2014年12月6日(土)ギデオン徳島支部クリスマス感謝の集い 説教
ルカの福音書二章1~20節「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」
「クリスマス感謝の集い」にお招きいただきまして、説教する特権を与えられて、感謝しています。ネタばらしになりますが、「みことばを伝えること」というテーマをと指定されました。ギデオン協会ですから当然なのですが、これをクリスマスに絡めるとなると、意外と一筋縄ではいかないのです。今でこそ、教会はクリスマスに、市民クリスマスだ、クリスマスコンサートだ、子どもクリスマスだ、とこの時とばかりの伝道を致します。そして、教会の外の人や、普段教会から離れている人にとっても、クリスマスは教会に来やすいのも事実です。ですが、聖書そのものを紐解きますと、マタイとルカが伝えるキリストの誕生記事には、おおっぴらに伝道するというよりも、むしろ逆に、密やかにクリスマスを祝わざるを得なかった、という雰囲気が貫かれています。
マタイが伝えるように、マリヤが聖霊によって身ごもった時、夫となる前のヨセフは秘かに婚約を解消しようとしました。マリヤの出産は、余りにもスキャンダラスだったからです。博士たちがお生まれになったイエス様を礼拝した後、夢で告げられたのは、ヘロデに知られないようにこっそり東の国へ帰りなさい、という命令でした。ヨセフとマリヤも、幼子イエスとともにエジプトへ逃げるようにと言われます。その誕生は、大々的に言い広めたりしたら、皆殺しにされかねない脅威だったのです。
ルカが伝えるのも、イエス様がお生まれになった時、喜ばれるどころか、
7…彼らのいる場所がなかった…
という、飼葉桶の現実です。そして、その知らせは、ベツレヘムの郊外で羊たちを見守っていた羊飼いたちに対してでした。彼らは、住民登録をする義務からも外され、社会的には劣るとされていた人々です。その人々に、御使いが来て、彼らに言ったのです。
10…「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
ここには、「この民全体のためのすばらしい喜び」と言われています。が、御使いはそれを羊飼いたちに告げることで十分としています。「今日、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」と羊飼いたちに集中しています。そうです。社会の統計の数にも数えられなかったあなたがたのために、救い主がお生まれになりました、と断言するのです。
12あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これがあなたがたのためのしるしです。」
とあるのは、探すのは大変だろうけど、布にくるまって飼葉桶に寝ている赤ちゃんがいればそれで分かりますよ、それが見つけ出すためのしるし(ヒント)になりますよ、という意味ではありません。その、いる場所もなく、貧しく厩(うまや)に寝かせられているお姿に、この救い主があなたがたのためにお生まれになった事実の証しがある、ということです。それが、宿屋の人々やベツレヘムの町中の人ではなく、わざわざ郊外の野原にいた羊飼いたちに届けられた、しるしでした。
実は、マリヤとヨセフも、いる場所がなかったとあったように、卑しい人、貧しい人たちでした。このルカの福音書は、この後のイエス様のご生涯全部が、そのような貧しい人たちに向けてのものだと繰り返しています。貧しい者、罪人や不品行な女、放蕩息子や取税人として嫌われていたザアカイ、そして、イエス様のそばで十字架にかけられた強盗。そういう人を並べながら、イエス様がおいでになったのが、立派な人や強い人のためではなく、貧しく、自分の惨めさを痛いほど知っているような人のためだと強調されるのです。それを明言するのが、
ルカ十九10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
というイエス様ご自身の言葉です。そのメッセージを、ここで羊飼いたちは聞いたのです。あなたがたのために救い主がお生まれになった、そのしるしが、布に包まって飼葉桶に寝ている赤ちゃんのお姿だ、ということでした。
この知らせを聞いて、羊飼いたちはベツレヘムに急いで行きます。
16そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
17それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
18それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
でも、彼らは、みことばを伝えなさい、イエス様のことを伝道しなさい、と言われたから伝道したのではありませんでした。伝えなさい、などと言われていなかったのです。でも、彼らは御言葉を聞いて、従った結果、その約束の通りだったことの喜びの余り、人にもそのことを告げずにはおれなかったのです。
20羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
確かに、この最初のクリスマスに、羊飼いたちは自分たちに伝えられた素晴らしい知らせを受け止めました。それは、本当に素晴らしい知らせでした。何と言っても、自分たちのために救い主がお生まれくださったという素晴らしい恵みでした。
今日、ここにおられる方に、本当はこんな所に来るような気分じゃなかった、という方もおられるかも知れない。クリスマスのお祝いどころじゃない大変な中にいる方もいらっしゃるかも知れません。そのあなたがたのために、救い主がお生まれになりました。そう言われているのがクリスマスです。状況や気持ちがどんなに孤独で、絶望的でも、人が見捨てても、居場所がなくても、そのあなたがたのために、そこにキリストはご自身、低く低くなって、おいでになって、私たちを取り戻してくださるのです。
この福音の喜びに、まず一人一人が深く、じっくりと立つことなしに、伝道、伝道と出て行くことは出来ません。この私たちのためにキリストがお生まれになった。そのかけがえのない幸いに心が潤されて、私たち自身が変えられ、喜びに溢れる。それ程の福音を受け取ることから始まるのです。それがおざなりのまま、伝道をしようとすると、自分が信じてもいないことを語ることになります。自分の達成感や充足感のため、伝道して成果をあげようとすることになります。結果が出ないと虚しさや怒りが出て来たり、自分がダメな人間であるかのように思うとしたら、それは、語っているのは福音だけれど、動機になっているのは福音の素晴らしさではなく、福音を装ったこの世的な価値観、成果主義、業績主義、競争心、自己義認だからでしょう。そんな伝道だと、見せかけとか胡麻菓子とか、お金の話が大きなウェイトを占めるようになります。そのようなものに目が眩んでいることこそ、神様の圧倒的な恵みから離れている姿でしょう。それこそは、「失われた」姿です。
イエス様は、そんな失われた人を捜して救うためにこそおいでになりました。私たちのために、貧しく小さな赤ん坊となって、お生まれになりました。私たちがこの方を、私たちのための救い主のしるしとして受け入れる時、私たちもまた、失われた生き方から、見出された生き方へと立ち戻ります。この世の成果、出世、お金、地位、名誉、影響力や評判、あるいは、伝道とか教会の立場さえも、私たちの心を失わせることがありますが、そんなものを一切持たない赤ちゃんとなることをイエス様は選んでくださいました。それが、私たちのためのしるしです。このお姿に背を向けて、がんばって伝道するのではなく、この驚くばかりの出来事に、本当に私たちが心深く癒やされ、光を与えられて、変えられていくことから始まるのです。
主の御言葉は、私たちに届けられています。私たちを取り戻す御言葉です。その御言葉の恵みに、いつも導かれていきましょう。主が私たちのうちにも宿ってくださって、御業を始めておられることに委ねましょう。その恵みを私たちの存在ごと携えて、口先や方法論やイベントではなく、私たちの存在が恵みの証しとなることを願いましょう。
20羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
聞いた人たちが信じてくれたとか、何かをすることが出来たからとかではなく、ただ、神の御真実を見たことで、神を崇め、賛美しながら帰って行きました。それ自体が、彼らの大きな変化でした。福音の証しでした。私たちも、今日、神をあがめ、賛美しながら、帰途につく時であれたらと願います。
「伝道とは溢れていることです。溢れていれば、存在そのものが伝道なのです」
「主よ、私たちもまた、福音を伝えられました。私たちのために惜しみない愛をもって謙り、尊いあなた様がおいでくださいました。この素晴らしいクリスマスのメッセージを、どうか私たちが慣れることなく、年ごとに初々しく、瑞々しく、聞き続け、恵まれ続けて行けますように。闇や悩みを経る毎に、ますます主の御愛に根ざして、溢れる思いで歩ませていただけますように。そのような私共の言葉と技を通して、御言葉が更にこの地に広まりますように」