聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記十四章「食べ、喜べ」

2015-12-06 17:02:18 | 申命記

2015/12/06 申命記十四章(1~8、22~27節)「食べ、喜べ」

 

 ある教会で礼拝の中、講壇でパーティをしたのだそうです。ソーセージやロブスター、ジャーキーやエスカルゴ、日本でならウナギや蟹、鴨などもつけたでしょうか。何をしたかったかと言うと、今日の申命記14章や旧約聖書の律法では、食べてはいけないとされていた汚れた動物たちの料理を、礼拝の最前列で楽しむ、そのギャップを体験した、というわけです。

 実際、新約聖書の「使徒の働き」十章で、旧約の律法では禁じられていた動物を食べるように示される出来事が書かれています。今私たちは、このような規定に縛られてはおらず、どんな動物や魚でも食べることを許されています。豚でも蟹でもコウノトリでも食べてよいのです。けれども、ここで言われているメッセージは変わりません。それは、

十四1あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。…

 2あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。[だから]

という事です。1節は、最初に「子どもです・あなたがたは・主の」と宣言される強い言い回しです。しかも、「主の子ども」という言い方は、初めて使われています[1]。いいえ、旧約新約合わせて、「主の子ども」というのはここだけです。神である主が、イスラエルの民を選んで、ご自分の宝の民としてくださいました。それは、主の子どもとされた強い、新しい、想像を絶する恵みです。それがここで言われています。その尊い恵みの中に既に入れられたゆえに、

 1…死人のために自分の身を傷つけたり、また額をそり上げたりしてはならない。[また]

 3あなたは忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない。

といった行動が命じられるのですね。主の子ども、主の宝の民とまでされている恵みを戴いているのだから、死人のために自分の身を傷つけたり額をそり上げたり、無意味な儀式をしないのです。イスラエルの周辺には自分を傷めて死者を供養する習慣がありました。現代でも、死者のために高いお金で戒名を買わされたり、「後追い自殺」をしたり、という考え方は染み渡っています。聖書は、そのような人間のマイナス思考に対して、自分たちを傷めることはもう止めなさいと強く言うのです。私たちは、主の子ども、主の宝の民であるからです。

 食べ物の規定もそれに通じています。主の民であることが、食べ方にも現れて、何を食べるかを注意することにもなるのです。汚れたものや死んだものは食べないし、また、周辺の宗教と関わっていたようなものもここでの禁止リストに入っている[2]。今に適応すれば、私たちの体は大切な体なのですから、体に悪い食べ物を食べたりはしないし、同時に、みんなが高いお金を払う高級グルメなどにもそそられる必要はないのです。ここに具体的な動物が挙げられていますが[3]、実際には殆ど食べる可能性さえなかったでしょう。抑もそれが本当は何の動物のことなのかさえ不明なものばかりなのです。大事なのは、どの動物が汚れているか、という問題ではなくて、神の民が、自分に与えられた立場を自覚して聖く歩むことなのです。汚れた動物さえ食べなければ良い、ということではなく、神の民が自分に与えられた価値を受け入れて、自分を傷つけて貶(おとし)めないこと。逆に、神の価値だけでは物足りなくなって、違う教えに肖ろうとしないことです。もう少し突っ込んで言えば、蹄とか反芻とか群生しないとかにもそれぞれに、象徴的な意味はあるのですが、今日はそこには触れません[4]。いずれにしても、大事なのは、こうした動物を食べないことそのものではなくて、それによって、神の民が主の前に、宝の民として歩むことです。また、食べてはならない動物よりも、食べて良い物の方が十分あるのですね。エデンの園でも禁じられたのは一本の木の実だけで、あらゆる種類の好ましい果物が豊かに茂っていました。ここでも、食べてならない以上に、豊かに与えられていることに焦点があてて書かれています。そして、22節以下では、畑から得る、毎年の豊かな収穫の感謝を主に捧げること、食べて、喜び、楽しむことに、話しが展開していきます。

 ここに示される神の民の聖い生き方は、ただ自分たちが汚れた動物を食べない、潔癖で、お高くとまった閉鎖的な生き方ではありません。むしろその逆です。26節では、家族とともに喜びなさいと言われ、27節ではそこに、レビ人も迎え入れなさいと言われます。そして、28節以下では、三年ごとには、在留異国人や、孤児や寡婦を町ごとに迎え入れるようにと言われて、賑やかな宴会が命じられているのですね。そうして、食べ、満ち足りるなら、

29…あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。

といわれるのです。この在留異国人は、21節では、死んだ動物を食べる事が認められていた非イスラエル人です。彼らは、主の民ではないので、汚れた動物を食べる習慣があったとしても咎められません。でも、そうした異国人を退けよ、そんな奴らとは一緒に食事もするな、とは言われないのです。むしろ、そうした在留異国人も招いて一緒に食べ、満ち足りる宴会にこそ、主の子ども、聖なる民としての相応しいあり方があり、主はそうした開かれた喜びを望んでおられ、祝福してくださる、と言われているのですね。

 私は、孤児や寡婦や在留異国人を招く、というのは、貧乏で困っているから、という事だとばかり考えていました。しかし、MacConvilleという注解者が「そうだったら、貧しい人を招けと書いただろう。民数記には、貧しい人という言葉自体出て来ない。貧しいから施してあげなさい、ではなく、繋がりを与えなさい」と言われているのだと書いていて、ナルホドと思わされました。孤児は親を失い、寡婦は夫を失った存在です[5]。在留異国人は故国から遠く離れた存在です。彼らも仕事に成功して、金持ちになることもあります。そうするとやっかみを持たれて、憎まれ、疎まれ、排除されて、ヘイトスピーチが今でも起きています。主の示されるのは、そのような閉鎖的な排除の方向の真逆です。ここに、帰る場所がない人たちを招き、食べさせ、お説教するよりも、恵みの主をたたえ、一緒に満ち足りる。それが、主の子どもとして進むべき道です。主が私たちを、測り知れない憐れみによって、ご自身の子どもとしてくださいました。その思いもかけない絆を戴いた主の民は、在留異国人や孤児や寡婦、絆を失った人たちと、自分の収穫を分け合って、新しい繋がりに迎え入れるよう命じられているのです。

 今、私たちは、主イエスの十字架の御業によって、食物の規定が撤廃されたことを知っています。面倒臭くなくなって良かった、という以上に、主イエスにより、私たちが、主の子どもとされた喜びを祝いましょう。その価値に相応しく、食べるにも何をするにも、自分を傷つけたりせず、恵みを戴きましょう。更にこの幸いに、他者を招き、共に神の子どもとされる喜びを祝いましょう。クリスマスは、自分たちがプレゼントをもらい、閉ざされた関係で幸せに過ごそうとする日ではなく、家族や開かれた交わりで、ともに主の恵みを味わう時として、世界中の教会がそれぞれの町で祝います。そこに、この申命記十四章が示している神の御心が成就していると言えます。私たちに与えられた聖さは、本当に豊かで開かれた喜びへの招きです。

 

「神の御子である主イエスが来て、私たちを主の子どもとしてくださったことを感謝します。自分の食生活も体も大切にせよと命じられていることを感謝します。異国人や繋がりを失った人とも共に主にある喜びを祝う新しい生き方を、どうぞ私たちの中に育て、実現してください。豊かさの裏に、行き場のない孤独を抱えた今の日本に、クリスマスの愛の光を見せてください」



[1] 申命記一31「また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。」や、八5「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない」など、主の養いや恵みに満ちた導きは重ねて言われてきましたが、「あなたがたは、主の子ども」と言われたのは初めてです。

[2] 周囲の民族も、似たような禁令は持ち、豚は食べない宗教が多くあったので、カナンの異教の拒絶という面では片付けられません(McConvile, 249)。また、衛生的な理由も提案されていますが、衛生的なことだけであれば、律法が禁じるまでもなく、避けるはずです。七25「忌まわしい」は異教と結びついた概念です。

[3] レビ記十一章にはもっと長々としたリストが挙げられています。

[4] この事に食事規定については、創世記三章との平行関係が、木内伸嘉氏によって解説されています。

[5] 彼らへの施しは必要です。申命記十18、二四17、19、二七19などで命じられています。ですが、それは、三年に一度では足りません。

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