2014/12/14 ウェストミンスター小教理問答30「信仰を起こし、キリストに結びつけ」
Ⅱテモテ一章9-10節
世界にはあれこれ宗教がありますが、キリスト教と他の宗教の違いをひとつ挙げるなら、どの宗教も人間の努力や条件を強調するのに対して、キリスト教は神様の完全な恵み、人間の努力に関係なく働く神様の御業を信じていること、だそうです。イエス様の十字架と復活の救いが素晴らしい、というだけでなく、その福音が、私たちに届けられ、私たちに適用されるのも、聖霊なる神様の完全な恵みのお働きです。では、聖霊は、私たちにどのようにしてイエス様の贖いを届けてくださるのでしょうか。それが、今日の問30です。
問 御霊は、キリストによって買い取られた贖いを、どのようにして私たちに適用されるのですか。
答 御霊は、私たちの内に信仰を起こし、そのようにして私たちを有効召命においてキリストに結びつけることにより、キリストによって買い取られた贖いを私たちに適用されます。
「ユウコウショウメイ」という難しそうな言葉が出て来ますが、これは次の31で説明されますから、また来週にします。今日の問30に出て来るところに集中します。
…私たちの内に信仰を起こし、…キリストに結びつけることにより、…
これですね。これが肝心です。贖いを私たちに適用されるのは、なんでもかんでも、じゃない。信仰がなくても、勝手に生きていても、救われるんだ、ではないのです。
中には「神様に選ばれていれば救われるんだったら、私が信じなくても救われるんじゃないか」と言う人もいます。そうであれば、福音を信じなくても、そのために苦労しなくても、教会にも行かなくたって、どうせ最後には救われるのだから大丈夫だ、というのです。教会の中にも、「私たちが伝道しなくても、救われる人は必ず救われるのだ、だから、何かを犠牲にして伝道に出かけるなんて、そんな面倒くさくて大変なことはしなくてもいい」と堂々と言っていた時代もありました。そういう人のために、今日の問30はあります。御霊が私たちにキリストの贖いを適用されるのは、信仰がなくても救われるのではありません。私たちの内に信仰を起こして、キリストに結びつけてくださるのです。聖霊が私たちに福音を適用してくださるのなら、その人のうちに信仰を起こさないはずがないのです。もし、信仰を持とうとしないなら、それでもその人が救われるかどうか、と考えるのではなく、聖霊がその人に働いてくださって、信仰を持たせてくださるようにと願うべきです。
また、その逆に「救われたくて、信じたいと思っても、選ばれていなければ救われないのなら、どうしようもない」と言う人もいます。しかし、これも誤解です。なぜなら、選ばれていなければ、救われたい、イエス様に救って戴きたい、自分の罪を赦してもらい、清い心を与えられたいと願う事自体、出来ないのですから。救われたいと願うなら、その願い自体が自分の中からではなく、神様から与えられた恵みに他ならないことを恭しく受け入れて、イエス様を信じて、聖霊のお働きに感謝すればよいのです。
また、ここには、
…私たちの内に信仰を起こし、そのようにして私たちを有効召命においてキリストに結びつけることにより、
とありますね。信仰は、ただ私たちが「イエス様が救い主だと信じます」と信じるだけのことではありません。聖霊は私たちに信仰を起こすことによって、私たちをキリストに結びつけてくださるのです。離れた所で、バラバラなまま、信じますとか、あなたの罪を贖った、と言っているだけではないのです。聖霊が届けてくださる救いは、私たちをキリストに結びつけて、目には見えませんが、何よりも確かな絆で永遠に結ばれたものとなって、私たちを新しくするのです。私たちが救われて、キリストに結びつけられるということは、私たちの知識だけではなく、私たちの心、人生そのものを根底から変えることです。性格や顔かたちや個性が変わるということではありませんよ。むしろ、それまでは、自分を人と比べたり、「あの人のようになれたらいいのになぁ」と思っていたのが、「私がこのままで神様に造られたかけがえのない私なんだ。この私のために、イエス様は贖いの業を成し遂げてくださったのだ」と信じて、本当に自分らしく生きることです。それは、私たちのうちに自信や情熱をもたらします。そして、このイエス様の福音のために生きようという願いを起こさせます。自分の生活や地位を犠牲にしてでも、世界に出て行ったり、貧しい人に仕えたりする人がたくさんいます。それは、聖霊が私たちのうちにキリストの贖いを適用してくださる変化です。
Ⅱテモテ一9神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、
10それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかにされました。
このキリストに結びつけられることがなくして、救われるとか死や滅びを免れるということを聖書は教えません。もともと人間が、神様に結びつけられて、神様との交わりに生きることこそが本来のあり方でした。また、そこから離れて自分勝手に生きてきた人間が、その罪を赦して戴いて、もう一度、キリストに結びつけられることが「救い」なのです。「選ばれていれば、信じなくても、キリストに結びつけられなくても救われる」? それは、何という勘違いでしょう。救われるとは、キリストを信じること、キリストに結びつけられることです。そうして、キリストに結びつけられるなら、私たちは、どうでもよいものに囚われることから自由になり、この方を伝えるためなら何を犠牲にしても惜しくはなくなり、世界の果てまで行くことも厭わないような、そんな情熱と喜びを持つようになるのです。聖霊が私たちに適用してくださるのは、ただの救い以上のこと、私たちの人生を生き生きと輝かせて、キリストとともに歩ませるためです。