聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問106「人生に勇気を」ヤコブ書1章12~16節

2016-03-06 19:59:20 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/02/28 ウ小教理問答106「人生に勇気を」ヤコブ書1章12~16節

 

 主の祈りの六つある願いの最後です。私たちは、「試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈る時、どんな「試み」や「悪」を考えているでしょうか。

問106 第六の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。

答 第六の祈願、すなわち「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」で私たちは、罪を犯す誘惑から神が私たちを守ってくださるように、また、もし誘惑された場合には、私たちを支え、助け出してくださるように、と祈ります。

 ここでは「罪を犯す誘惑」と言っています。先に第五の祈願では

「私たちの罪(負い目)をお赦しください」

と言いましたが、私たちは、赦して戴いてもまた罪を犯しかねない者です。自分が、臆病で躓きやすい者であると告白して、どうか守ってくださいと祈るのです。「試み」と言うと、何となく、苦しみとか辛いこと、というばかりを私たちは想像しやすいかもしれません。けれども、反対に、お金持ちや人気者になる、人からチヤホヤされたり、成功者の立場に立つ事も、苦しみ以上に大きな誘惑になります。

「悪への道は緩やかなカーブである」

とか

「地獄への道は善意で舗装されている」

という言葉があります。大スターになって、お金も人気も絶頂になって、そういう所で、少しずつ、悪い遊びやお金の使いすぎが始まって行って、気がついたら、人生を台無しにする、という事は、悲しいことによく聞く話です。ただ「苦しい目ではなくて、自分の願いを叶えてください、禍や自分にとって最悪な思いはさせないでください」という願いなら、そういう考え自体から、私たちは救い出される必要がありますね。勿論、私たちは、病気や失敗や災害や犯罪から守られる必要もある弱い者です。そういう自分の弱さ、守って戴く他ない危うさ、小さく、間違いやすい者である、という自覚をもって、この祈りを捧げていきたいと思うのですね。

詩篇一一九71苦しみに会ったことは、 私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。

 神は、私たちを愛しておられます。私たちが罪を犯しやすく、誘惑に会えば、すぐに間違いかねない欲望や妄想を持っているし、自分では自覚がなくて、自分は大丈夫だと自惚れて、人を見下しやすいこともご存じです。だから、私たちを苦しみに遭わせ、それによって、私たちが神に頼ることを学ぶようにと御配慮くださるのです。

 しかし、先にヤコブ書を読んだ時の言葉も忘れてはなりません。

12試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

13だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

 神が誘惑されるのではない。この「試練」と「誘惑」とは、実は元のギリシャ語では同じ言葉なのですね。ですから、「試練」は絶えるならば幸いだし、耐えていのちの冠を受けるようにと与えられるのに、その誘いに逆に乗っかっちゃったら、「誘惑」となってしまう面もあるのですね。でも、それを「神がこんな誘惑をされたから」と言い訳をしてはならないのです。「試みに会わせないで」とは、「試みに会わせるのは神様だ」と、まるで神が意地悪であるかのように捕らえないようにしましょう。むしろ、苦しくなれば文句を言い、甘い囁きにはコロッと騙されてしまう、本当に間違いやすい自分の弱さを神様が憐れんで、試みに会わせないでください、悪から救ってくださいという祈りです。天の父は、私たちを試みる意地悪なお方なんかではありません。私たちを、試みに会わせず、悪から守ってくださるお方なのです。

 その天の父への信頼の中で、私たちは、勇気をもって生きることができます。私たちの弱さ、失敗しやすさを、私たちより先にご存じの神が、私たちを苦しみから守り、悪から必ず救い出してくださる、と信じて、勇気を与えられて生きてゆけるのです。そして、悪から救い出したいからこそ、私たちに試練も与えられることもあるのです。ぬるま湯や現状維持という試みは、最も大きな誘惑の一つです。「確かさ」や『「繁栄」という名の偶像』は、実に強力です。だから、必要ならば、それを壊して、そこから救い出してください。悪からお救いください、と神に祈るのです。そして、神は、私たちを何としてでも悪から救い出してくださる「天の父」です。イエス・キリストはそのために、この世に来て、すべての試みを味わった上で、悪魔に打ち勝ってくださったのです。

 因みに、この「悪」とは先に言ったように、自分にとっての「最悪な状況」とか「嫌なこと」では勿論ありませんし、それ以上に「悪魔」と訳すべきとされます。つまり、私たちを滅ぼそう、悪い方に引き込もう、騙して間違わせようという人格的な存在が働いているのですね。悪意の塊、邪なサタンが、私たちを神から引き離そうと、あの手この手で、そこら中で待ち構えているのです。ともすると、「一寸ぐらい悪もいいじゃない」とのんきに油断してしまいがちですが、それ自体が悪魔の罠の手口です。とても太刀打ちできないような悪の企みが私たちの周りに張り巡らされている。その悪の力から、私たちを救ってくださいと祈るよう、イエスは教えてくださいました。私たちを、どうにかしてでも、悪魔から救ってくださいと祈る大切さに気づかせてくださった。私たちには何が悪で、何が悪でないか分からないとしても、天の父が、何が善で何が悪か、悪魔が考えている悪巧みの全てから、強いてでも私たちを守って救い出してくださいますように。この祈りもまた、私たちを悪から救い出されるイエスの下さった「命綱」です。

 最後の部分で

「また、もし誘惑された場合には、私たちを支え、助け出してくださるように、と祈ります。」

とあります。これも慰めですね。サタンは、私たちに誘惑をしかけて、「一寸ぐらい大丈夫、みんなやっているから平気だ」と言いながら、やってしまった後は、掌を返すように「お前はもうダメだ、こんな事をして赦されやしない」と絶望を吹き込むのです。しかし福音とは、そのような絶望や間違いからも救い出してくれるものです。私たちの天の父は、私たちが悔い改めて帰って来るのを待っておられます。何度失敗しても、私たちを支え、助け出してくださるお方です。この祈りは自信家を謙虚にするとともに、項垂れている者には希望を与えてくれる宝物です。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ルカ二四章50~53節「祝福さ... | トップ | 問107「すべては神からのもの... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ウェストミンスター小教理問答講解」カテゴリの最新記事