聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ギデオン徳島支部クリスマス感謝の集い 説教

2014-12-20 13:16:39 | 説教

2014年12月6日(土)ギデオン徳島支部クリスマス感謝の集い 説教

ルカの福音書二章1~20節「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」

 

 「クリスマス感謝の集い」にお招きいただきまして、説教する特権を与えられて、感謝しています。ネタばらしになりますが、「みことばを伝えること」というテーマをと指定されました。ギデオン協会ですから当然なのですが、これをクリスマスに絡めるとなると、意外と一筋縄ではいかないのです。今でこそ、教会はクリスマスに、市民クリスマスだ、クリスマスコンサートだ、子どもクリスマスだ、とこの時とばかりの伝道を致します。そして、教会の外の人や、普段教会から離れている人にとっても、クリスマスは教会に来やすいのも事実です。ですが、聖書そのものを紐解きますと、マタイとルカが伝えるキリストの誕生記事には、おおっぴらに伝道するというよりも、むしろ逆に、密やかにクリスマスを祝わざるを得なかった、という雰囲気が貫かれています。

 マタイが伝えるように、マリヤが聖霊によって身ごもった時、夫となる前のヨセフは秘かに婚約を解消しようとしました。マリヤの出産は、余りにもスキャンダラスだったからです。博士たちがお生まれになったイエス様を礼拝した後、夢で告げられたのは、ヘロデに知られないようにこっそり東の国へ帰りなさい、という命令でした。ヨセフとマリヤも、幼子イエスとともにエジプトへ逃げるようにと言われます。その誕生は、大々的に言い広めたりしたら、皆殺しにされかねない脅威だったのです。

 ルカが伝えるのも、イエス様がお生まれになった時、喜ばれるどころか、

 7…彼らのいる場所がなかった…

という、飼葉桶の現実です。そして、その知らせは、ベツレヘムの郊外で羊たちを見守っていた羊飼いたちに対してでした。彼らは、住民登録をする義務からも外され、社会的には劣るとされていた人々です。その人々に、御使いが来て、彼らに言ったのです。

10…「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 ここには、「この民全体のためのすばらしい喜び」と言われています。が、御使いはそれを羊飼いたちに告げることで十分としています。「今日、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」と羊飼いたちに集中しています。そうです。社会の統計の数にも数えられなかったあなたがたのために、救い主がお生まれになりました、と断言するのです。

12あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これがあなたがたのためのしるしです。」

とあるのは、探すのは大変だろうけど、布にくるまって飼葉桶に寝ている赤ちゃんがいればそれで分かりますよ、それが見つけ出すためのしるし(ヒント)になりますよ、という意味ではありません。その、いる場所もなく、貧しく厩(うまや)に寝かせられているお姿に、この救い主があなたがたのためにお生まれになった事実の証しがある、ということです。それが、宿屋の人々やベツレヘムの町中の人ではなく、わざわざ郊外の野原にいた羊飼いたちに届けられた、しるしでした。

 実は、マリヤとヨセフも、いる場所がなかったとあったように、卑しい人、貧しい人たちでした。このルカの福音書は、この後のイエス様のご生涯全部が、そのような貧しい人たちに向けてのものだと繰り返しています。貧しい者、罪人や不品行な女、放蕩息子や取税人として嫌われていたザアカイ、そして、イエス様のそばで十字架にかけられた強盗。そういう人を並べながら、イエス様がおいでになったのが、立派な人や強い人のためではなく、貧しく、自分の惨めさを痛いほど知っているような人のためだと強調されるのです。それを明言するのが、

ルカ十九10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

というイエス様ご自身の言葉です。そのメッセージを、ここで羊飼いたちは聞いたのです。あなたがたのために救い主がお生まれになった、そのしるしが、布に包まって飼葉桶に寝ている赤ちゃんのお姿だ、ということでした。

 この知らせを聞いて、羊飼いたちはベツレヘムに急いで行きます。

16そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。

17それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。

18それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。

 でも、彼らは、みことばを伝えなさい、イエス様のことを伝道しなさい、と言われたから伝道したのではありませんでした。伝えなさい、などと言われていなかったのです。でも、彼らは御言葉を聞いて、従った結果、その約束の通りだったことの喜びの余り、人にもそのことを告げずにはおれなかったのです。

20羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 確かに、この最初のクリスマスに、羊飼いたちは自分たちに伝えられた素晴らしい知らせを受け止めました。それは、本当に素晴らしい知らせでした。何と言っても、自分たちのために救い主がお生まれくださったという素晴らしい恵みでした。

 今日、ここにおられる方に、本当はこんな所に来るような気分じゃなかった、という方もおられるかも知れない。クリスマスのお祝いどころじゃない大変な中にいる方もいらっしゃるかも知れません。そのあなたがたのために、救い主がお生まれになりました。そう言われているのがクリスマスです。状況や気持ちがどんなに孤独で、絶望的でも、人が見捨てても、居場所がなくても、そのあなたがたのために、そこにキリストはご自身、低く低くなって、おいでになって、私たちを取り戻してくださるのです。

 この福音の喜びに、まず一人一人が深く、じっくりと立つことなしに、伝道、伝道と出て行くことは出来ません。この私たちのためにキリストがお生まれになった。そのかけがえのない幸いに心が潤されて、私たち自身が変えられ、喜びに溢れる。それ程の福音を受け取ることから始まるのです。それがおざなりのまま、伝道をしようとすると、自分が信じてもいないことを語ることになります。自分の達成感や充足感のため、伝道して成果をあげようとすることになります。結果が出ないと虚しさや怒りが出て来たり、自分がダメな人間であるかのように思うとしたら、それは、語っているのは福音だけれど、動機になっているのは福音の素晴らしさではなく、福音を装ったこの世的な価値観、成果主義、業績主義、競争心、自己義認だからでしょう。そんな伝道だと、見せかけとか胡麻菓子とか、お金の話が大きなウェイトを占めるようになります。そのようなものに目が眩んでいることこそ、神様の圧倒的な恵みから離れている姿でしょう。それこそは、「失われた」姿です。

 イエス様は、そんな失われた人を捜して救うためにこそおいでになりました。私たちのために、貧しく小さな赤ん坊となって、お生まれになりました。私たちがこの方を、私たちのための救い主のしるしとして受け入れる時、私たちもまた、失われた生き方から、見出された生き方へと立ち戻ります。この世の成果、出世、お金、地位、名誉、影響力や評判、あるいは、伝道とか教会の立場さえも、私たちの心を失わせることがありますが、そんなものを一切持たない赤ちゃんとなることをイエス様は選んでくださいました。それが、私たちのためのしるしです。このお姿に背を向けて、がんばって伝道するのではなく、この驚くばかりの出来事に、本当に私たちが心深く癒やされ、光を与えられて、変えられていくことから始まるのです。

 主の御言葉は、私たちに届けられています。私たちを取り戻す御言葉です。その御言葉の恵みに、いつも導かれていきましょう。主が私たちのうちにも宿ってくださって、御業を始めておられることに委ねましょう。その恵みを私たちの存在ごと携えて、口先や方法論やイベントではなく、私たちの存在が恵みの証しとなることを願いましょう。

20羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 聞いた人たちが信じてくれたとか、何かをすることが出来たからとかではなく、ただ、神の御真実を見たことで、神を崇め、賛美しながら帰って行きました。それ自体が、彼らの大きな変化でした。福音の証しでした。私たちも、今日、神をあがめ、賛美しながら、帰途につく時であれたらと願います。

 

「伝道とは溢れていることです。溢れていれば、存在そのものが伝道なのです」

「主よ、私たちもまた、福音を伝えられました。私たちのために惜しみない愛をもって謙り、尊いあなた様がおいでくださいました。この素晴らしいクリスマスのメッセージを、どうか私たちが慣れることなく、年ごとに初々しく、瑞々しく、聞き続け、恵まれ続けて行けますように。闇や悩みを経る毎に、ますます主の御愛に根ざして、溢れる思いで歩ませていただけますように。そのような私共の言葉と技を通して、御言葉が更にこの地に広まりますように」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014年こどもクリスマスのお話し

2014-12-20 13:14:59 | 説教

2014/12/14 ルカ2章11節

 

 クリスマスは、「キリストのお祭り」という意味です。イエス・キリストのお誕生をお祝いしましょう。そうやって、教会が始めたお祭り。それがクリスマスの始まりです。今は、そんなことは考えなくて、12月になればクリスマスだ、おめでとう、とパーティをしたり、プレゼントを貰ったり、ケーキやご馳走を食べたりしている人が多いです。だから、教会でクリスマスっていうと、「え? 教会でもクリスマスするの? 教会のクリスマスって何をするのかなぁ?」と思って今日来た人もいるかもしれません。折角だから、そういうお友達は、ぜひ知って帰って下さいね。クリスマスは、神様が、神の子イエス様を、私たち人間に贈ってくださった日。イエス・キリストが人間としてお生まれになった素晴らしいプレゼントを、お祝いする日です。それが本当に素晴らしい出来事だから、沢山の人が喜んで、イエス様のお祝いをして、今では世界中で、クリスマスがお祝いされているんですね。だって、みんなの中で今から何百年かしたら、自分の誕生日が世界中でお祝いしてもらえているなんて人いるかな? 世界一有名なキャラクターのミッキーマウスは11月18日、キティちゃんは11月1日だけど、そんなこと知らない人がほとんどでしょう?イエス様以外に、世界中でそのお誕生のお祝いをしてもらっている人なんて、他には誰もいませんね。それは、やっぱりイエス様がお生まれになったということが、何よりも、誰よりも、物凄いことだったから、なんですね。

 キリスト教会にとって、一番大事な本は聖書です。神様が人間に与えて下さった、大事な、大切なことが沢山書かれています。この中に、イエス様のお誕生のことも書いてあります。それが12月25日だった、とは書かれていません。でも、イエス様のお誕生のことが、いろいろと書かれています。今日は、この後で、そのクリスマスのお話しをペープサートでします。だから、お話しは、そちらで見て下さい。それを見る前に、お話しがもっとよく分かるためのポイントを一つ言わせてほしいので、よく聞いて、覚えておいて下さいね。

 それは、キリストのお生まれは、ずーっと前から約束されていた、ということです。聖書で、イエス様が登場するのは、半分よりももっと後です。その後が新約聖書、その前が旧約聖書、と分けられていますけど、イエス様が来られる前のお話しの旧約聖書にも、やがてキリストがおいでになるよ、私たちを助けてくださるお方、本当のよい王様、世界をよくしてくださるお方が来るよ。そういう約束があちこちに書かれているんです。そして、そのお約束を信じて、キリスト様が来てくださいますように、神様のお約束の時が早く来ますように。そんな思いで過ごしていた人たちが、イスラエルにはちゃんといたんです。イスラエルだけではありません。遠い遠い東の国に住んでいた人たちにも、そのことが伝わっていました。そういう人たちが、やがて、イエス様がお生まれになった時に、ある特別なしるしを見たときに、「そうだ、これはきっと、神様が約束されていた王様がお生まれになったに違いない。では、その王様を拝みに行きましょう」と、はるばる遠い国からエルサレムまで旅をしてやって来るのですね。

 また、羊飼いたちにもイエス様のお誕生は知らされますが、羊飼いたちはきっと神様の約束を覚えてはいなかったんだと思います。でも、「きょうダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです」という言葉を聞いた時に、忘れていたお約束を思い出したんです。神様が、救い主を送ってくださるよと仰っていた。そのお方がおいでになったんだ、そう気づいて、この人たちもイエス様を捜しに行くんですね。

 羊飼いたちも東の国の人たちも、ずっと約束されていた神様の言葉を思い出しました。そして、イエス様を拝みにやってきました。神様が、私たちを覚えていてくださったんだ。神様が私たちの王様になってくださるんだ。それが嬉しくて、嬉しくて、イエス様を礼拝したのです。

 神様なんていないって言う人がいます。神様がいるかいないかなんて分からないって言う人もいます。神様がいてもいなくても関係ない、っていう人もいます。でも、クリスマスは、神様は本当にいらっしゃいますよ。そして、私たちの所に、神の御子イエス様が今から二千年前に本当に来てくださったんですよ。そうして、今でも神様は私たち一人一人を覚えていてくださいますよ。私たちのそばにいてくださいますよ。私たちの心を明るく照らしてくださいますよ。そう教えている日なんですね。

 それから二千年、たくさんの人がイエス様を信じました。自分勝手な悪い心をゴメンナサイと言ったり、とっても悲しい目に遭っても慰められたり、生きていたくないと真っ暗だったのに神様に愛されて生かされている喜びを持ったり、人を助ける生き方をするように変えられたり。ぼくも、今までずっとイエス様に助けられて来ました。イエス様は素晴らしいお方です。だから、イエス様が来てくださったお祝いが、世界中で行われるようになっています。皆さんも、イエス様に出会って、イエス様を信じる素晴らしい喜びを持って欲しいと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問30「信仰を起こし、キリストに結びつけ」 Ⅱテモテ一章9-10節

2014-12-20 13:13:23 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/12/14 ウェストミンスター小教理問答30「信仰を起こし、キリストに結びつけ」

                                                        Ⅱテモテ一章9-10節

 

 世界にはあれこれ宗教がありますが、キリスト教と他の宗教の違いをひとつ挙げるなら、どの宗教も人間の努力や条件を強調するのに対して、キリスト教は神様の完全な恵み、人間の努力に関係なく働く神様の御業を信じていること、だそうです。イエス様の十字架と復活の救いが素晴らしい、というだけでなく、その福音が、私たちに届けられ、私たちに適用されるのも、聖霊なる神様の完全な恵みのお働きです。では、聖霊は、私たちにどのようにしてイエス様の贖いを届けてくださるのでしょうか。それが、今日の問30です。

問 御霊は、キリストによって買い取られた贖いを、どのようにして私たちに適用されるのですか。

答 御霊は、私たちの内に信仰を起こし、そのようにして私たちを有効召命においてキリストに結びつけることにより、キリストによって買い取られた贖いを私たちに適用されます。

 「ユウコウショウメイ」という難しそうな言葉が出て来ますが、これは次の31で説明されますから、また来週にします。今日の問30に出て来るところに集中します。

 …私たちの内に信仰を起こし、…キリストに結びつけることにより、…

 これですね。これが肝心です。贖いを私たちに適用されるのは、なんでもかんでも、じゃない。信仰がなくても、勝手に生きていても、救われるんだ、ではないのです。

 中には「神様に選ばれていれば救われるんだったら、私が信じなくても救われるんじゃないか」と言う人もいます。そうであれば、福音を信じなくても、そのために苦労しなくても、教会にも行かなくたって、どうせ最後には救われるのだから大丈夫だ、というのです。教会の中にも、「私たちが伝道しなくても、救われる人は必ず救われるのだ、だから、何かを犠牲にして伝道に出かけるなんて、そんな面倒くさくて大変なことはしなくてもいい」と堂々と言っていた時代もありました。そういう人のために、今日の問30はあります。御霊が私たちにキリストの贖いを適用されるのは、信仰がなくても救われるのではありません。私たちの内に信仰を起こして、キリストに結びつけてくださるのです。聖霊が私たちに福音を適用してくださるのなら、その人のうちに信仰を起こさないはずがないのです。もし、信仰を持とうとしないなら、それでもその人が救われるかどうか、と考えるのではなく、聖霊がその人に働いてくださって、信仰を持たせてくださるようにと願うべきです。

 また、その逆に「救われたくて、信じたいと思っても、選ばれていなければ救われないのなら、どうしようもない」と言う人もいます。しかし、これも誤解です。なぜなら、選ばれていなければ、救われたい、イエス様に救って戴きたい、自分の罪を赦してもらい、清い心を与えられたいと願う事自体、出来ないのですから。救われたいと願うなら、その願い自体が自分の中からではなく、神様から与えられた恵みに他ならないことを恭しく受け入れて、イエス様を信じて、聖霊のお働きに感謝すればよいのです。

 また、ここには、

 …私たちの内に信仰を起こし、そのようにして私たちを有効召命においてキリストに結びつけることにより、

とありますね。信仰は、ただ私たちが「イエス様が救い主だと信じます」と信じるだけのことではありません。聖霊は私たちに信仰を起こすことによって、私たちをキリストに結びつけてくださるのです。離れた所で、バラバラなまま、信じますとか、あなたの罪を贖った、と言っているだけではないのです。聖霊が届けてくださる救いは、私たちをキリストに結びつけて、目には見えませんが、何よりも確かな絆で永遠に結ばれたものとなって、私たちを新しくするのです。私たちが救われて、キリストに結びつけられるということは、私たちの知識だけではなく、私たちの心、人生そのものを根底から変えることです。性格や顔かたちや個性が変わるということではありませんよ。むしろ、それまでは、自分を人と比べたり、「あの人のようになれたらいいのになぁ」と思っていたのが、「私がこのままで神様に造られたかけがえのない私なんだ。この私のために、イエス様は贖いの業を成し遂げてくださったのだ」と信じて、本当に自分らしく生きることです。それは、私たちのうちに自信や情熱をもたらします。そして、このイエス様の福音のために生きようという願いを起こさせます。自分の生活や地位を犠牲にしてでも、世界に出て行ったり、貧しい人に仕えたりする人がたくさんいます。それは、聖霊が私たちのうちにキリストの贖いを適用してくださる変化です。

Ⅱテモテ一9神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、

10それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかにされました。

 このキリストに結びつけられることがなくして、救われるとか死や滅びを免れるということを聖書は教えません。もともと人間が、神様に結びつけられて、神様との交わりに生きることこそが本来のあり方でした。また、そこから離れて自分勝手に生きてきた人間が、その罪を赦して戴いて、もう一度、キリストに結びつけられることが「救い」なのです。「選ばれていれば、信じなくても、キリストに結びつけられなくても救われる」? それは、何という勘違いでしょう。救われるとは、キリストを信じること、キリストに結びつけられることです。そうして、キリストに結びつけられるなら、私たちは、どうでもよいものに囚われることから自由になり、この方を伝えるためなら何を犠牲にしても惜しくはなくなり、世界の果てまで行くことも厭わないような、そんな情熱と喜びを持つようになるのです。聖霊が私たちに適用してくださるのは、ただの救い以上のこと、私たちの人生を生き生きと輝かせて、キリストとともに歩ませるためです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルカ20章9~18節「礎の石」

2014-12-20 13:10:52 | ルカ

2014/12/14 ルカ20章9~18節「礎の石」

 

 今日はイエス様が、十字架に掛けられる数日前にお話しになった喩(たと)えの箇所です。まだ喩えをお話しにはなりますけれど[1]、ちゃんとまとまったストーリーのある「例え話」としては、ルカが伝える最後の例え話がこのお話しです。イエス様の、多くの例え話の締め括りなのです。

 話の筋は今読んだとおりです。ぶどう園を作った主人が、それを農夫たちに貸して、長い旅に出かけました。数年後でしょう、その分け前を受け取るために、僕(しもべ)を遣わしたけれども、農夫たちは僕を袋叩きにして手ぶらで送り返した。その後も主人は、二度三度と僕を送るのですが、農夫たちの仕打ちはエスカレートする一方で、何も持たせません。しかし、それでも、

13ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』

 そう言って、農夫たちへの呼びかけとして、三度どころではない四度目の使いを送る。ところが、農夫たちは心を開くどころか、あれさえ殺せばこのぶどう園の収穫も、ぶどう園そのものも自分たちのものとなる、と言い合って、主人の息子を殺してしまった、というのですね。でも、どうでしょうか。そんなことで農夫たちは農園を自分たちのものに出来ますか。

16彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。…

 農夫たちの思い上がった勘違いと暴力は必ずや罰せられて、ぶどう園はちゃんと管理する他の人に預けられるようになりますね。それは当然のことです[2]

 お気づきのように、このお話しは、イスラエルの歴史の物語です。神様が御自身のお仕事をイスラエルの民にお任せになったのに、イスラエルの指導者たちは自分勝手なことをして神様に逆らってきました。神様は、預言者たちを何度もお遣わしになったのに、イスラエルの民は預言者に聞くことは殆どありませんでした。そして今、イエス様が、神様の愛する息子であるお方が遣わされて語っておられる[3]。でも、祭司長たちは、あれを殺して口封じをしてしまえば自分たちの天下だ、とばかりに、まもなくイエス様を十字架に殺すことになるのです[4]

 でも、ここで言いたいのは、そういう彼らの頑なさへの「警告」ではないのですね。指導者たちの横暴への非難でもありません。

17イエスは、彼らを見つめて言われた。「では

 『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』

と書いてあるのは、何のことでしょう。

18この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」

 ここで言われているのは、イエス様が「礎の石」であるという事です。それも、家の要となるような大きな石(岩)です。その岩にぶつかれば、岩を砕くどころか自分がダメージを受けます。18節は、イザヤ書八14とダニエル書二44-45を組み合わせたものですが[5]、イエス様はご自分が世界の国々を最終的に打ち砕いてしまうお方だと仰っているのです。

 ですから、イエス様はこの喩えで、祭司長たちの罪を非難され、横暴な農夫のようになるな、(「わたしを殺すな」)、と警告されているのではなく、そのような傲慢さを貫いたとしても、最後にはイエス様が栄光を現されること、確実な御力を現されること、指導者たちの手から神の民としての特権が取り上げられて、「ほかの人たち」即ち異邦人に福音が広がっていって、神の御国が展開していく、そのような主の力強い栄光を高らかに宣言されているのです[6]

 この喩えはそのまま事実を準えた寓意ではなく、ルカが今まで伝えてきた、「不正な裁判官の喩え」「不正な管理人の喩え」などと同様、少し極端な話をしながら、まして真の神様は、と説得する類いの喩えです。何よりも13節で農園の主人は、愛する息子を遣わすに当たって、

…「彼らの、この子はたぶん敬ってくれるだろう。」

と期待を掛けます。ですが、天の神である主は愛するひとり子イエス様を遣わされるに当たって、「ひとり子イエスならみんな敬ってくれるだろう」という甘い期待は端(はな)からありません。むしろ、イエス様が十字架にかけて殺すほどに憎むことを知っておられます。でも、儚(はかな)い一(いち)縷(る)の望みを掛けた農園の主人でさえ、最後には邪(よこしま)な農夫たちの思い通りになどするわけがないとしたら、まして、真の神がお遣わしになったイエス様に対してどんなに反逆し、殺そうとも、神様のご計画はちっとも損なわれることなく、全ては織り込み済みで、必ず最後には悪人は粉々に散らされ[7]、イエス様は「礎の石」としての御栄光を現される。そう言いたいのです。

 「礎の石」と引用されている言葉は、「隅の頭石」とも訳される言葉で、基礎の部分の大事な土台石のことなのか、それとも、建物の天辺(てっぺん)で全体をまとめる一番肝心で、目立っている石なのか、どちらとも取れるようです。いずれにしても、イエス様は教会にとって「礎(いしずえ)」であると共に「かしら」でもあられます[8]。そしてそれ以上に、もとの詩篇一一八22では続けて、

23これは主のなさったことだ。

 私たちの目には不思議なことである。

と続くのですね[9]。主のなさることは不思議。人の思いを越えて、人間にとっては意外なこととして、神様の業が展開していく。これは、ルカがこの福音書の最初から繰り返しているテーマです。イエス様が十字架の苦しみ、辱めを経て、よみがえり、御業を実現されるお方である。それは余りに意外なことなので、弟子たちも最後まで気づききれないのですが、でも、その逆説的な御心に気づくようにと、イエス様は繰り返して、最後まで語っておられるのですね[10]。弱く、小さな、ひねり潰せるような形でイエス様はおいでになるのですが、それを当局が十字架で殺してしまっても、そこからイエス様のよみがえりと栄光の御業が展開しています。今も私たちに、苦しみや辱めや死が臨む時の励まし、支え、希望を与えてくれるのです。

 アドベント第二週に、天の主が私たちに愛するひとり子を送ってくださったことを覚えましょう。主は私たちに多くの分け前を期待されるのではありません。ただ全てが私たちのものではなく、主のものであって、私たちはお預かりしている管理人であることを思い出させて、主への感謝と賛美をもって生きることがまず大事なのです。その事を忘れて、自分の思いや人間の力が全てだと思って生きていることは何と殺伐として、味気ないことでしょう。

 でも、神が世界も仕事も収穫も、私たちのすべてを治めておられるのです。その主との正しい関係に私たちを生かすために、ひとり子イエス様をお遣わしになり、貧しく低く、十字架への道を歩ませてくださいました。それほどに、主は私たちを愛しておられ、私たちの歩みに御栄光を現そうとしておられます。人が神も正義も希望も捨て去ってしまっても、そこからさえ、主の尊いご計画が前進していく。そんな力強く尊い約束を与えられて、私たちは歩んでいます。

 

「私共を見つめて、主の不思議な御栄えをお語りなさる、その眼差しに気づかせてください。あなた様の作られた素晴らしい宇宙、大地の成長と収穫の奇蹟、クリスマスの測り知れない神秘、そして十字架と復活。その中で生きる小さな私たちも、あなた様の愛とご計画とを信じて歩む者としてください。砕かれるべき所は砕かれて、朽ちない希望と信仰を持たせてください」



[1] 二一29「それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。30木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。31そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。」 これも「たとえ」ですが、「良きサマリヤ人」や「放蕩息子」のような物語(ナラティブ)とは区別して、「例え話」ではないと考えるなら、今日の箇所が最後の「例え話」です。

[2] ここまで、「不正な管理人のたとえ」、「ミナの喩え」でも繰り返されてきたモチーフ。主人の遠出、留守中の管理、決算の提出。そして、「16ほかの人たちに与えてしまいます」は、十九24以下を思い出させます。

[3] この言葉は、ルカでは三22「あなたはわたしの愛する子、わたしは、あなたを喜ぶ」とここのみです。

[4] また、この話はある面、前回の続きです。ユダヤの祭司長、律法学者たちがイエス様に、何の権威で、宮の商売人を追い出したり、民衆を教えたりしているのか、と問い質したのですが、今日の所でイエス様は実は非常に率直にあの答えに答えていらっしゃるのです。

[5] イザヤ八13「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。14そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり落とし穴となる。」。ダニエル二34「あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。35そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。」その解釈が、同二44「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。45あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」

[6] 前回は、私たちの側から見た物語(ナラティブ)を。今回は、神の側からの物語。ご自分を与え尽くすとともに、必ず最後には勝利される。

[7] 使徒二36「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(新共同訳)。これは、教会を滅ぼそうとしていたころのサウロに主が言われたとおりです。「とげのついた棒を蹴るのは、あなたにとって痛いことだ」(使徒二六14)

[8] エペソ書二20「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」また、同一22「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」五23「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、…」

[9] この詩篇の言葉は、(マタイ、マルコの)平行記事以外に、使徒四11、Ⅰペテロ二7でも引用されています。初代教会の頻用聖句と言えるでしょう。

[10] ルカ二四25-26、など。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする