聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問99「私たちの祈りを助ける神」ローマ書8章26~27節

2015-12-13 21:49:56 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/12/13 ウ小教理問答99「私たちの祈りを助ける神」ローマ書8章26~27節

 

 祈りは、私たちが神から恵みを頂く上で欠かせない、そして、素晴らしい手段です。私たちの願い事を、神にお献げすること。神とお話しする事。神との友情を育てる事。神との親しい関係の中に、生きる事。それが、祈りです。では、私たちはどのように祈ったらよいのでしょうか。それが、今日の問99です。

問99 神は、祈りについて私たちを導くため、どのような規範を与えておられますか。

答 神の言葉全体が、祈りについて私たちを導くのに役立ちますが、しかし、導きの特別な規範は、キリストがその弟子たちに教えられた祈祷文、いわゆる「主の祈り」です。

 この次から、「主の祈り」を丁寧に取り上げて行きますが、今日はまずこの前半の

 神の言葉全体が、祈りについて私たちを導くのに役立ちます…

という言葉に耳を傾けましょう。神は祈りについて私たちを導くための規範として、まずは、聖書全体が役に立つ、というのです。聖書は、直接祈りについて教えていないように見える箇所でも、私たちと神との関係について様々のことを教えてくれます。神がどのように私たちに関わっておられるか、私たちと神との関係が罪によってどのように壊れているのか。そうしたことを丁寧に掘り下げているのですね。それを、私たちが自分たちのあり方に当てはめて考えていくなら、私たちを祈る助けになる、というのです。

 このウェストミンスター小教理問答も、最後に「祈り」についての問答が10回あって終わりになります。これは、とても大事なことです。最後に祈りのことを教えるのは祈りが大事ではないからでしょうか。祈りのことも、おまけして、最後に話しておきましょう、ということでしょうか。いいえ、その逆です。今までの、神について、キリストについて、救いについてお話しして来たことは、私たちを祈りへと導くのです。神様との関係がどのようなものであるか、を気づくなら、それは私たちを祈りへと導かずにはおれません。

 もっと言えば、神ご自身が、私たちに祈ることを求められ、親しい交わりを持ちたいと願っておられる神です。天地万物をお造りになった神は、私たちの神という親しい契約を結ばれました。実の親子の血のつながりよりも強く、永遠の、神の子どもという親子関係に入れてくださいました。それなのに、私たちが祈らなくても気にしないとか、祈りはおまけだとか、そんなはずがあるでしょうか。神は、大いなるお方であると同時に限りなく親しいお方であり、私たちといつもともにおられるお方です。そして、私たちもその神との親しい交わり、つまり祈りを絶えず捧げつつ生きるようにと、私たちを助け、導き、聖書全体を通して、教えてくださっています。

 どうでしょうか。私たちには、神がそのように「私」に関わり、私が祈るならば、喜んで、深く耳を傾けてくださっているお方である、という確信があるでしょうか。「自分が祈ろうと祈るまいと、神は気になさらない」とか「神がそれほど私個人に関心を持っておられるとは思えない」と考えていないでしょうか。そのような思いで祈るなら、祈りそのものが、真剣味や期待を欠いてしまうのも仕方がありません。祈りに身が入らず、口先だけの祈りになってしまうでしょう。あるいは、神が私たちに祈りを求めておられる、という「義務」を果たしておかなければ神のご機嫌を損なうことになる、というような思いで、毎日祈りを欠かさないとしても、そこには「恵みの神」ではなく「真面目で面白みのない神」という、歪められたイメージしかない、ということもあります。ですが、聖書や教理の学びを通して、恵みの神に対する正しいイメージを持つことは、私たちを喜ばしく楽しい祈りへと導いてくれるのですね。しかし、何よりも、聖書そのものにおいて教えられている「祈り」の姿、祈りの言葉、そして、私たちが実際にそのような祈りに教えられていくこと自体が、私たちと神との関係を育んでくれます。

ローマ八26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

27人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神の御心に従って、聖徒のためにとりなしてくださるからです。

 これもまた、すばらしい言葉ですね。神の御霊は、弱い私たちを助けてくださいます。よく「自分は信仰が弱いから、祈ってもあんまり力がないけれど、信仰が強い人ほど、祈りに力があり、神もそういう人の祈りに応えてくださる」と言ったり考えたりすることがあります。でも、聖書は、私たちが強くなったら祈りにも応えてくださる、ではなく、弱い私たちだからこそ、御霊が助けてくださるのだ、と言います。そして、信仰が強くなると、祈りも力強くなる、とは言いません。パウロはここで、

…私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、…

と言っています。「どのように祈ったら良いか分からない時があるとしても」ではなくて

どのように祈ったらよいかわからないのですが、

です。パウロがこう言っています。信仰が成長するとは、自分がどのように祈ったら良いか分かるようになる、ではなくて、どのように祈ったら良いのか自分には分からないけれども、その私の願いを、神の御霊が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださるのだ、と確信できるようになっていくことです。そうです、聖書全体が、人間の弱さ、罪によって歪んでしまった、心の闇の深さを描いています。神との関係が本当に偉大で、確かで、素晴らしいことを示しつつ、なお人間はその神を疑ったり罪を犯したりするのに如何に容易いかを、これでもかとばかりに示しています。でもそうやって、神様は、私たちの心の一番奥深くにある思いにまで届いてくださって、神の御霊ご自身が、人間には言い表すことも出来ないほどの呻きでもって、私たちのこのありのままを、天の神の前に届けてくださるのです。何とありがたいことでしょうか。

 神は偉大で聖く、恵み深く、私たちの祈りを喜ばれる、天の父です。イエスは「主の祈り」を始め、その教えと生き方全体で、祈りの模範を示されました。御霊はこの私たちの祈りや願いをすべて受け止めて、天に届けて下さいます。だから私たちは祈れるのです。祈りこそ、私たちが最も自分らしく、安心していられる、欠かせない時なのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マタイ一章1~17節「大いなる卑しさ」

2015-12-13 21:47:18 | クリスマス

2015/12/13 マタイ一章1~17節「大いなる卑しさ」

 今週から映画「スター・ウォーズ」の第七作が公開されます。第一作の公開は三十年も前で、六回分のお話しを知った方が面白いでしょう。勿論、一番いいのは、エピソードⅠからⅥまで13時間半分を、全部観ることです。でも、もっと簡単に、ダイジェストや一ページにまとめようとするでしょう。或いは登場人物の名前から紹介するという仕方もある。今日のマタイの系図はそのようなものだと言っていいかもしれません。新約を読む前に、旧約を全部読む代わりに、ここに人物の名前で旧約聖書の歴史をまとめている。そう考えてはどうでしょうか。

一1アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

と始まります。アブラハムは聖書の歴史で、神に選ばれて、民族の父として覚えられる偉大な存在です。神である主がアブラハムを選び、祝福の約束を与えられました。アブラハムを祝福し、アブラハムを通して、全人類が祝福されるという約束が告げられました。そして、その末に登場したのがダビデ王です。聖書の中では、最も愛され、神に祝福された信仰者であり、イスラエル王国の基礎を築いた王です。それから約千年も経った新約聖書の時代でも、ダビデ王の時代を懐かしんでいました。実際、イエスは「ダビデの子イエス」と何度も呼ばれます。そこには、イエスにダビデ王の再来を期待する当時の熱烈な思いがあったのです[1]

 しかし、聖書を思い出すならば、ここで振り返る旧約の歴史は決して、祝福や輝かしい栄光一色ではありませんでした。アブラハムやダビデ自身、嘘や不信仰を見せました。怒りや欲望に突き動かされて、大きな罪を犯したこともありました。家庭の夫や父として、全く不適切な行動を取りました。罪は、ただの道徳の問題ではなく、信仰や家庭や社会のあらゆる関係まで破綻させたことを生々しく記します。9節のアハズ、10節のマナセ王などは大変悪い王でした。ウジヤ、ヒゼキヤ、ヨシヤなどはよい王でしたが、しかし晩年や祝福を受けた後に、油断が出来たか、大失態を演じて、晩節を汚してしまった人々です。その結果が、11節に出て来る

「バビロン移住」

です。イスラエルの民族を、神が遂に裁かれて、バビロン帝国により壊滅させられ、主な住民をバビロンに移住させる、という出来事になります。その後、ゾロバベルの時代に再びパレスチナの地に帰って来るのですが、後、13節以下の人々は聖書には記されていません。すっかり日の目を見ない家系になりました。最後に出て来るヨセフは、貧しい大工でした。ダビデ王の末裔でありながら、無名の田舎者でした。アブラハムの祝福の約束など見る影もなくなっていた。それが、この系図の示している事実でした。そのヨセフの妻マリヤからキリストと呼ばれるイエスがお生まれになった、こう記すのですね。

 3節に、タマルがユダに双子を産んだことが書かれています。タマルとユダは嫁と舅の間柄でした。しかし、ユダの操作的な振る舞いに、タマルは遊女のふりをしてユダを誘い、身籠もったのです。どちらも悪い。他にも、5節で出て来る「ラハブ」は遊女でしたし、「ルツ」は異邦人、6節にある「ウリヤの妻」はその肩書きの通り、ダビデがウリヤの妻を寝取り、ウリヤを殺して自分の妻とした、そういう存在です。本来、女性の名前を家系図に載せる習慣はなかったそうです。しかし、マタイは四人の女性の、それも立派な女性ではなく、むしろ曰く付きの女性の名前を四つも記すことで、その夫たちの間違いや恥部を浮かび上がらせます。

 本当は、こんな系図は書かなくても良かったのかも知れません。実際、次の二章に出て来るヘロデ王は、そのようにしました。自分が純粋なユダヤ人ではないことを誤魔化すために、妻に名門マカベヤ家のマリアムネを娶っただけでなく、自分の系図を揉み潰して証拠隠滅を図ったそうです[2]。マタイは、それとは正反対のことをしました。イエス・キリストがお生まれになるまでの、失敗と没落の卑しい歴史を、恥じたり隠したりしようとせず、キッチリと描くことから始めます。そして、そこにイエスがお生まれになった事を明記します。

 日本だけでなく今世界で、民族感情が強まっています。自分たちの国や民族が特別であることを訴え、立派な歴史や優秀さを求めようとしています。歴史の汚点や戦争での暴力は否定しようがないのに、「自虐史観だ」と切り捨てようとしています。二つの国がそれぞれに相手国を卑しめる事でプライドを保とうとするからますますややこしくなってしまいます。そういう中で、教会が、自分たちの良さだけを語ろう、恥に蓋をしようとするなら、キリストの誕生のメッセージも骨抜きにしてしまうだけです。聖書はその逆から語るのです。

 イエスは、祝福も王位も遠い過去になったようなヨセフの家にお生まれになりました。卑しく、低い家にお出でくださいました。でも、それによって、忽ちヨセフの家が繁栄を取り戻した訳ではありません。人々が心を入れ替え、歴史が良い方向に変わったのではありません。教会が順風満帆な歩みをしたわけでもないし、今の時代でも、信仰と愛に燃えて純粋に歩めるのが真実な教会だ、と考えるのは夢物語です。キリストを信じたら、不幸や挫折とは無縁の人生を歩むとも、聖書は保証しません。むしろ、聖書全体が示すように、私たちは苦しみや失敗、弱さを通して、深く心を取り扱われて、ますます謙り、見せかけでなく心から神に頼り、神の民とされていくのです。そして、そのような卑しい人間の歴史にこそ、神は深い憐れみをもっておいでくださり、私たちを導かれるのです。もしイエスが、恥や卑しさと無縁で、私たちの生涯も美しく取り繕ってくれる王であれば、新約聖書はこのようには書き出されなかったでしょう。キリストは、人間の罪や不完全さ、失敗や破綻の真っ只中に、卑しくなって来てくださいましたし、そのようなお方です。その卑しさが、キリストの偉大さを現しているのです。

 17節で、マタイはこの系図を、三つの十四代だと言っています。三は完全を現しますし、十四も完全の七の倍で欠け無き完全さを現しています。神がアブラハムからイエスに至る歴史に完全に十分に働いておられて、時至りキリストがお生まれになったのだ、というのです。でもマタイも最初の読者であったユダヤ人たちも気づいていた筈です。旧約に出て来た王のうち、何人かの名前が飛ばされています。また、12節以下の名前は十三代しか出て来ません。最初のエコニヤを二度数えたら十四になる。そんな明らかな「数合わせ」をマタイはしています[3]。でも、何かそんな「こじつけ」も大らかに堂々とやってのけるところがいいのです。きっちり十四人じゃなきゃとか、実は足りないとか、言い出したら切りが無いでしょう。人間の側からしたら足りなかったり苦しかったり欠けだらけ。けれどもその不完全な中で、神が働いてくださっている。そこにこそキリストがお生まれになり、私たちとともにおられ、深い祝福に与らせてくださるのです。神は私たちの不完全さも卑しさも排除せずに、そこに完全な御業を現してくださるのです。栄光を捨て、人間の卑しさの中に、想像もつかない犠牲を払って、飛び込んで来られました。だから、私たちは今も、どんなことがあろうとも、そこに主が来られ、私たちとともにいてくださると信じます。アブラハムの子、ダビデの子である主が、私の王として、祝福の中に生かしてくださるのです。そのイエスの偉大な卑しさを、感謝し崇めましょう。

 

「主が零落(おちぶ)れ果てた人間の所に来てくださった愛を、このクリスマスに改めて思い巡らさせてください。人類や教会が綴るのは今も過ちの物語ですが、そこにも憐れみに満ちた主が来られて、希望と再生を、再出発を与えてくださいます。私たちをその恵みによって、心から新しくしてください。取り繕いや言い訳を捨てて、謙虚に、砕かれて、主と人に仕えさせてください」



[1] 「ダビデ」は、マタイで15回言及されています(マルコ7、ルカ12、ヨハネ1)。「ダビデの子」としてのイエス理解が突出しているのが、ユダヤ人を読者として書かれたマタイの福音書の特徴です。王であり、羊飼いからの選び、イエスの予型であるダビデ。ちなみに、「アブラハム」は6回(マルコ1、ルカ14、ヨハネ9)です。

[2] ヘロデは系図を憎んだ。異邦人の血が混じっている事実を隠そうとして、登録所の官吏を殺して証拠隠滅を図ったそうです。(加藤『マタイによる福音書1』p.17)

[3] 8節のヨラムの次に「アハズヤ、ヨアシュ、アマツヤ」が、11節のヨシヤとエコヌヤの間の「エホヤキン」が、12節のサラテルとゾロバベルの間の「ペダヤ」が省略されている。第三区分の12節から16節までは、13代しかいない。バビロン捕囚からの六百年が、わずか十三世代? そんなはずはないのに。ダビデ以降、ルカは四二世代記している所を、マタイは二七世代のみです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする