人を死に至らせたとして、それが殺意からでないとは分かってもらえたとします。でも「ワザとじゃなかったんだからお帰りなさい」ではありません[6]。「ワザとでなくても、あなたの過失で人が亡くなった以上、あなたは今までの生活を打ち切って、大祭司が死ぬまで、逃れの街で過ごしなさい」と言われるのです。これは、いのちに対する大変厳かな態度です。

 律法では神の民の生活に、殺傷事件なんてあり得ないとは言いません。そんな事件さえ想定したインフラ整備が命じられるのです。自分に殺意がなくても、人を殺めることがあり得るという現実を示します。そしてその場合、相手の身内が復讐したい思いに駆られる感情も認めています。意図的な殺人ではなくても、やり場のない感情を抱く現実をもそのまま受け止めています。加害者は、不慮ではあっても、そうした事態を引き起こした責任を引き受けて、逃れの街で再出発をするよう、命じられているのです[7]

 勿論これは形式上の規則でもあります。ワザと殺したのに「手が滑っただけだ」と言い逃れるかもしれません。4節の

「以前からその人を憎んでいなかった場合」

という条件は、結局普段から人の悪口や憎しみを抱かないことを求めているはずです。しかし、殺意を抱いている人はそれを口に出さずにこの条件をクリアしようとすることも出来ます。人はいくらでも偽証をし、責任逃れをしようとします。実際、イスラエルは律法を空文化していきます。15節以下には「偽証による冤罪を避けるため、二人か三人の証言がなければならない」と規定されていますが、後の時代には賄賂を何人にも掴ませて偽証をさせて、人を無実の罪で殺す出来事さえ起きました[8]。そしてそれは、他ならない主イエスの裁判でも起きたことでした[9]

 主イエスの十字架は、まさに罪のない方の血が流されたことでした。ここで強く窘(たしな)められていることが正に主イエスにおいて起きたのです。それも、父なる神は、イエスが血を流すために、この世にお送り下さったのです。イエスのために「逃れの街」を用意して守ろうとはなさらず、殺す者たちの手に引き渡されたのです。どうしてでしょうか。

 逆説的ですが、この申命記の規定が与えられたのと同じ理由です。私たちの中に、憎しみや殺意や憤りがあることを神が受け止めて下さったのです。罪のない者の血が数え切れないほど流されて、世界が血を吸い込んできた叫びを、神が御自身の悲しみとなさっていると知るためです。いくら法律を作り、教育をしても、人間の心が変わろうとしなければ、憎んだり、殺したり、嘘を吐いたり、復讐心に駆られて生きたりしてしまうものです。イエスは、その私たちの心を新しくするために、御自身の心、いのちである血を流してくださったのです。主は、疲れた者、重荷を負っている者は、わたしのもとに来なさいとおっしゃいました。主イエスご自身が、人生の現実で疲れ、背負いきれない重荷をどうすることも出来なくて潰れそうになっている者を招いてくださるのです。主は、昔も今も、逃れの街を用意して、そこに招いて再出発をさせてくださるお方です。

 私の友人が「逃れの街ミニストリー」という働きをしています。特に、若者の性や中絶の問題に取り組みつつ「悩みをかかえて苦しむ、行き場のない人々のための逃れの場所として、共に痛みを共有し、聖書から真実を求め、主にある喜びをもって生きるために働いていきたいと願っています」というのが彼の願いです[10]。主が「逃れの街」を備えられた事は、今の私たちへの福音でもあり、教会の働きです。イエスは、失敗に苦しみ、行き場のない方のために、逃れの場所を与えてくださいます。そして「逃れの街」には、同じように逃れた人たちとの出会いがありました。分かち合える仲間との出会いも備えられていました。教会も、立派なクリスチャンではなく、失敗や挫折や恥を持つ者たちの集まりです。でも、イエスは私たちを招いてくださいました。そして、ここでもう一度、よい再出発をさせてくださるのです。

…神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるようにと、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。[11]

 「脱出の道」と「逃れの街」は響きが似ていますが、それが元に戻れる道のことではないし、責任逃れの道ではないことも共通しています。むしろ、過去の変えられない現実を受け入れ、人の気持ちも尊重し、壊れてしまった現実から、次へと進むよう導かれた場所へと進んで行くのです。イエスと共に軛を負って、学びつつ、自分の責任を果たしていく生き方です。そういう新しい道へとキリストは導かれるのです。

「神よ。私に与えてください。
変えられないものを受け入れる静けさを。
変えられるものを変える勇気を。
その二つを見分ける洞察を」[12]

 憎しみや恨みや責め立てる声から逃れて、でも、責任ある生き方、自分のなすべき分を果たし、神がそこにも新しい歩みを下さることを期待する生き方を始めさせてくださるのです。主イエスはそういう歩みを下さる。私たちは、そういう再出発に預かった仲間たちであります。

 

「主よ。逃れの街は、私たちの赦しと再出発の象徴です。罪なきあなたの死のゆえに、すべての者が主のもとに来て、新しく歩み始める恵みが与えられました。裁かれ、傷つき、断絶した関係から逃れて、あなたの元で安らぐ場をここにお造りください。あなたが私たちを、責めるよりも育てて下さり、何度でも再出発させたもう恵みを、私たちに分かち合わせてください」



[1] 既に四41-43では、ヨルダンの東側に三つの街が取り分けられていました。ここでは、ヨルダンの西側の三つの街です。しかし、8節では、時代の変化、繁栄と共に、さらに三つの街が追加されることも示されます。ここには、社会の発展とともに、(いわば限りなく)逃れの街が増やされ、その機能を展開していくことも暗示されているでしょう。

[2] 出エジプト記二一12-14、民数記三五章10-15、22-28節。また、ヨシュア二〇章。出エジプトでは、二〇章の「十戒」に続く二一章という早さです。この規定の大きさが分かります。

[3] 「逃れの街」という言い方は民数記で11回、ヨシュア記で7回、1歴代誌で二回。申命記ではゼロ。

[4] 殺人への対処としても、現在の刑法との違いはいくつもあるでしょう。一瞥するだけでも、故殺は即死刑ですし(11-13節)、傷害致死は、逃れの街に住むのです(1-7節)。無罪放免とはならないし、あるいは、罰金や禁固刑という刑罰は想定されていません。また、21節の原則は、過失も同害報復で一律に強いるのではない、ということも分かります。不慮の殺人であれば、「いのちにはいのち」ではなりません。ただし、偽証によって死刑に至らせようとした場合は、実行はしていなくても、「いのちにはいのち」となります。故意か、不慮か、が大きな分かれ道になる。

[5] 民数記三五25、28によると、彼はその時の大祭司が死ぬまでその逃れの街に留まっていなければならず、「大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる」(同28節)とされています。

[6] かばって責任を問わないのは神の愛ではないし、私たちにとっても愛の行動とはいえません。愛するからこそ、相手を責任ある行動へと導き、他者の感情にも配慮しつつ、自分の生き方を引き受け、善きものとするよう励ます。それが、真の愛なのです。

[7] 人は過失であっても、なしたことには責任を負わなければならないこと。事故や殺意の死は起こりうること。人の復讐感情は強力であること。新しい地での再出発があること。これは、私たちの生活での大原則です。そしてこれらは、言い換えれば、「種蒔きと刈り入れの法則」、「見極めの法則」、「尊重の法則」という『境界線』の問題そのものです。

[8] Ⅰ列王記二一章、参照。

[9] マルコ一四56、参照。

[10] Webサイトは、http://www.nogarenomachi.com/ その表紙にある言葉は次の通りです。「小さないのちの大切さを伝えたい。自分一人で自分を責めるのが人生じゃない。ぼくらは神様によって創られた。みんなかけがえのない存在。弱くても、苦しくても、神様はぼくらはを愛してくれる。聖書の御言葉が導いてくれる。神様の愛によって変えられる人生へ。責められる場所から逃れてきて欲しい。この逃れの街へ。そして共に苦しみや痛みに涙をしながら、本当の聖書が教える新しい人生へとこの逃れの街から共に歩き出そう。」

[11] Ⅰコリント十13。

[12] ニーバーの「静謐の祈り」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする