聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マタイ一章18~25節「恐れずに、迎えよ」 クリスマス礼拝

2015-12-20 20:15:34 | クリスマス

2015/12/20 マタイ一章18~25節「恐れずに、迎えよ」

 

 クリスマスは、イエス・キリストの誕生をお祝いするお祭りです。聖書には、イエス・キリストの誕生を巡る出来事が、主(おも)にマタイの福音書とルカの福音書に伝えられています。しかし、直接、イエス・キリストの誕生がどのようなものだったのかは、全く記録していません。

「男子の初子を産んだ」[1]

「子どもが生まれるまで」

「お生まれになったとき」[2]

と実にあっさり記しています。むしろ、その周りに集まっていた人の様子、その人たちにとって、キリストの誕生がどのような出来事だったのか、あるいはキリストの誕生にどのような応答をしたのか、ということから、クリスマスの意味を浮かび上がらせます。そして、そこで御使いが告げる言葉として四回繰り返されているのが、今日のマタイ一20にも出て来ました、

「恐れないで」(恐れるな)

という言葉です[3]。マタイは、この言葉をここ以外に八回、合わせて全部で九回繰り返します[4]。クリスマスから復活まで何度も「恐れてはならない」と言われるのです。

 では、一体、どんな恐れを言っているのでしょうか。今日は、このマタイ一章のヨセフの姿に注目してみましょう。ヨセフの恐れとは何だったのでしょうか。

 この時ヨセフは婚約者であったマリヤが、聖霊によって身籠もったために、彼女を離縁することを決心した所でした。当時の文化では、婚約は結婚と同じ重みがありました。もしこの時、女性が他の誰かと関係を持ったなら、それは不貞を働いたと見做されて、石打にされることになっていました。ですがヨセフはそうはせず、秘かに離縁しようとした、とあります[5]

 これは私の理解ですが、18節で

「聖霊によって身重になったことがわかった」

とあるのですから、ヨセフは、マリヤが身重になったのが聖霊によってだと、どうにかこうにか分かったのです。俄(にわか)には信じがたかったでしょうが、ヨセフも認めざるを得ず、受け入れたのです[6]。でも、それを何とか信じられたとして、それでも(というか、それならなおさら)ヨセフはそんな前代未聞の器として神が選ばれたマリヤとその奇跡の子どもの父親になるには自分は相応しくないと思った。だから離縁しようとしたのです。彼女たちを晒し者にしないよう、秘かに去らせる、それが自分の精一杯だと思ったのです。それが、彼としての精一杯の

「正しさ」

でした。そこに主の使いが夢に現れて、「恐れないで、妻を迎えよ」と言いました。御使いが見抜いていたのは、ヨセフの心の奥深くにあった本当の動機が「恐れ」だったことです。

 この後もマタイは、人の恐れを取り上げます。それは嵐の湖で乗っていた船が沈みそうになった時の恐れ[7]、幽霊を見たと思った時の恐れ、人から嘲られたり迫害されたりすることへの恐れ、神に滅ぼされるのではないかという恐れ、様々なことが原因です。でも、その根っこにあるのは、死とか禍とか人からの拒絶によって、自分が孤独になることへの「恐れ」ではないでしょうか。何が起きようとも、それでも自分を支えてくれる誰かがいると思えたら、痛みや反対だって我慢できます。でも、結局最後には、自分を支え、愛し、ともにいてくれる人なんて誰もいないんじゃないか、という孤独が私たちの中には根強くあるのです。

 『舟の右側』という雑誌に日本人牧師が夫婦関係についての連載を書いています。そこで、夫と妻の衝突の根っこにある事は

「関係が壊れていく恐れ」

と言えるのではないか、と書いておられました。これはとても鋭い洞察だと思っています[8]。関係が崩れ、独りになる、という「恐れ」です。旧約聖書に出て来るヨブも、神を恐れる正しい人でした。全財産も子どもたちも災害によって奪われ、自分の身も皮膚病に冒されてボロボロになっても、彼は神を呪うことはありませんでした。しかし、そのまま、神から何の答もないまま時間が過ぎた時、彼は、

三20なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。

と嘆きます。結局、無意味なまま生きていかなければならない、生きる事に喜びや意味などないのかもしれない、そういう予感をヨブは持っていた。それをヨブは、

三25私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。

と言うのです。所詮、人生は孤独で無意味だ。自分なんてそんなものだ。そういう恐れがヨブにもあり、夫婦という最も人格的な関係でも暴露される。そして、ヨセフの行動にあったのも、自分などが聖霊によって身籠もったマリヤの夫になどなれない、という恐れでした。

 先週見たように、ヨセフに至る歴史は、神の祝福とは裏腹に、罪や反逆を重ねてきた歴史でした。人間の傲慢、暴力、身勝手さ、醜さ、悲しい限界の歴史でした。そして、ヨセフは自分自身の罪や心の闇にも十分気づいていたでしょうし、私たちも、たじろぐでしょう。神が処女マリヤの胎にイエスを宿すことが出来ると信じてはいても、その同じ神が、私たちのうちにもキリストを宿らせる程、私に良いご計画を持っておられ、私を愛され、私を変えて下さると信じるのはまた別、と思ってしまうのです。ヨセフも、そうたじろいで離縁を決めたのです。でもその判断にさえ、ヨセフは自信がなかったのです[9]。でもそのヨセフに、御使いは言いました。

20…「恐れないで、あなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 罪があるから相応しくない。それが人間の「正しさ」です。しかし、神の「聖」なる霊が始められたのは、マリヤの胎に産まれるイエスによって、神がご自分の民を罪から救ってくださる、という業でした。22、23節にはこの出来事の意味が、預言者イザヤに与えられた言葉の成就であったと言われています。そこに約束されていたのは、

「神は私たちとともにおられる」

と名乗って下さる方の誕生です。神は私たちとともにおられる。マリヤの胎に宿るほどに、本当に私たちとともにいてくださるのです。この神から離れた人間は、いつも深い孤独を抱えています。その穴を埋めるために、色々な努力をして誤魔化したがります[10]。でもどこかでそれがいつか終わるとも分かっています。孤独から目をそらしているのは、それが怖いからです。でも、神は私たちとともにいる方です。

 御子イエス・キリストがこの世に来られたのは、私たちとともにおられることのしるしでした。神が、私たちとともにいて、恐れを取り除いてくださるのです。何があっても、神が私たちの手をシッカリ握って離さないのです。何があろうと、永遠の先までも、飽きることなく、私たちと喜んで共におられて、私たちに愛を注いでくださるのです。その愛によって、私たちの心を満たし、深く潤してくださいます。神以外のものにしがみつき自分を満たそうとしたり、嘘やその場限りの虚しい物で自分を慰めたりするような生き方も止めさせてくださるのです。ヨセフにとってのマリヤの懐妊が青天の霹靂であったように、私たちの生活にも、思いがけないこと、計画を水の泡にする出来事、喪失や不幸があるとしても、その事を通して、神は「恐れるな。わたしがあなたとともにいる[11]」と語っておられるのです。このクリスマスにも、もう一度私たちもヨセフとともに主をお迎えしましょう[12]

 

「恐れるなとの御声を、今日ヨセフとともに聞き、あなた様の尊いご計画を心に迎え入れます。あなた様がともにいてくださることを、どうぞ心の奥深くで、魂が震える程の約束として受け入れさせてください。クリスマスのメッセージが、他ならぬ私たち一人一人のためであり、私たちを変え、新しい神の民を作り出すためであることを信じ、その実現を拝させてください」



[1] ルカ二7。

[2] マタイ二1。

[3] 他に、ルカの一13「こわがることはない」、30、二10「恐れることはありません。」

[4] 十26、28「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません」、31、十四27「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」、十七7「起きなさい。こわがることはない」、二八5、10。間接的にも、二20、十四30で弟子たちの恐れが取り上げられ、二一26、46、二五25などで敵対者たちの動機が「恐れ」として、描かれています。

[5] 多くの人は、この行動をこう説明します。「ヨセフはマリヤが身重になった事実にたじろいだ。聖霊によって身籠もったとは信じられなかったとしても、彼は正しい人だったので、マリヤを杓子定規に石打にしたり、怒りや不信感、裏切られたという思いでマリヤを責めたりもしなかった。彼は、自分ではない誰かの子を宿したマリヤを、秘かに去らせて、彼女を精一杯守ろうとした。なぜならヨセフは、本当の意味で正しい人だったから」。そういう読み方から教えられることは多くありますが、私は本文のような理解をしています。

[6] これを、20節以下の御使いの夢の啓示によって初めて信じられた、という理論もありますが、マリヤの言葉で信じられなかったのなら、夢で信じられるとは限らないでしょう。

[7] 八26「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」ここでは、デイロスという珍しい語が使われています。

[8] 『舟の右側』2015年11月号、41ページ。自分の親との長い関係での傷や、自分の両親の間にあった問題が、今の妻や夫との間にも重なる。すると、相手のありのままを受け止め合い、安心を与え合う関係が築けずに、力尽くでやろうとか、操作的に相手を変えようとして、却って、関係をますます拗らせてしまう。或いは、今まで理想的な関係で守られてきたとしても、新しい関係でそれが当てはまらない時に、それはそれで、このままではダメになるかも知れない、というネガティブな予想を持つようになります。

[9] ヨセフの精一杯の「正しさ」で、自分の身の程を弁えて、マリヤを去らせる決断をしてもなお、ヨセフの心は迷っていました。しかし、この事に、人間の精一杯の正しさが、猪突猛進の「正義」とは違う、慎みを伴ってこそ健全なものでありうることが見て取れます。マタイ五章~七章の「山上の説教」では、こうした人間的な「義」にまさる、「神の国の義」を持つようにと促されていきます。

[10] 神から離れた人間は、神の愛に代わって自分を支えてくれるものを求めています。名声、社会的な成功、金銭、家庭、健康、若さ、恋人や会社、大きな権力や、実に些細な抵抗で水を差すという満足感、セックスやドラッグやギャンブルでの興奮で、生きる実感を持とうとします。でも、それがいつかは無くなるかも知れないと、どこかで分かってはいます。所詮、いつか自分は独りになる。何もかも失って、後に残った、もう胡麻菓子のきかない自分をそれでもそのまま愛してくれる誰かなどいなくなる時が来る。そのとき人は、自分がしがみついていたモノを取り戻そうとするか、「やっぱり、人生はこんなものだ」と思うか、でしょう。神ご自身に立ち返るのは、ただ神ご自身からの恩寵によらなければできないことです。

[11] イザヤ四一10

[12] マタイだけでなく、ヨセフの言葉はひと言も記録されていません。そこからよく説教されるように、ヨセフの沈黙は、ヨセフの人となり、信仰の美しさ、でもあるかも知れません。しかし、それ以上に、私たちにも、ヨセフとともに、黙って、主の御使いの声そのものに聞くことを促すはずです。ヨセフへの言葉を私たち自身への言葉として聞くのです。聖書の意図は、ヨセフが寡黙だったことのメッセージではなく(男性の寡黙ぶりを美化したり正当化したりするためにヨセフを引き出し、乱用することは完全な勘違いですが)、ヨセフが何をしゃべったか以上に、御使いが何を語ったかであり、それに従ったヨセフにならって、私たちも神のメッセージを受け入れて従うことです。そこで、口を閉ざしているかどうか、は二の次です。

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