聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問30「信仰を起こし、キリストに結びつけ」 Ⅱテモテ一章9-10節

2014-12-20 13:13:23 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/12/14 ウェストミンスター小教理問答30「信仰を起こし、キリストに結びつけ」

                                                        Ⅱテモテ一章9-10節

 

 世界にはあれこれ宗教がありますが、キリスト教と他の宗教の違いをひとつ挙げるなら、どの宗教も人間の努力や条件を強調するのに対して、キリスト教は神様の完全な恵み、人間の努力に関係なく働く神様の御業を信じていること、だそうです。イエス様の十字架と復活の救いが素晴らしい、というだけでなく、その福音が、私たちに届けられ、私たちに適用されるのも、聖霊なる神様の完全な恵みのお働きです。では、聖霊は、私たちにどのようにしてイエス様の贖いを届けてくださるのでしょうか。それが、今日の問30です。

問 御霊は、キリストによって買い取られた贖いを、どのようにして私たちに適用されるのですか。

答 御霊は、私たちの内に信仰を起こし、そのようにして私たちを有効召命においてキリストに結びつけることにより、キリストによって買い取られた贖いを私たちに適用されます。

 「ユウコウショウメイ」という難しそうな言葉が出て来ますが、これは次の31で説明されますから、また来週にします。今日の問30に出て来るところに集中します。

 …私たちの内に信仰を起こし、…キリストに結びつけることにより、…

 これですね。これが肝心です。贖いを私たちに適用されるのは、なんでもかんでも、じゃない。信仰がなくても、勝手に生きていても、救われるんだ、ではないのです。

 中には「神様に選ばれていれば救われるんだったら、私が信じなくても救われるんじゃないか」と言う人もいます。そうであれば、福音を信じなくても、そのために苦労しなくても、教会にも行かなくたって、どうせ最後には救われるのだから大丈夫だ、というのです。教会の中にも、「私たちが伝道しなくても、救われる人は必ず救われるのだ、だから、何かを犠牲にして伝道に出かけるなんて、そんな面倒くさくて大変なことはしなくてもいい」と堂々と言っていた時代もありました。そういう人のために、今日の問30はあります。御霊が私たちにキリストの贖いを適用されるのは、信仰がなくても救われるのではありません。私たちの内に信仰を起こして、キリストに結びつけてくださるのです。聖霊が私たちに福音を適用してくださるのなら、その人のうちに信仰を起こさないはずがないのです。もし、信仰を持とうとしないなら、それでもその人が救われるかどうか、と考えるのではなく、聖霊がその人に働いてくださって、信仰を持たせてくださるようにと願うべきです。

 また、その逆に「救われたくて、信じたいと思っても、選ばれていなければ救われないのなら、どうしようもない」と言う人もいます。しかし、これも誤解です。なぜなら、選ばれていなければ、救われたい、イエス様に救って戴きたい、自分の罪を赦してもらい、清い心を与えられたいと願う事自体、出来ないのですから。救われたいと願うなら、その願い自体が自分の中からではなく、神様から与えられた恵みに他ならないことを恭しく受け入れて、イエス様を信じて、聖霊のお働きに感謝すればよいのです。

 また、ここには、

 …私たちの内に信仰を起こし、そのようにして私たちを有効召命においてキリストに結びつけることにより、

とありますね。信仰は、ただ私たちが「イエス様が救い主だと信じます」と信じるだけのことではありません。聖霊は私たちに信仰を起こすことによって、私たちをキリストに結びつけてくださるのです。離れた所で、バラバラなまま、信じますとか、あなたの罪を贖った、と言っているだけではないのです。聖霊が届けてくださる救いは、私たちをキリストに結びつけて、目には見えませんが、何よりも確かな絆で永遠に結ばれたものとなって、私たちを新しくするのです。私たちが救われて、キリストに結びつけられるということは、私たちの知識だけではなく、私たちの心、人生そのものを根底から変えることです。性格や顔かたちや個性が変わるということではありませんよ。むしろ、それまでは、自分を人と比べたり、「あの人のようになれたらいいのになぁ」と思っていたのが、「私がこのままで神様に造られたかけがえのない私なんだ。この私のために、イエス様は贖いの業を成し遂げてくださったのだ」と信じて、本当に自分らしく生きることです。それは、私たちのうちに自信や情熱をもたらします。そして、このイエス様の福音のために生きようという願いを起こさせます。自分の生活や地位を犠牲にしてでも、世界に出て行ったり、貧しい人に仕えたりする人がたくさんいます。それは、聖霊が私たちのうちにキリストの贖いを適用してくださる変化です。

Ⅱテモテ一9神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、

10それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかにされました。

 このキリストに結びつけられることがなくして、救われるとか死や滅びを免れるということを聖書は教えません。もともと人間が、神様に結びつけられて、神様との交わりに生きることこそが本来のあり方でした。また、そこから離れて自分勝手に生きてきた人間が、その罪を赦して戴いて、もう一度、キリストに結びつけられることが「救い」なのです。「選ばれていれば、信じなくても、キリストに結びつけられなくても救われる」? それは、何という勘違いでしょう。救われるとは、キリストを信じること、キリストに結びつけられることです。そうして、キリストに結びつけられるなら、私たちは、どうでもよいものに囚われることから自由になり、この方を伝えるためなら何を犠牲にしても惜しくはなくなり、世界の果てまで行くことも厭わないような、そんな情熱と喜びを持つようになるのです。聖霊が私たちに適用してくださるのは、ただの救い以上のこと、私たちの人生を生き生きと輝かせて、キリストとともに歩ませるためです。

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ルカ20章9~18節「礎の石」

2014-12-20 13:10:52 | ルカ

2014/12/14 ルカ20章9~18節「礎の石」

 

 今日はイエス様が、十字架に掛けられる数日前にお話しになった喩(たと)えの箇所です。まだ喩えをお話しにはなりますけれど[1]、ちゃんとまとまったストーリーのある「例え話」としては、ルカが伝える最後の例え話がこのお話しです。イエス様の、多くの例え話の締め括りなのです。

 話の筋は今読んだとおりです。ぶどう園を作った主人が、それを農夫たちに貸して、長い旅に出かけました。数年後でしょう、その分け前を受け取るために、僕(しもべ)を遣わしたけれども、農夫たちは僕を袋叩きにして手ぶらで送り返した。その後も主人は、二度三度と僕を送るのですが、農夫たちの仕打ちはエスカレートする一方で、何も持たせません。しかし、それでも、

13ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』

 そう言って、農夫たちへの呼びかけとして、三度どころではない四度目の使いを送る。ところが、農夫たちは心を開くどころか、あれさえ殺せばこのぶどう園の収穫も、ぶどう園そのものも自分たちのものとなる、と言い合って、主人の息子を殺してしまった、というのですね。でも、どうでしょうか。そんなことで農夫たちは農園を自分たちのものに出来ますか。

16彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。…

 農夫たちの思い上がった勘違いと暴力は必ずや罰せられて、ぶどう園はちゃんと管理する他の人に預けられるようになりますね。それは当然のことです[2]

 お気づきのように、このお話しは、イスラエルの歴史の物語です。神様が御自身のお仕事をイスラエルの民にお任せになったのに、イスラエルの指導者たちは自分勝手なことをして神様に逆らってきました。神様は、預言者たちを何度もお遣わしになったのに、イスラエルの民は預言者に聞くことは殆どありませんでした。そして今、イエス様が、神様の愛する息子であるお方が遣わされて語っておられる[3]。でも、祭司長たちは、あれを殺して口封じをしてしまえば自分たちの天下だ、とばかりに、まもなくイエス様を十字架に殺すことになるのです[4]

 でも、ここで言いたいのは、そういう彼らの頑なさへの「警告」ではないのですね。指導者たちの横暴への非難でもありません。

17イエスは、彼らを見つめて言われた。「では

 『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』

と書いてあるのは、何のことでしょう。

18この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」

 ここで言われているのは、イエス様が「礎の石」であるという事です。それも、家の要となるような大きな石(岩)です。その岩にぶつかれば、岩を砕くどころか自分がダメージを受けます。18節は、イザヤ書八14とダニエル書二44-45を組み合わせたものですが[5]、イエス様はご自分が世界の国々を最終的に打ち砕いてしまうお方だと仰っているのです。

 ですから、イエス様はこの喩えで、祭司長たちの罪を非難され、横暴な農夫のようになるな、(「わたしを殺すな」)、と警告されているのではなく、そのような傲慢さを貫いたとしても、最後にはイエス様が栄光を現されること、確実な御力を現されること、指導者たちの手から神の民としての特権が取り上げられて、「ほかの人たち」即ち異邦人に福音が広がっていって、神の御国が展開していく、そのような主の力強い栄光を高らかに宣言されているのです[6]

 この喩えはそのまま事実を準えた寓意ではなく、ルカが今まで伝えてきた、「不正な裁判官の喩え」「不正な管理人の喩え」などと同様、少し極端な話をしながら、まして真の神様は、と説得する類いの喩えです。何よりも13節で農園の主人は、愛する息子を遣わすに当たって、

…「彼らの、この子はたぶん敬ってくれるだろう。」

と期待を掛けます。ですが、天の神である主は愛するひとり子イエス様を遣わされるに当たって、「ひとり子イエスならみんな敬ってくれるだろう」という甘い期待は端(はな)からありません。むしろ、イエス様が十字架にかけて殺すほどに憎むことを知っておられます。でも、儚(はかな)い一(いち)縷(る)の望みを掛けた農園の主人でさえ、最後には邪(よこしま)な農夫たちの思い通りになどするわけがないとしたら、まして、真の神がお遣わしになったイエス様に対してどんなに反逆し、殺そうとも、神様のご計画はちっとも損なわれることなく、全ては織り込み済みで、必ず最後には悪人は粉々に散らされ[7]、イエス様は「礎の石」としての御栄光を現される。そう言いたいのです。

 「礎の石」と引用されている言葉は、「隅の頭石」とも訳される言葉で、基礎の部分の大事な土台石のことなのか、それとも、建物の天辺(てっぺん)で全体をまとめる一番肝心で、目立っている石なのか、どちらとも取れるようです。いずれにしても、イエス様は教会にとって「礎(いしずえ)」であると共に「かしら」でもあられます[8]。そしてそれ以上に、もとの詩篇一一八22では続けて、

23これは主のなさったことだ。

 私たちの目には不思議なことである。

と続くのですね[9]。主のなさることは不思議。人の思いを越えて、人間にとっては意外なこととして、神様の業が展開していく。これは、ルカがこの福音書の最初から繰り返しているテーマです。イエス様が十字架の苦しみ、辱めを経て、よみがえり、御業を実現されるお方である。それは余りに意外なことなので、弟子たちも最後まで気づききれないのですが、でも、その逆説的な御心に気づくようにと、イエス様は繰り返して、最後まで語っておられるのですね[10]。弱く、小さな、ひねり潰せるような形でイエス様はおいでになるのですが、それを当局が十字架で殺してしまっても、そこからイエス様のよみがえりと栄光の御業が展開しています。今も私たちに、苦しみや辱めや死が臨む時の励まし、支え、希望を与えてくれるのです。

 アドベント第二週に、天の主が私たちに愛するひとり子を送ってくださったことを覚えましょう。主は私たちに多くの分け前を期待されるのではありません。ただ全てが私たちのものではなく、主のものであって、私たちはお預かりしている管理人であることを思い出させて、主への感謝と賛美をもって生きることがまず大事なのです。その事を忘れて、自分の思いや人間の力が全てだと思って生きていることは何と殺伐として、味気ないことでしょう。

 でも、神が世界も仕事も収穫も、私たちのすべてを治めておられるのです。その主との正しい関係に私たちを生かすために、ひとり子イエス様をお遣わしになり、貧しく低く、十字架への道を歩ませてくださいました。それほどに、主は私たちを愛しておられ、私たちの歩みに御栄光を現そうとしておられます。人が神も正義も希望も捨て去ってしまっても、そこからさえ、主の尊いご計画が前進していく。そんな力強く尊い約束を与えられて、私たちは歩んでいます。

 

「私共を見つめて、主の不思議な御栄えをお語りなさる、その眼差しに気づかせてください。あなた様の作られた素晴らしい宇宙、大地の成長と収穫の奇蹟、クリスマスの測り知れない神秘、そして十字架と復活。その中で生きる小さな私たちも、あなた様の愛とご計画とを信じて歩む者としてください。砕かれるべき所は砕かれて、朽ちない希望と信仰を持たせてください」



[1] 二一29「それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。30木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。31そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。」 これも「たとえ」ですが、「良きサマリヤ人」や「放蕩息子」のような物語(ナラティブ)とは区別して、「例え話」ではないと考えるなら、今日の箇所が最後の「例え話」です。

[2] ここまで、「不正な管理人のたとえ」、「ミナの喩え」でも繰り返されてきたモチーフ。主人の遠出、留守中の管理、決算の提出。そして、「16ほかの人たちに与えてしまいます」は、十九24以下を思い出させます。

[3] この言葉は、ルカでは三22「あなたはわたしの愛する子、わたしは、あなたを喜ぶ」とここのみです。

[4] また、この話はある面、前回の続きです。ユダヤの祭司長、律法学者たちがイエス様に、何の権威で、宮の商売人を追い出したり、民衆を教えたりしているのか、と問い質したのですが、今日の所でイエス様は実は非常に率直にあの答えに答えていらっしゃるのです。

[5] イザヤ八13「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。14そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり落とし穴となる。」。ダニエル二34「あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。35そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。」その解釈が、同二44「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。45あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」

[6] 前回は、私たちの側から見た物語(ナラティブ)を。今回は、神の側からの物語。ご自分を与え尽くすとともに、必ず最後には勝利される。

[7] 使徒二36「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(新共同訳)。これは、教会を滅ぼそうとしていたころのサウロに主が言われたとおりです。「とげのついた棒を蹴るのは、あなたにとって痛いことだ」(使徒二六14)

[8] エペソ書二20「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」また、同一22「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」五23「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、…」

[9] この詩篇の言葉は、(マタイ、マルコの)平行記事以外に、使徒四11、Ⅰペテロ二7でも引用されています。初代教会の頻用聖句と言えるでしょう。

[10] ルカ二四25-26、など。

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申命記四章15~31節「あなたの神、主は、あわれみ深い神」

2014-12-09 10:32:21 | 申命記

2014/12/07 申命記四章15~31節「あなたの神、主は、あわれみ深い神」

 

 ここで繰り返して強調されているのは、16節で、

 堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。…

と言われている、偶像崇拝の禁止です。人や動物、また空の星々、どんなものを拝んでもならない、と繰り返されています。先月お話ししたように、神である主は目には見えないお方であり、また、契約の言葉を下さって、私たちがその御言葉に従うという、人格的な関係を造られるお方だからです。そこに、私たちが、御言葉を聞き、従うよりも、もっと手っ取り早い手段として偶像を持ち込むことが決してないように、と厳しく繰り返されているのです。真の神様を捨てて、偶像を拝むということは勿論御法度(ごはっと)ですが、真の神である主を礼拝しながら、そこに見える形を持ち込むことであっても、厳しく禁じられるのです。

20主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のようにご自分の所有の民とされた。

 苦しみの地、「鉄の炉」と表現されるようなエジプトの奴隷生活から連れ出してくださいました。力強い御業が確かに行われたのです。そして、彼らは主の「所有の民」とされたのです。主のものとされ、主が彼らをご自身のもの、大切な宝、かけがえのない「わが民」としてくださいました。イスラエルの民は、もはや自分たちが主の「所有の民」とされている事実、自分たちの所属、国籍を神に持っていることを忘れてはなりませんでした。21節22節でモーセは、自分がヨルダン川を渡れないことをまた持ち出しています。その最後に、

22…しかしあなたがたは渡って、あの良い地を所有しようとしている。

 これが言いたいのですね。主があなたがたを「所有の民」としてくださった、その事実に基づいて、あなたがたは良い地を所有させて戴こうとしている。私はそこに行けないが、あなたがたは所有しようとしている。それが決して当たり前ではなく、主の憐れみによる恵みである事を覚えていなさい、と言われているのです。覚えよ、忘れるな、です。

23気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令に背いて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。

 主の契約を忘れることが、彫像を造る誘惑に直結するのです。そうでないと、

25あなたが子を生み、孫を得、あなたがたがその地に永住し、堕落して、何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪を行い、御怒りを買うようなことがあれば、

 つまり、神様から与えられた所有の地で、長生きして家族も増えて繁栄しているうちに、その生活で偶像を造ることになる。神様からの祝福や恵みでさえも、そこから偶像を造り出す罠に掛かってしまうのです[1]。けれども、モーセは厳しく言います。

26私は、きょう、あなたがたに対して、天と地とを証人に立てる。あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅び失せる。そこで長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされるだろう。

 厳しいことです[2]。でも、それは恐ろしい最後ではないのです。その後に何とありますか。

27主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。

28あなたがたはそこで、人間の手で造った、見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々[何も出来ない、文字通りの「木偶の坊」]に仕える。

29そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。

30あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち帰り、御声に聞き従うのである。

 なんという神様の大がかりなご計画でしょうね。厳しく罰せられて、自分たちの浅はかさを思い知った末、ようやく自分たちの間違いに気づいて悔い改めるときに、その時、そこで、主に会うのです。主がその外国の地にもおられて、彼らに会ってくださるのです。そして、主に心から立ち帰って、御声に聞き従うようになる。それが、主の約束なのです。

31あなたの神、主は、憐れみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。

 恩知らずの末路なのですから、罰して滅ぼして見捨ててもいいのに、そうはなさらないで、その罰もまた、彼らが立ち帰るためであって、そうしてボロボロになっての立ち帰りを主は受け入れてくださるというのです。これが、主の憐れみ深さであります。

 ここには、聖書の物語の要約があります。天地を造られた神様は、天と地の全てを通して栄光を現しておられます。このお方を(このお方だけを)無条件に礼拝することは、すべての被造物にとって当然のことです[3]。神の民は、本来の神様との人格的な関係-神が御言葉を与え、民が心から聞き従うという契約関係-へと召された民です。しかし、人間はまだ神様の栄光や御真実に鈍感です。まだ神を利用したり、自分が神を所有したり捨てたり出来るかのように思う罪人です。だから、主の御業を忘れずに思い起こし続ける必要があります。御言葉に聞き続けることが大切です。目の前の出来事や不安などに惑わされて神ならぬものに縋(すが)ったりしないことが、私たちにとって必要です[4]。けれども、私たちが御言葉に単純に信頼せず、偶像とか御利益とか様々なものを持ち込んで、どうしようもなくなったとしても、その末に、主は私たちの心を取り戻し、深い悔い改めに至らせて、この憐れみ深い神様ご自身を心から愛し、求め、崇めるようにしてくださる。そこに神様の御心があり、これが神の民の物語です。そして、私たちの歩みもその大きな物語の中の大切な一ピースとしてここにあるのです[5]

24あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神…

 真の偉大な神、憐れみ深い神を、何にも出来ない偶像と取り替えてしまうだなんてことには、神は聖なる炎となり、妬むと言われる程の激しい情熱をもって怒られます。それほど私たちは愛されています。その神の深い憐れみの中で、私たちは導かれ、取り扱われ、この神様との生き生きとした交わりに立ち帰る途中にあります[6]。アドベントは、主がおいでになった事実を忘れないための時です。神なる主が、私たちのために、栄光の御座から貧しく低い人となってくださいました。それほどに私たちを愛してくださった主は、今も、決して私たちを捨てたり滅ぼしたりはなさいません。何があろうとも、この神に並ぶような救いはないのですから、偶像や幻は一つ一つ捨てて、悔い改めましょう。御言葉を信じましょう。私たちのために人となり十字架に死なれた主イエスの御真実に立ち帰り、主との親しい交わりに生きましょう。[i]

 
「あなた様が天地を造り、御業をなされ、民を救い、ご自身が十字架にかかり、よみがえられた、これ以上に確かなことはありません。どうぞその御真実によって、私たちを虚しいものからお救いください。今からパンと杯を戴き、贖いの御業を思い起こします。主の聖なる御愛が世界を導いています、その物語の中で、私たちの歩みも痛みもあることを感謝させてください」


[1] ここには、祝福さえも、それ自体が求められるときに、偶像崇拝の罠となる面が明らかです。それは、十戒の第十戒で「ほしがってはならない」と言われること、そして、パウロが「むさぼりがそのまま偶像礼拝なのです」(コロサイ三5)と指摘していることにも通じます。民が、豊かさを神以上に愛するなら、かならずそこには何らかの偶像崇拝が起きますし、そもそも民の中にはどんな祝福さえ自分にとっての毒としかねない不信仰の罪があるのです。そこが取り扱われ、解決されない限り、民の前途は安心できません。

[2] 16、25節「堕落」は、ホレブはもちろん、ノアの時の堕落をも彷彿とさせます。大洪水の破滅を招いた堕落でした。この「堕落」は、31節で「滅び」と訳されているのと同じ語です。創世記六章でも、11-12節「堕落」は、17節「滅ぼす」と同じ語です。民が堕落したため、主は民を滅ぼさざるをえません。同じ「言葉遊び」です。

[3] 私たちが神を礼拝する理由は、ひと言で言えば、神が神であられるから、に他なりません。ですから、不幸が襲おうと、神ならぬものがその礼拝を禁じ妨げようと、教会に問題や気に食わぬこと(人)が存在しようと、いっさいの「理由」は、神礼拝をしない理由にはならないのです。勿論それは、日曜の礼拝に会堂へ来る、という礼拝だけではありません。普段から、神を礼拝し、神ならぬものを礼拝しない、という全生活の礼拝です。

[4] 「私たちにとって」と言うのは、神様が怒るからダメだ、なのではないからです。

[5] 「イスラエルの歴史は、神との契約関係に生きる歴史である。この点から、イスラエルの全歴史が大きく見通される(25-31)。イスラエルの歴史を通し、「ねたむ神」(24)としてのきよさと、イスラエルの回復(2930)に現される「あわれみ深い神」(31)としてのあわれみが示されて行く。神のきよさとあわれみ、神の民の従順と不従順に基づく、さばきと回復のドラマの展開。これこそ、申命記を、そして聖書全体を貫く歴史展開である。」宮村武夫『申命記 新聖書講解シリーズ』38-39頁。

[6] これは、個人的なことである以上に、神の民の大きな歴史を視野に入れてのことである。創造、族長、出エジプト、そして、捕囚や帰還、さらにキリストの受肉と十字架と復活、終末という大きな流れで語られている。その物語の中に私たちがある。私たちの人生だけで成就したり結論したりは出来ない。近視眼的に考えないこと。そうしないと、目の前のことで一喜一憂し、それこそ偶像に飛びついてもしまう。見えることをすべてとしないこと。今目の前で起きていることよりも、神が世界を創造され、贖いの御業をなさり、聖書に書かれている栄光ある業を確かになさったことのほうが、遥かに大事である。そして、やがて、すべては完成するのである。今、苦難が起きるとしても、それは、私たちが真の神への心からの礼拝に立ち帰るためである。

[i] ここで「水の魚の形をも」と言われています。他の、人間や家畜や天体を象った偶像は、エジプトやパレスチナにおいて発掘されていますので、そうした偶像を作ることを繰り返さないよう言われていると理解されますが、「魚」の偶像だけは発見されていないそうです。とすると、これは、あり得ない先のことまで見越しての注意でしょう。しかし、日本には「鰯の頭も信心から」という言葉があります。あり得ないことを仮定しての警告が、現実になっているのです。ここで述べられているような、全能・真実・支配・憐れみの神と、鰯とを並べてしまうとは何と愚かで冒涜的なことでしょうか。しかし、それが人間の姿です。けれども、その人間をご自身への人格的な信頼へと、強いてでも引き戻して下さることに、主のご計画・御心・御業があるのです。

 
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ルカ20章1~8節「わたしも話すまい」

2014-12-06 17:20:09 | ルカ

2014/11/30 ルカ20章1~8節「わたしも話すまい」

 

 今日の箇所から21章まで、イエス様が神殿で交わされた、いくつかの討論が記録されています。その最初が、今日のイエス様の「権威」を巡っての論争ですが、ここだけでなくどこでもイエス様は、当然、反対者たちの難題にも揚げ足を取られることなく、論破されるのです。でも、それは頓知(とんち)や詭弁(きべん)で「上手いこと切り抜けられた」という話では決してないのです。相手の攻撃をただやり込めるだけでもなくて、そこから本当に大切なことを私たちにも教えて下さっているのだなぁ、とご一緒に覚えたいと思うのです。

 宮で教えておられたイエス様の所に、祭司長、律法学者たちが長老たちと一緒にやってきて、

 2…「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」

と詰め寄ったのです。この人々は、ユダヤの最高議会の構成メンバーですから、議会としての調査、質疑、告発でもあったでしょう。また、宮の商売人たちを追い出し、宮で教えておられるのは、大祭司は勿論、議会の承認も得ずにやっていたのでしょうから、そういう意味でも「何の権威によってか、だれがその権威を授けたのか」と聞いたのです。

 これに対して、イエス様はこのように返されます。

 3…「わたしもひと言訪ねますから、それに答えなさい。

 4ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」

 この「ヨハネ」はイエス様のおいでになる少し前に、イエス様の先触れをするために、荒野で説教をした人です。ルカは、このヨハネのことも、イエス様のおいでを告げ知らせる大切な存在として、最初から詳しく記しています。その彼の登場を、ルカはこう言います。

三3そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。

 この「洗礼者(バプテスマの)」ヨハネの説教の中心は、まもなく、神が約束されていたメシヤがおいでになること、そして、そのお方をお迎えするために、全ての人が自分の罪を告白して、悔い改め、洗礼(バプテスマ)を受け、生活を改善しなさい、という事でした。そして非常に大勢の人が彼のところで洗礼を受けたのです。今日のところでイエス様は、そのヨハネのバプテスマについて、

 4ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」

と持ち出されます。これに対して、

 5すると彼らは、こう言って、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。

 6しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。」

 7そこで、「どこからか知りません」と答えた。

となるのです。彼らは、ヨハネの洗礼の権威を問われて、答に窮してしまいます。天から(神から)と言えば、自分たちが信じなかったことが責められるし、その権威を認めず人間的なものだったとしてしまえば、ヨハネを信じている民衆から、神を冒涜していると石打ちにされるだろう、とどっちだとも言えなくなるのです[1]

 でも、イエス様は、そういう彼らにとっての答えにくい質問をされて、ご自分についての質問にも答えなくて済むように逃げられたのではありません。決して、そういう「知恵比べ」をされたのではないのです。ヨハネの権威を認めたくない彼らに、ご自分の権威が神からだといった所で、彼らはそれをもやはり、信じようとしないし、ただ言質を取ったと喜んで、イエス様を捕らえようとするだけでしょう。そういう相手に-ただ敵失を願っているだけの相手に-、真面に答えても意味がないのです。イエス様は、ご自分の先駆けで会ったヨハネの権威にさえ素知らぬふりを通したあなたがたではないか、と彼ら自身の問題を突き返されました。

 5…「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。

と最初に言ったのですから、彼らの中に、ヨハネの洗礼が神から来たことであり、自分たちもヨハネを信じるべきだった、という自覚は薄々あったのでしょう。それなのに、彼らは信じようとはしませんでした。信じるべきだと分かっていても、信じたくないもの(信じると都合が悪いもの、悔い改めや変化、手放すことを要求してくる厄介なもの)は信じないのです[2]

 イエス様はこの時、宮をきよめて、商売や伝統よりも大切な祈り・礼拝の回復を訴え、

 1…宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられ…

ました。民衆はイエス様の権威を認めています[3]。祭司長や律法学者たち、長老も、その言葉が聞こえていたはずです。でも、彼らは耳を塞ぎました。非を認めず、甘い特権を手放さず、神の御国の訪れに自分を明け渡すことを拒んで、イエス様をやり込めようとするだけです。

 この祭司長や律法学者、長老たちが不信仰で、がめつくて、腹黒い敵だから悪いのだ、と考えたら間違ってしまいます。彼らは、神殿を忠実に守り、礼拝を指導し、宗教を生(なり)業(わい)としていました。聖書の知識を持ち、民を教え導いていました。その彼らが、ヨハネの説教に知らんぷりをした非を、ここまで分かっているのに認められないのは何故でしょう。頭を下げられない。「間違っていました」と言えない。今更、そんな格好悪いことが出来るか…。そんな小さな拘(こだわ)り、詰まらないプライド、意地ではないでしょうか。でもそのせいで彼らは、イエス様が差し出される「福音」を聞くことが出来ません。イエス様の権威を、認めるためではなく、亡き者とするために問答を仕掛けるだけです。でもそれは結局、自分たちの首を絞めることです。人が滅びるのは、福音が分からないから、よりも、案外もっと些細な、自分を変えたくない、悔い改めたくない、ゴメンナサイが言えない、詰まらない意地なのではありませんか。キリスト教や教会の揚げ足を取ろうとか、「知りません、分かりません」と言って逃げておこうとか、そんな狡(ずる)さが昔も今も、多くの人たちをも縛っているのではないでしょうか。

 勿論、私たち(私自身)、そんな見栄とかプライドがあって、ヘンに意地を張ってしまう者です。礼拝に来て、聖書を知って、悔い改めを口にしていてさえ、なお、自分が中心になってしまいます。人に対しても、自分が言われたくない余計な言葉を言ってしまう人間です。それでも私たちは、イエス様の権威を認めて、悔い改めて、今ここにいます。福音を信じ、自分をイエス様に委ねさせて戴いています。これは、なんと大きな奇蹟かと、今日の所から逆に思わされるのです。イエス様に私を変えて戴きたい、自分の拘りでは自分は救えないのだ、と腹を括って、イエス様を信じさせていただいた事。私たちが福音を求めてここにいることが、決して当たり前ではないのです。主が与えてくださった、尊い恵みです。これからも、その恵みによって頑固さを砕かれて、イエス様の権威を自分の全人生に認める者に変えて戴きましょう。

 

「世に来られた主が、私共の人生に踏み込まれ、私たちの願いや安全を脅かされる時、その時こそ、私たちが主権者なるあなた様と出会う時に他なりません。礼拝や信仰がおざなりなものではなく、自分を素直に明け渡すことでありますように。詰まらない意地を張り、口で傷つけ合う私共ですが、自分を手放すことによる祝福、自由さ、限りない喜びに与らせてください。」



[1] 「石で打ち殺すだろう」は、ルカだけの挿入です。「石打」に処されるのは、神冒涜などの重罪です。使徒の働きでは、ステパノに適用されたあの罪が、ここでは恐れられています。これは、暗に、イエス様の権威の重さを感づいていたことを物語っています。しかし実際には、後のサンヘドリン裁判では、主イエスはご自分の権威を証しされるのですが、議会はそれだけで、「冒涜だ」とします。ただし、議会は自分たちがイエス様を死刑(石打)にして民衆の非難を受けることを避けて、ローマの裁判に引き渡します。

[2] すでにイエス様については「四32人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。…36人々はみな驚いて、互いに話し合った。「今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。」」と述べられていました。つまり、すでにイエス様の公生涯の最初から、主の言葉の権威は立証済みでした。しかし、その権威の出所を口にすることで言質を取ろうとしただけです。この箇所は、「イエスの権威の出所」がテーマなのではなく、その明らかな権威を受け入れようとしない、民の指導者の側の問題を取り上げています。

[3] しかし、イエス様は、民衆の支持に頼ったり、そこに権威の根拠を置いたりしてはおられません。むしろ、彼らの裏切り・遺棄を見据えておられます。このことも、指導者たちとの著しい対称をなしています。

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問29「聖霊により」テトス三章9節

2014-12-06 17:17:42 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/11/30 ウェストミンスター小教理問答29「聖霊により」テトス三章9節

 

 イエス・キリストは、私たちのために、預言者・祭司・王としての務めを果たしてくださいます。それについては、六回ほどかけてお話しして来ましたので、今日はその続きです。

問 私たちはどのようにして、キリストによって買い取られた贖いにあずかる者とされるのですか。

答 私たちは、キリストによって買い取られた贖いが、彼の聖霊により、有効に私たちに適用されることによって、その贖いにあずかる者とされます。

 イエス様が、私たちのために果たしてくださった救いの御業は、大きな、素晴らしい御業ですが、私たちはどうやって、その贖いにあずかることが出来るのでしょうか。

 ある人たちは、こう言います。「イエス様は、この世にお生まれになり、十字架にかかられ、三日目によみがえられて、素晴らしい救いを果たしてくださった。だから、後はそれを聞いた私たちが、信じる事で、その救いにあずかるのだ。福音を聞いて、それを信じるかどうかは、人間次第だ。そして、その福音を他の人に教えてあげるのも、私たちの務めだ。折角のすばらしい福音が無駄にならないように、あとは人間が、がんばらなければいけないのだ」。それはそれで、もっともなようです。けれども、聖書が教えるのは、それだけではありません。

  私たちは、キリストによって買い取られた贖いが、彼の聖霊により、有効に私たちに適用されることによって、その贖いにあずかる者とされます。

 聖霊が私たちに、贖いを届けてくださるのだ、と言っていますね。次の、問30で、聖霊が私たちのうちに信仰を起こして、キリストに結びつけてくださるとか、問31で、罪を自覚させて、悔い改めさせ、キリストへの信仰を持たせてくださる御業だ、と詳しくなります。今日は、そういう「どうやって」「どのような」適用なのか、はさておくとして、聖霊により、ということに絞ってお話ししましょう。つまり、イエス様は救いの御業だけ完璧に、素晴らしく果たされただけでなく、それを伝えたり、私たちが信じたりすることが出来るように、最後まで私たちに贖いの御業を届けてくださる、ということです。それが、聖霊のお働きです。キリストは、ご自身の聖霊によって、私たちがその救いにあずかるようにまで、確実に導いて、信仰を持たせて、また、最後までその信仰のうちにしっかりと守ってくださるのです。

 言い換えれば、これは、私たちがキリストの聖霊に助けて戴くことなしに、自分たちの信仰や頑張りだけで福音を信じるとか福音を伝えるのだ、とは思わなくてよい、ということでもあります。今までもお話しして来た事の繰り返しになりますが、本当にこれは大切なことです。イエス様の救いは、私たちが罪の赦しを受けられるようにと十字架にかかってくださって、あとは私たちが信じるだけでいいようにしてくださった、という救いではありません。そこで終わりなら、救いは私たち次第になってしまいます。神様が手を差し出してくださっているから、後は私たちがその手をつかめば良い、というなら安心は出来ません。私たちが手を離してしまえば、落ちてしまうかもしれませんし、私たちは弱かったり、間違っていたり、罪が残っていますから、怖くなったり、疲れたり、ウッカリして手を離してしまうかもしれないでしょう。けれども、イエス様が聖霊によって、私たちをシッカリと捕らえてくださるのです。聖霊が働いて、私たちの心に救いを始めて下さるから、私たちは、自分の罪を認めることも、福音を理解することも、イエス様を信じることも出来るようになるのです。自分が信じること以上に、イエス様を信じることが出来るから、安心できるのです。そして、イエス様が、私たちを贖いの御業に確かにあずからせてくださるのが、ご自身の聖霊によるお働きである、と聖書から教えられるのです。

テトス三4しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現れたとき、

 5神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

 「聖霊」なる神様は、私たちに、神様の御業を働かせてくださいます。これを、私たちの教会はとても大切にしています。でも、ある教会では、聖霊なる神様をとても強調するのですけれど、それは何か私たちが特別な体験をすることだと言います。聖霊が注がれて、体が熱くなったり、痺れたり、不思議な出来事が起きるのが、聖霊の「しるし」だと言うのです。病気の癒やしとか、奇蹟とか、神様の声が聞こえるとか、そういう特別な体験にみんなが酔い痴れるようなことが起きるのが、聖霊の働かれる証拠だというのです。けれども、私たちは、聖霊なる神様が「キリストの御霊」であることを強調します。イエス様の救いとは別に、あるいは、聖書のお言葉とは別に、聖霊に満たされる恵みがあるのではありません。聖霊は、イエス様の贖いを私たちに届けてくださるお方です。聖書の言葉が分かるようになるのが、聖霊のお働きです。聖霊とは眼医者のようなお方です。眼医者に行くのは、眼医者さんと仲良くなるためではなく、目がハッキリ見えるようになるためです。私たちの心の目は、罪のために塞がれていて、福音が分からず、イエス様の事もサッパリ分かりませんでした。しかし、聖霊のお働きによって、今までふさがれていた心の目が、ハッキリ見えるようになって、イエス様が分かる、福音の世界が見えるようになる。聖霊はそのようにしてくださるのです。勿論、見えるだけではなく、その中で生きることを励まして、生き方全体を新しくしてくれます。イエス様のお約束、神様の御心に従うようにと教えてくれます。それが、

…聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

と言われている、聖霊の豊かなお働きです。イエス様の預言者、祭司、王としての御業は、聖霊によって確実に届けられて、私たちは新しくされる途中にあります。神様が働かれるなら、もっと派手に、スゴいことが起きて、神様の声が聞こえる方が手っ取り早い気がします。でも、目覚ましいことは起きなくても、毎日イエス様に祈り、聖書を開き、悩んだり迷ったりしながらイエス様を信じて行くそういう歩みにこそ、見えない聖霊が働いておられます。大事なのは、どんなことが起きるかよりも、イエス様が贖いの御業を果たしてくださった事実であり、それに私たちがあずかることだからです。

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