聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記四章32~49節「心に留めなさい」

2015-01-06 09:08:29 | 申命記

2015/01/04 申命記四章32~49節「心に留めなさい」

 

 申命記四章のこの箇所は、三四章まで続きます申命記の最初の部分から、第二の段落に移っていく節目に当たります。モーセの説教の結びの勧めが、力強く語られています。ここでモーセは、これから約束の地に入ろうとするイスラエルの民に、彼らがこの四十年の間に経験してきた、出エジプトの出来事、シナイ山で契約を結んだ出来事を思い起こさせます。

32さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。

33あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。

34あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。

 こう畳みかけるように言ってから、その目的をこうモーセは言います。

35あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。

 主だけが神であって、他には神はない。それをあなたが知るために、ここまでの数々の御業があって、あなたがたが神の民とされたのだ。その目的に尽きる、と言うのです。

 ここでモーセの言葉を聞いている民の中には若者もいました。大半が、この四十年の間に生まれた者たちであって、直接、出エジプトやシナイ山での光景を目にしたわけではありません。ですから、直接奇跡や不思議な出来事を見たというより、イスラエルの民とは出エジプトの御業に与った民である、その民であるあなたがたに語る、とモーセは訴えているのです。

 それから三千五百年も後の私たちは、聖書の奇跡を読んでも、自分自身にはこういう奇跡的な体験はしたことがなくて、この時代にタイムトラベルでも出来ればいいのになぁ、と思ってしまったりするかも知れません。しかし、私たちもまた、この神の民に加えられて、聖書を与えられて、数々の奇跡や御業を、自分たちの歴史として共有しています。直接の目撃や体験をしていなくても、その記憶を継承して、その歴史の上に自分たちも今ここにあるのです。そして私たちにも、そうした神様の御業、摂理、導きが、

…主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るため…

という目的(ゴール)へと向かわせるものであることを覚えたいのです。新年礼拝という切り口で考えるなら、この一年に私たちにどんなことが起きようとも、それは、究極的には、主だけが神であって、他に神はないことを私たちが心から知るために通って行く出来事なのです。

 それは「主だけが神である」というアタマの中の知識だけの話ではありません。

39きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。

40きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。

 こう言い換えられるように、主を唯一の神とする、と信じることは、その主の掟と命令とを守り行うことに直結します。主を神だと言いながら、生活においてはその主の言葉を侮(あなど)っているなら、本当は、主が唯一の神ではなく、自分の方が神になっているのです。すべての事は、主だけが神であり、その神が私たちを幸せにしてくださると知って、その掟に従うため。人間が造った他の神は神ではないし、自分もまた、神ではないのだと知るため。そのために、主は様々な力強い御業を果たされて、私たちにご自身を現して、私たちが、この主との、他にはない交わりに生きるように導いてくださっているのだ、そう教えられるのです。

 繰り返しますが、私たちは、自分のために証拠を求めて、奇跡や特別な御業を求めてはなりません。すでにそれは起きた事であり、私たちはその中に生かされているのです。今も主は私たちに御業をなしておられる。そう信じる事が、主が神であるという告白に通じます。特別なこと、自分たちにとって手頃な御業や幸せを求めて、それがなければ信じることも服従も拒めるかのように考えるとしたら、まだ自分が神よりも上に立とうとしているのです。主はここで幸せを語っておられます。けれども、その本当の幸せに至るためには、まず私たちは試みられ、戦いや恐ろしい思いさえ通りながら、整えられる必要があるのです。

 41節以下の、三つの町を取りのけた事は、まさにそのことを物語っているのでしょう。

42以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。そのものはこれらの町の一つにのがれて、生き延びることができる。

 憎しみや計画的ではなくて隣人を死なせてしまった場合、加害者が逃れることの出来る町が設けられました。そこに住む限り、被害者の家族の復讐から守られて暮らす事が出来る、「逃れの町」の規定です。これから入る約束の地での生活に、この「逃れの町」は最優先課題の一つとして実行されるのですね。新しい生活に、こんな町を備えなければならない。誰かを死なせてしまうこともあるかもしれない。自分の愛する家族が被害者になって、加害者を殺したくなることが起きるかも知れない。そんな時の解決策が、加害者が「逃れの町」で再出発をするというギリギリの規定です。そんな複雑な事態も想定しておきなさい、と主は言われるのです。

 神様を礼拝して律法に従って生きていれば、決して悲劇や災難、不条理で人生の歯車が狂ったりはしない、などとは約束されません。イエス・キリストが十字架で贖いを果たしてくださったと信じても、こんな複雑な事件が降りかかることはあるのです。そこで信仰を投げ出してしまうのではなく、そんな歩みの中でなお、主の掟と命令とを守る。そうして、主が、主だけが神であり、他に神はいないという告白に生きていく。そういう生き方へと導かれるのが、贖い主なる主が語られる旅路です。私たちの思いや力、理解には限りがあります。私たちは神ではなく、ちっぽけな存在です。でも、その私たちを顧み、間違いや不条理に巻き込まれずにはおれないこの地上の歩みにも御業を現し、主を神として生きる人生を送るようにと、主が私たちに語りかけ、働きかけて、幸せを用意してくださっています。

 39…心に留めなさい」

と言われます。毎日の生活、ふとした時、何をしていても、唯一の神である主とその御言葉を心に留める。喜びの時もあれば、どうしようもない悲しみの時もある中、いつも主を見上げて、主の御手に委ねて、従う道は、主が必ず幸いに至らせてくださいます。

 

「あなた様だけが神であるとの告白を、私たちのすべての生活において、貫かせてください。いつも、あなた様の礼拝の民として生きる幸いをお恵みください。偉大な真の創造主が、私共を心にかけて、神ならぬものを恐れる過ちから救い出そうと、人生を導いておられます。その測り知れない慈しみをもって、私共を、取り分け苦しみの中にある方を、お支えください」

 

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