聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マタイ28章1-10、16-20節「イースターの大喜び」復活主日説教

2017-04-16 15:35:50 | 聖書

2017/4/16 マタイ28章1-10、16-20節「イースターの大喜び」復活主日説教

 主イエスは十字架の死からよみがえられました。これは、教会が宣教する福音の柱です。キリストの死と復活こそ、教会の土台です。それを信じて洗礼を受け、キリスト者となるのです。しかし、誰も「自分はもう福音が分かった」と言える信仰者はいません。キリスト者は、繰り返し繰り返して、十字架に死によみがえられたイエスのことを聴き続けて、驚き続けるのです。

1.よみがえったではなく、よみがえらされた

 イエスはよみがえられました。十字架に殺された金曜日から数えて三日目の日曜の朝、女達がイエスの墓に行って御体に香料を塗ろうとした所、大きな地震があったと2節にあります。

 2すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。

 3その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。

 劇的な光景です。4節で、番兵達が恐ろしさのあまり震え上がって死人のようになったとあるぐらいの衝撃的な場面ですね。イエスの復活を再現しようとしたら、ここは見せ所かもしれません。しかし、そのような圧倒的な場面が強調されるかと思いきや、肝心のイエス御自身はここでは現れません。御使いは女たちにイエスがここにはおられないこと、よみがえられたこと、弟子たちにイエスは先にガリラヤに行っていると伝えるよう言うのです。イエス御自身が、栄光や勝利のお姿で出て来るわけではありません。その言葉を信じて女達が走って戻ると、途中でイエスが出会ってくださるのですが、そこにも神の子らしい特別さはありませんでした[1]

 イエスはよみがえられました。でもそれは、イエスが神の子だから死にも負けずに三日目に復活され、墓の中からご自分で出てこられた、という書き方ではないのです。「よみがえられた」も、受動態の

「よみがえらされた」

で、ご自分の力で復活したと言うより、神がイエスをよみがえらせてくださった、という言い回しです[2]。勿論、イエスは神の子であり、死に勝利する命を持っておられます。しかし同時に、イエスは完全に人となられました。私たちと同じ人間となられ、神の子としての力や特権に逃げることなく、またそう誘いかけるサタンの挑発にも最後まで乗らず、徹底的に人として生きました。そして十字架で死なれました。その三日目の復活も、神の子イエスだから死にも負けずによみがえられた、ではなく、人として死なれたイエスを、天の父なる神がよみがえらせなさった、そういうメッセージです。その時、御使いが墓の入口の石を転がして、大きな地震が起きました。でもイエスがなさったのではありませんでした。御使いの力も借りずに墓から出るより、石を動かしたのは御使いであり、イエスの力や存在は地震を引き起こしたり、輝きで圧倒したりするようなものではなかったのです。

2.イエスの「権威」とは

18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

 そう、イエスには権威があります。嵐を静め、病を癒やし、奇蹟を行われました。墓の石を動かしたり吹き飛ばしたりパンに変えることだって出来たでしょう。しかし、そういう奇蹟の力は、本当に人を変え、人を生かすことが出来ないこともイエスの生涯は証明したのです。事実ここでも、御使いを目で見て震え上がった番兵さえ、11節から15節にある通り、多額の金に目が眩んで、捏(でつ)ち上げの作り話に口裏を合わせました。どんな圧倒的な奇蹟や感動や興奮も、人の心を根本から造り変えることは出来ません。

 イエスは、天地で最高の権威をお持ちです。しかし、それを見せつけて脅迫したり脅したりして人を操作しようとはなさいませんでした。むしろ、イエスは御自身を与え、徹底的に人として歩まれました。人間としての限界や痛み、もどかしさ、悲しみや苦しみを担われました。失敗や間違いを犯す、実に人間くさい弟子達を愛され、ともにおられました。神に立ち帰り、謙って、赦し合い、憐れみ深くなり、仕え合う、神の子どもとして生きる道を示されました。力尽くや見せかけなしに、真実に、愛をもって、父なる神への信頼をもって生き抜かれました。そのような生き方は人々にとって余りにも斬新で、抵抗されました。抵抗され、十字架につけられてしまいました。しかし、その十字架でもイエスは御自身を与え続け、父なる神への心からの信頼をもって、人として死なれたのです。

 それは弟子達にとって本当に驚きでした。イエスが死なれて悲しかっただけではありません。愛や正義を説きながらも、いよいよという時には雷を降らせたり御使いを呼び寄せたりして、敵を蹴散らす-それなら人間にはまだ分かります。イエスが奇跡的な力や権威を持ちながら、最後でさえその「伝家の宝刀」を抜かず、死なれたお姿は理解を超えていました。人の思い描くイメージを全く覆して、力よりも愛に生き抜かれたイエスでした。それは、人間的には失敗者の人生でした。十字架の死などと言う最悪の、のろわしい死に方でした。しかし、そのイエスを神はよみがえらせなさいました。その負け犬のような生き方が、実はメシヤの道でした。

3.このイエスの弟子として

 復活なさったイエスは、弟子たちに現れ、こう言われました。

19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 「あらゆる国の人々」とあります。ユダヤ人からすれば、とんでもないことでした[3]。自分たちだけが選民イスラエルである。他の国の人々は呪われて、救われる価値がない人だ、と決めつけていました。その人々の所に行き、割礼や何かの条件を満たすこともないまま同じように弟子とする、洗礼(バプテスマ)を授けて同じ仲間にする、なんて考えたこともなかったはずです。でもイエスは仰ったのです。あらゆる国の人々の所に行きなさい。その人々にわたしが命じた教えを守るよう教えなさい。神に立ち返り、神のものとして生きる道、神に信頼して、希望をもって祈る道、非暴力の道、分け隔て無く人と接し、罪人や子ども、最も小さい者を迎え入れて生きる道を教えなさい、と派遣されました。

 それは余りにも楽観的すぎて、世間知らずか革命に思えます。しかしそれこそ命であり、勝利であり、神が最後には認めてくださるのです。イエスの復活は、その敗北のような生涯を、神は顧みておられ、永遠の価値を認められるという証拠です。イエスは徹底的に人として生きられ、命に至る道を歩まれました。どんな民族、どんな過去がある人とも分け隔て無くされました。御自身が、プライドとか賞賛とかなしに人を迎え入れました。神を信頼し、力に力で抵抗しようとせず、罪人の赦しと回復を宣言され、常識をひっくり返して死なれました。このイエスを、父なる神はよみがえらせることで、イエスに天地における最高の権威が与えられたことを宣言なさいました。

 大事なのはイエスを私たちの救い主だと信じるだけではありません。イエスは私たちに、命を与えたいのです。ただ

「イエスを救い主だと信じれば、イエスが復活されたという事実を受け入れれば、死後に永遠のいのちがもらえる」

というような意味ではありません。今、私たちが、神に愛されている者であることを知り、イエスの愛を知り、そうして私たちが、自分の弱さやどんな罪や、人種や文化の違い、暴力や犯罪がある中で、だからこそ、イエスが示された希望の生き方、ともに生きる生き方、非暴力の道、イエスが命じて下さった教えに従う、価値ある生き方を歩ませたいのです。私たちは弱く、18節のような疑う者です。でも20節でイエスがともにおられると言われます。イエスの復活は、私たちが今生きる道につながっています。

「イエスを復活させた主が、私たちにも命を下さることを感謝します。イエスを導かれた主が、私たちにもその道を歩ませようと願い、導かれることを感謝します。本当にイエスはよみがえられました。私たちの疑い、弱さ、誤解よりも大きく、事実、主は今も私たちとともにおられます。ここに命があります。その喜びと希望をもって、それぞれの生活に向かわせてください」



[1] ここには、女たちが御使いの言葉に素朴に従った時、思いもかけず主との出会いが用意されていた、というメッセージを聞き取ることが出来るでしょう。主の言葉に従って生きる時、私たちは予期せぬ出会いや恵みにしばしば驚かされるのです。それは決してささいなことではなく、かけがえのない喜びです。

[2] 参照、山﨑ランサム和彦氏のブログ「鏡を通して」の「復活の福音?」。特に、「復活と父なる神」の項に。 https://1co1312.wordpress.com/2015/04/06/%E5%BE%A9%E6%B4%BB%E3%81%AE%E7%A6%8F%E9%9F%B3/

[3] マタイの読者として意識されているのはユダヤ人です。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 問61「何をするかより大切な... | トップ | 問62-4「実を結ばないわけが... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

聖書」カテゴリの最新記事