2014/3/16 創世記三七章 東久留米泉教会「慰められることを拒み ヨセフ①」(#389)
創世記は全部で五〇章ありますが、その最後の三七章以下の部分は、主にヨセフを中心に語られます。これだけを読んでも十分な読(よ)み応(ごた)えがある、波瀾万丈(はらんばんじょう)の話です。この後、ヨセフはエジプトで奴隷となり、無実の罪で囚人にまで身を落とし、そこから一三年後、エジプト王ファラオの夢を解き明かしたことで一挙に大臣の身に上り詰めます。その後、兄たちと思いがけず再会をし…と話は続きますが、今日は初めの三七章に注目しましょう。
ヨセフは、十二人兄弟の十一番目でした。他にも姉たちがいたらしいことは、35節に、父ヤコブのもとに「彼の息子たち、娘たちが」とあることから窺えます。いずれにしても、父は他の兄たち姉たちを差し置いて、ヨセフを溺愛(できあい)していました。実は、ヤコブは成り行きで、妻が四人いたのですが、その中でも一番可愛がった妻ラケルとの間に、やっと授かったのがヨセフだったのです。すでに亡くなっていたラケルの面影を重ねつつ、イスラエルはヨセフを溺愛(できあい)し、彼には仕事をさせず、あからさまに依怙贔屓(えこひいき)していました。
「 3イスラエル[ヤコブのこと]は、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。」
そんな父を見て、他の兄たちは平気でいられたはずがありませんでした。
「 4彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。」
父の寵愛を一身に受けるヨセフに対する兄たちの燻った憎しみの火を煽り立てたのは、他ならぬヨセフ自身でした。甘やかされたヨセフは、世間知らずのお坊ちゃんでした。世界は自分を中心に回っていると思って生きていました。5節から11節には、ヨセフが二つの夢を見たエピソードが出てきます。兄たちの麦の束が、ヨセフの麦束にお辞儀をしたとか、太陽と月と一一の星が、自分を伏し拝んだ、とか。これはこれで、後のヨセフの紆余曲折を経ての生涯に成就することになるのですが、それはまだまだ先のこと。今は、こんな夢を見たなどと言えば、顰蹙(ひんしゅく)を買うのは当然です 。兄たちの気持ちを逆撫(さかな)でする発言を、屈託(くったく)もなくベラベラとしゃべるくらい、非常識な、世間知らずなヨセフでした。
ある日、兄たちがシェケムの地に羊を連れて行ったまま帰って来ないために、イスラエルはヨセフを使いに出します。ヨセフは、例の溺愛のしるしの長服を着て、出かけていきます。シェケムについたものの、兄たちはいませんでしたが、たまたま通りかかった人に聞いたところ、更に北のドタンに行ったと教えてくれましたので、ヨセフは更にドタンまで行きます。飛んで火に入る夏の虫、でした。兄たちは遠くからでも長服のお坊ちゃんを見分けて、ヨセフに対する殺意を燃やします。長男ルベンが、殺すことはない、と制して、身ぐるみはがして穴に投げ込んで懲らしめるだけにしますが、通りかかったイシュマエル人(またはミデヤン人)に奴隷として売り飛ばして小遣いを稼ぐことにしたのでした 。こうして、父に溺愛され、晴れ着を着て仕事もせずに遊び回っていたヨセフは、一瞬にして銀二十枚で買い叩かれて、エジプトに売られて行く奴隷となったのです。
さて、こんな滅茶苦茶な始まりをもたらしたのは何だったのでしょうか。ヨセフが生意気だったから、でもあり、兄たちが憎しみ、妬みに駆られたから、とも言えるでしょう。父イスラエルがヨセフ一人を溺愛したことも原因でした。そして、イスラエル自身、父イサクを騙し、兄エサウを出し抜いて、祝福を奪い取った過去がありました。その竹篦(しっぺ)返しを息子たちから食らった、とも言われます。
またここには、創世記のこれまでを思わせるいくつもの主題が重なっています。創世記二二章では、アブラハムの信仰のクライマックスとして、愛するひとり子イサクを主に捧げたのですが、それとは正反対に、イスラエルはヨセフを溺愛しています 。また、兄たちの妬みが殺意に転じたのは、創世記四章のカインとアベルの記事、兄弟殺しを思い出させます 。そして、その胡麻(ごま)菓子(かし)のために雄山羊を身代わりにしたのは、イスラエルが父イサクを騙すために雄山羊の皮を使ったのにも似ていますし 、そもそも、エデンの園で契約を破ったアダムとエバが、隠そう、胡麻化そうとした姿そのものではないでしょうか。
しかし、もう一つ、ここで気付くことがありませんか。聖書なのに、聖書らしからぬ、という大きな点に気付きませんか。ここには、神様が一度も出てきません。主という言葉も最後まで出てきません。ヤコブの口からも、ヨセフの口からも。勿論、そういう章は他にもたくさんあります。しかし、続きとなる三九章には、主がヨセフとともにおられた、と7回も出て来るのです。やはり、そのギャップは意味深長でしょう。晩年のイスラエルは家畜を沢山飼い、子宝にも恵まれ、可愛いヨセフと幸せに過ごしているように見えました。しかし、一皮むけば、依怙贔屓であり、兄弟たちは憎しみを押さえきれず、一触即発の状態でした。何より、神を呼ぶことを忘れていたイスラエルとその子たちだったのです。 そんな、内実を欠いた家庭が、迎えるべくして迎えてしまった悲劇が、この出来事です。それは慰められることも拒むほどの悲しみでした。衝動的に憎き弟ヨセフを片付けて、溜飲(りゅういん)を下げた兄たちの笑いが止まらなかったのも一瞬のことでした。どこかに行っていた長兄ルベンが戻ってきて、ヨセフのいないのに気づき、着物を引き裂いて慌(あわ)てるのを見て、兄たちも策(さく)を講(こう)じなければならないことに気づきました。そして、雄山羊を屠(ほふ)ってその血に長服を浸し、父のところに持って行きます。事故死、と見せかけたかったのでしょう。冷や汗を隠して、素知らぬふりで、真っ青な顔を演じます。
「33父はそれを調べて、言った。「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ殺されたのだ。」
34ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。
35彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。」
兄息子たちは、自分たちのしでかしたことが父を予想以上に苦しめ、慰めようがない事実に直面します。それでもどうしようもない。今更、実はヨセフは奴隷に売っただけで、などとは口が裂けても言う勇気はない。彼らは、その後ろめたさを抱えたまま、その後二十年以上を引きずることになってしまいます。こんな悲しみを父に与えるつもりではなかったと悔やみつつも、今更事実を白状することも出来ませんでした。そして、こうなってもまだ彼らは、主の御名を呼び求めもせず、主に助けを求めることもしません。
ヤコブ家族の様々な問題-父の依怙贔屓、兄弟間の無神経と憎悪がありました。そして、あの通りすがりの人との出会いという偶然が、暴力的な不幸をもたらすこともある、というのもどうしようもない現実です 。ヤコブ家族が神の御名を呼ばず、神の前に生きることを忘れているという根本的な問題がさりげなく語られています。けれども、実に、これがイスラエル家族の再出発の始まりとされたのです。この取り返しのつかない現実にも主は働いておられ、不思議なご計画を始めておられたのです。あのヨセフの夢の実現へと、遠回りしながらも大きく踏み出していたのです。人間の目には、喪失、暴力、悲惨としか見えないことも、主はご計画のためにお用いになって、人間の理解や予想を遙かに超えた将来を用意してくださいます。それは、ここに表れているヤコブと息子たちそれぞれの罪(不信仰な現実)を取り扱って、暴かれて、砕いて新しくなさるご計画でした。自分の罪の結果を容赦なく突きつけつつ、悔い改めさせ、謙らせ、主の御名を呼び求めさせて下さる、そこにこそ主のお取り扱いがあるのだとヨセフ物語は教えています。それが、私たち、主の民にとっての真の益、恵み、祝福のご計画なのです。
何にもならないとは分かっていても、人生の挫折や暴力や悲劇を、悔やんだり人を恨んだりして振り返らずにはおれないかもしれません。自分の後ろめたさが苦しくて何かを犠牲にしたとしても、埋め合わせられたらと思ったりもするでしょう。しかし、神の子羊と呼ばれる主イエス・キリストご自身が、十字架の犠牲を払って下さいました。私たちの罪を隠すためではなく、そこに私たちのあらゆる恥ずべき、憎むべき罪が告白され、悔い改められ、赦され、清められるために、十字架で主の血が流されました。過去の罪も、握りしめている罪も、思い上がりも、秘めている罪も、すべては主イエスの十字架によって、きよめていただくのです。そして、主は取り返しのつかない現実から、ひとりひとりを取り扱いつつ、新しく、確かなことを始めておられます。そうしてくださる主を知ることによって、私たちは後ろを振り返ることから、前を向いて、歩み出すことが出来るのです。
人生が様々なものを失い、思うままにならない、という現実は変わりません。ヨブが言ったとおり、私たちは裸で母の胎を出て、また裸で死ぬのです。人生は厳しく、困難です。色々なものを失ったり手放させられたりの地上です。けれども、その困難を通して主が私たちを変えて、神様の御真実な栄光を拝させてくださるのです。主が私たちを愛する故に、厳しいけれども御真実なご計画をもって取り扱い、新しくして下さる御心を、謙虚に受け入れ、委ねたいと思います。そして、私たちが苦しむ以上に、主イエスご自身が先立って苦しみ、痛み、いのちを捨てて下さった、尊い十字架の苦難を絶えず仰ぎたいと思います。その御愛を繰り返し噛みしめながら、主の時の中で変えていただきたいと願います。
「世界の創造主である神様。あなた様の人間に対する尊いご計画、私たちとの聖なる交わりの完成という目的は、今も変わることなく、御子イエス・キリストの十字架と復活の御業を通して成し遂げられます。また、聖霊が私共一人一人に、この救いを届けてくださることによって、始まっており、果たされていくことを信じます。私共の隠れた思いが取り扱われるために、私共は様々な痛みや喪失を通らなければなりませんが、そこであなた様を仰ぐときに、何にも勝る慰めと深い交わりとを味わい知り、謙って、主の民として整えて戴けますように。この教会が、そのようなあなた様の御業の証しとなりますように」
流石の父イスラエルでさえ、「10ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」と窘めずにはおれなかったほどです。
ミデヤン人とイシュマエル人は同一です。東部からの行商をイシュマエル人と呼んでいたのだろうと思われます。しかし、両者を別とする新共同訳は、文書資料仮説に偏ってしまっています。
主が求められる、最も大切なものをささげる、つまり自分自身を捧げる、という信仰とは真逆で、十人の兄たちの気持ちを逆撫でしていることにも気付かないぐらい、ヨセフをちやほやし、甘やかしています。
アダムが楽園を追い出されて経験した最初の人類の死という現実でした。アダムの子は、一気に兄弟殺しになった、ということに、神から離れた人間の罪が端的に表れたのです。ヨセフの兄たちは、血縁の弟を殺してはいけない、と綺麗事を言いますが、直接手を下さなくても、売り飛ばして亡き者にしてしまおうとしたのですから、こういうのは「抹殺」と言うのです。
雄山羊は殺される。ヨセフの代わりに… イサクの代わりのように(二二13)。しかし、それを思うと、アブラハムの信仰と、ヤコブのそれとは何と違うことでしょうか。ひとり子を捧げたアブラハムと、孫ヤコブが子どもも妻たちも偏愛し、ヨセフだけを特別扱いするのです。そして、35節の言葉を聞いて、兄弟たちがどれほど傷つき、怒るかを思いやることも出来ない。
15節の出会いは何だろう。この出会いが偶然にもなければ、ヨセフが兄たちのいる場所を知ることも、その後の展開もなく、ヨセフは帰るしかなかったのではないか。であれば、この出会いもまた、摂理的なものと理解しなければならない。
創世記は全部で五〇章ありますが、その最後の三七章以下の部分は、主にヨセフを中心に語られます。これだけを読んでも十分な読(よ)み応(ごた)えがある、波瀾万丈(はらんばんじょう)の話です。この後、ヨセフはエジプトで奴隷となり、無実の罪で囚人にまで身を落とし、そこから一三年後、エジプト王ファラオの夢を解き明かしたことで一挙に大臣の身に上り詰めます。その後、兄たちと思いがけず再会をし…と話は続きますが、今日は初めの三七章に注目しましょう。
ヨセフは、十二人兄弟の十一番目でした。他にも姉たちがいたらしいことは、35節に、父ヤコブのもとに「彼の息子たち、娘たちが」とあることから窺えます。いずれにしても、父は他の兄たち姉たちを差し置いて、ヨセフを溺愛(できあい)していました。実は、ヤコブは成り行きで、妻が四人いたのですが、その中でも一番可愛がった妻ラケルとの間に、やっと授かったのがヨセフだったのです。すでに亡くなっていたラケルの面影を重ねつつ、イスラエルはヨセフを溺愛(できあい)し、彼には仕事をさせず、あからさまに依怙贔屓(えこひいき)していました。
「 3イスラエル[ヤコブのこと]は、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。」
そんな父を見て、他の兄たちは平気でいられたはずがありませんでした。
「 4彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。」
父の寵愛を一身に受けるヨセフに対する兄たちの燻った憎しみの火を煽り立てたのは、他ならぬヨセフ自身でした。甘やかされたヨセフは、世間知らずのお坊ちゃんでした。世界は自分を中心に回っていると思って生きていました。5節から11節には、ヨセフが二つの夢を見たエピソードが出てきます。兄たちの麦の束が、ヨセフの麦束にお辞儀をしたとか、太陽と月と一一の星が、自分を伏し拝んだ、とか。これはこれで、後のヨセフの紆余曲折を経ての生涯に成就することになるのですが、それはまだまだ先のこと。今は、こんな夢を見たなどと言えば、顰蹙(ひんしゅく)を買うのは当然です 。兄たちの気持ちを逆撫(さかな)でする発言を、屈託(くったく)もなくベラベラとしゃべるくらい、非常識な、世間知らずなヨセフでした。
ある日、兄たちがシェケムの地に羊を連れて行ったまま帰って来ないために、イスラエルはヨセフを使いに出します。ヨセフは、例の溺愛のしるしの長服を着て、出かけていきます。シェケムについたものの、兄たちはいませんでしたが、たまたま通りかかった人に聞いたところ、更に北のドタンに行ったと教えてくれましたので、ヨセフは更にドタンまで行きます。飛んで火に入る夏の虫、でした。兄たちは遠くからでも長服のお坊ちゃんを見分けて、ヨセフに対する殺意を燃やします。長男ルベンが、殺すことはない、と制して、身ぐるみはがして穴に投げ込んで懲らしめるだけにしますが、通りかかったイシュマエル人(またはミデヤン人)に奴隷として売り飛ばして小遣いを稼ぐことにしたのでした 。こうして、父に溺愛され、晴れ着を着て仕事もせずに遊び回っていたヨセフは、一瞬にして銀二十枚で買い叩かれて、エジプトに売られて行く奴隷となったのです。
さて、こんな滅茶苦茶な始まりをもたらしたのは何だったのでしょうか。ヨセフが生意気だったから、でもあり、兄たちが憎しみ、妬みに駆られたから、とも言えるでしょう。父イスラエルがヨセフ一人を溺愛したことも原因でした。そして、イスラエル自身、父イサクを騙し、兄エサウを出し抜いて、祝福を奪い取った過去がありました。その竹篦(しっぺ)返しを息子たちから食らった、とも言われます。
またここには、創世記のこれまでを思わせるいくつもの主題が重なっています。創世記二二章では、アブラハムの信仰のクライマックスとして、愛するひとり子イサクを主に捧げたのですが、それとは正反対に、イスラエルはヨセフを溺愛しています 。また、兄たちの妬みが殺意に転じたのは、創世記四章のカインとアベルの記事、兄弟殺しを思い出させます 。そして、その胡麻(ごま)菓子(かし)のために雄山羊を身代わりにしたのは、イスラエルが父イサクを騙すために雄山羊の皮を使ったのにも似ていますし 、そもそも、エデンの園で契約を破ったアダムとエバが、隠そう、胡麻化そうとした姿そのものではないでしょうか。
しかし、もう一つ、ここで気付くことがありませんか。聖書なのに、聖書らしからぬ、という大きな点に気付きませんか。ここには、神様が一度も出てきません。主という言葉も最後まで出てきません。ヤコブの口からも、ヨセフの口からも。勿論、そういう章は他にもたくさんあります。しかし、続きとなる三九章には、主がヨセフとともにおられた、と7回も出て来るのです。やはり、そのギャップは意味深長でしょう。晩年のイスラエルは家畜を沢山飼い、子宝にも恵まれ、可愛いヨセフと幸せに過ごしているように見えました。しかし、一皮むけば、依怙贔屓であり、兄弟たちは憎しみを押さえきれず、一触即発の状態でした。何より、神を呼ぶことを忘れていたイスラエルとその子たちだったのです。 そんな、内実を欠いた家庭が、迎えるべくして迎えてしまった悲劇が、この出来事です。それは慰められることも拒むほどの悲しみでした。衝動的に憎き弟ヨセフを片付けて、溜飲(りゅういん)を下げた兄たちの笑いが止まらなかったのも一瞬のことでした。どこかに行っていた長兄ルベンが戻ってきて、ヨセフのいないのに気づき、着物を引き裂いて慌(あわ)てるのを見て、兄たちも策(さく)を講(こう)じなければならないことに気づきました。そして、雄山羊を屠(ほふ)ってその血に長服を浸し、父のところに持って行きます。事故死、と見せかけたかったのでしょう。冷や汗を隠して、素知らぬふりで、真っ青な顔を演じます。
「33父はそれを調べて、言った。「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ殺されたのだ。」
34ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。
35彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。」
兄息子たちは、自分たちのしでかしたことが父を予想以上に苦しめ、慰めようがない事実に直面します。それでもどうしようもない。今更、実はヨセフは奴隷に売っただけで、などとは口が裂けても言う勇気はない。彼らは、その後ろめたさを抱えたまま、その後二十年以上を引きずることになってしまいます。こんな悲しみを父に与えるつもりではなかったと悔やみつつも、今更事実を白状することも出来ませんでした。そして、こうなってもまだ彼らは、主の御名を呼び求めもせず、主に助けを求めることもしません。
ヤコブ家族の様々な問題-父の依怙贔屓、兄弟間の無神経と憎悪がありました。そして、あの通りすがりの人との出会いという偶然が、暴力的な不幸をもたらすこともある、というのもどうしようもない現実です 。ヤコブ家族が神の御名を呼ばず、神の前に生きることを忘れているという根本的な問題がさりげなく語られています。けれども、実に、これがイスラエル家族の再出発の始まりとされたのです。この取り返しのつかない現実にも主は働いておられ、不思議なご計画を始めておられたのです。あのヨセフの夢の実現へと、遠回りしながらも大きく踏み出していたのです。人間の目には、喪失、暴力、悲惨としか見えないことも、主はご計画のためにお用いになって、人間の理解や予想を遙かに超えた将来を用意してくださいます。それは、ここに表れているヤコブと息子たちそれぞれの罪(不信仰な現実)を取り扱って、暴かれて、砕いて新しくなさるご計画でした。自分の罪の結果を容赦なく突きつけつつ、悔い改めさせ、謙らせ、主の御名を呼び求めさせて下さる、そこにこそ主のお取り扱いがあるのだとヨセフ物語は教えています。それが、私たち、主の民にとっての真の益、恵み、祝福のご計画なのです。
何にもならないとは分かっていても、人生の挫折や暴力や悲劇を、悔やんだり人を恨んだりして振り返らずにはおれないかもしれません。自分の後ろめたさが苦しくて何かを犠牲にしたとしても、埋め合わせられたらと思ったりもするでしょう。しかし、神の子羊と呼ばれる主イエス・キリストご自身が、十字架の犠牲を払って下さいました。私たちの罪を隠すためではなく、そこに私たちのあらゆる恥ずべき、憎むべき罪が告白され、悔い改められ、赦され、清められるために、十字架で主の血が流されました。過去の罪も、握りしめている罪も、思い上がりも、秘めている罪も、すべては主イエスの十字架によって、きよめていただくのです。そして、主は取り返しのつかない現実から、ひとりひとりを取り扱いつつ、新しく、確かなことを始めておられます。そうしてくださる主を知ることによって、私たちは後ろを振り返ることから、前を向いて、歩み出すことが出来るのです。
人生が様々なものを失い、思うままにならない、という現実は変わりません。ヨブが言ったとおり、私たちは裸で母の胎を出て、また裸で死ぬのです。人生は厳しく、困難です。色々なものを失ったり手放させられたりの地上です。けれども、その困難を通して主が私たちを変えて、神様の御真実な栄光を拝させてくださるのです。主が私たちを愛する故に、厳しいけれども御真実なご計画をもって取り扱い、新しくして下さる御心を、謙虚に受け入れ、委ねたいと思います。そして、私たちが苦しむ以上に、主イエスご自身が先立って苦しみ、痛み、いのちを捨てて下さった、尊い十字架の苦難を絶えず仰ぎたいと思います。その御愛を繰り返し噛みしめながら、主の時の中で変えていただきたいと願います。
「世界の創造主である神様。あなた様の人間に対する尊いご計画、私たちとの聖なる交わりの完成という目的は、今も変わることなく、御子イエス・キリストの十字架と復活の御業を通して成し遂げられます。また、聖霊が私共一人一人に、この救いを届けてくださることによって、始まっており、果たされていくことを信じます。私共の隠れた思いが取り扱われるために、私共は様々な痛みや喪失を通らなければなりませんが、そこであなた様を仰ぐときに、何にも勝る慰めと深い交わりとを味わい知り、謙って、主の民として整えて戴けますように。この教会が、そのようなあなた様の御業の証しとなりますように」
流石の父イスラエルでさえ、「10ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」と窘めずにはおれなかったほどです。
ミデヤン人とイシュマエル人は同一です。東部からの行商をイシュマエル人と呼んでいたのだろうと思われます。しかし、両者を別とする新共同訳は、文書資料仮説に偏ってしまっています。
主が求められる、最も大切なものをささげる、つまり自分自身を捧げる、という信仰とは真逆で、十人の兄たちの気持ちを逆撫でしていることにも気付かないぐらい、ヨセフをちやほやし、甘やかしています。
アダムが楽園を追い出されて経験した最初の人類の死という現実でした。アダムの子は、一気に兄弟殺しになった、ということに、神から離れた人間の罪が端的に表れたのです。ヨセフの兄たちは、血縁の弟を殺してはいけない、と綺麗事を言いますが、直接手を下さなくても、売り飛ばして亡き者にしてしまおうとしたのですから、こういうのは「抹殺」と言うのです。
雄山羊は殺される。ヨセフの代わりに… イサクの代わりのように(二二13)。しかし、それを思うと、アブラハムの信仰と、ヤコブのそれとは何と違うことでしょうか。ひとり子を捧げたアブラハムと、孫ヤコブが子どもも妻たちも偏愛し、ヨセフだけを特別扱いするのです。そして、35節の言葉を聞いて、兄弟たちがどれほど傷つき、怒るかを思いやることも出来ない。
15節の出会いは何だろう。この出会いが偶然にもなければ、ヨセフが兄たちのいる場所を知ることも、その後の展開もなく、ヨセフは帰るしかなかったのではないか。であれば、この出会いもまた、摂理的なものと理解しなければならない。
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