聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2013/1/6 民数記二二章「ろばの口を開いて」

2013-02-27 10:26:36 | 民数記
2013/1/6 民数記二二章「ろばの口を開いて」
ルカ伝一29-32 Ⅱペテロ書二15-19

 民数記の二二章から二四章まで、このバラムとバラクの話が続きます。どっちがバラムでどっちがバラクか、よく分からなくなることがありますが、今読みましたペテロの手紙のように、新約聖書にも三箇所、このバラムが引き合いに出されています 。旧約の中でも有名な、ずる賢い、主の敵です。
 しかし、今日の箇所を読むと、むしろバラムは、主に従おうとしているように見えます。最初は、主が、バラクの使いと一緒に行くことを禁じたので、
 「13…主は私をあなたがたといっしょに行かせようとはなさらないから。」」
と同行を断っています。二回目も、最初は、
「18…「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。」
と宣言しているのですね。それでも、神が20節で許可なさったので、出掛けたのです。ところが、そうして出掛けたら、22節で、
 「…神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。…」
ということになるのです。
 異邦人の呪術師とはいえ、ここまで誠実に答えている人物もなかなか珍しい、ということと、それなのに主が御自身で出立を許可しておきながら、バラムを殺そうとするとは一体どういうことか、よく分からなくなってしまうような戸惑いを覚えるのです。
 けれども、この民数記自体、三一章の8節や16節で、バラムの悪が罰せられるべきだと評価しているのです 。バラムの言葉が、バラムの誠実さを保証するわけではない。いいえ、そもそも人間の言葉も、私たちが何を言うかも、「口では何とでも言える」と言われる通りで、その内容を保証することにはなりません。
 また、この後、二三章二四章と続けて、バラクはバラムにイスラエルを呪わせようと再三するのですが、主はバラムに命じてイスラエルを祝福させられます。直接出てくるだけでも三章も掛けてこのエピソードは続きますし、このまま民数記の最後三六章まで、「モアブの草原」が舞台となる、大きな区分が続きます。そういう意味でも、この最初の長いエピソードは重要なのですが、そこでバラムがイスラエルを祝福します。けれどもそれも、バラムが正しいとか、信仰を持っていたということではなくて、イスラエルを呪おうとした、欲深いバラムを通してさえ、主なる神はイスラエルを祝福され、また御自身の御心がイスラエルを祝福することであると大々的に啓示された。そこにこそ、この部分の意味があるのですね。
 勿論、私たちはバラムの問題を通して教えられること、悔い改め、自己吟味するべきことは多々あるのですが、それと共に、これが主の民の外で起きた、という第一の意味を確り心に刻みたいのです。主は、主の民を祝福されるだけでなく、主の敵にも働いておられます。私たちを祝福される、また、私たちの心の底にまで働き、バラムのように言葉の裏に秘めた真意を問うてこられるお方であるとともに、私たちの敵、神を憎む者たちのうちにも働いておられ、その悪意を牽制し、益に変えてくださる。キリスト者の祝福を妨げるものに対しても、神は強く、御心をなしておられる。そのような力強い宣言であるのです。
 とはいえ、やはりバラムの罪が、教会の中に入っていると、ペテロやユダや黙示録が警告していることを考えると、敵対者や他人事、対岸のことと安心しているだけ、というのでも片手落ちとなるでしょう。バラムから学ぶべきこともまた、謙虚に学びたいと思います。それは、ロバの口が開いて暴露されているような愚かさ、だったのです。
 ロバが話す、というのは、まことに不思議な記事です。それだけで興味津々になって、ロバならぬ野次馬となって終わっている人も多いようです。私は勿論本当にこの時ロバが口を開いて話したのだと信じていますし、それが一番自然な読み方であるわけです。けれども問題は、ロバが話せるかどうか、という事ではないのです。バラムがロバよりも愚かになっている。ロバには御使いが見えたのに、だから進むべきではないと分かったのに、バラムがそれに気づかずに無理にでも行こうとする。今まで逆らったことのないロバが身を巡らしたのだから、何かあるに違いない、と思ってもよかったのに、そうは気づかずに、
 「29…おまえが私をばかにしたからだ。…」
という理由で、ロバを鞭打つのです。このことだけではないのですね。前夜も、その以前にも、神がバラムに現れて、行く事を許される、という特別な啓示を受けたのです。夕べのことだけでなく、主がバラムに言うべき事を告げる。また、それだけを語るかどうかも見ておられる。そういう約束に、逆らうことの出来ないという緊張と恐れがあって然るべきでした。そこでのロバの不可解な行動にも、何かあると気づけてよかったのです。しかし、それが出来なかった、と言うところにバラムの霊的な盲目さ、暗さが馬脚を現していたのです。
 バラクが何としてでもバラムを招き、イスラエルを呪わせたいと思ったぐらい、バラムは凄腕の呪術師だと思われていました。本当に神や霊と語り、呪うことが出来た魔術師というよりも、インチキや怪しげなことをして人々を誑かす者だったとしても、それは相当な策謀家でなければ出来なかったことです。バラクがバラムを何としてでも招きたいとしたための労力や出費は並大抵ではなかったでしょう。しかし、それほど頼みにされるような賢人バラムが、実は、ロバよりも愚かだった、という皮肉です 。そして、その目を塞(ふさ)ぎ、知恵を霞ませていたのは、彼の貪欲さだったのです。
 新約において、ペテロもユダも口を揃えて、バラムは利益を求めて何でもした、と非難します。「不義の報酬を愛したベオルの子バラム」と言われ、「利益のためにバラムの迷いに陥り」と言われるのです 。そして、バラムの行為は、他者に
「自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷なのです」
と言われるのですね。
 バラムは神々と語り、イスラエルの神の名が主であることにも通じていました。しかし、その心にあったのは、自分の利得、報酬を愛する貪りでした。パウロが言う通り、
 「むさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」
だとすると、バラムはどんなに敬虔そうな言葉を語り、もっともらしく主の言葉の通りに従いますと見得を切ったところで、その心の目は瞑っており、総身の知恵もたかが知れる他なかったのです。出掛けるときは、主が告げたことだけを語ろうと思い定めていたかもしれませんが、何歩も進まないうちに、もう彼の心はバラクからの報酬がどれだけになるかの算盤(そろばん)を弾(はじ)きはじめていて、早く前に進もうとばかり考えていたのではないでしょうか。
 そういうバラムをも、主は窘めつつ、怒りつつ、民を祝福するための器としてお用いになります。呪いを祝福に変えられます。でもそれは、言わば「外側から」の制御です。主に逆らう人がどんなに悪事を企んでも、その悪意を損ね(あるいは叶えることさえして)主は御心を成し遂げられます 。しかし、主が御自身の民に向かわれるときはそのようではありません。私たちの心に偶像や罪を秘めたまま、ただ外側で摂理的に働かれて万事を益としてくださる-そういうおつもりではありません。主は、私たちの心を取り扱われ、新しくしようとなさってくださる。これは、生易しいことでは決してありませんし、そのただ中にあっては、私たちはあらん限りの力を振り絞って抵抗しようとさえしてしまう事ですけれども、しかし、そのようにして、天の父が私たちを御自身の子として真摯に訓練してくださることは、測り知れない慰めに違いありません。御自身の民には、内側にも働いて、心を新しくしてくださる。したくないと願うことをもさせる、よりも、したいと願うように変えてくださる、それが御自身の民に対するお取り扱いであり、御心である。それは、バラムにはない、民に許された確信なのです。
 私たちの中にも、様々な形で、主ならぬものを愛し、頼り、すがろうとする偶像があります。それがないと、怒り、絶望し、自分を捧げてしまうものは偶像です。神が、これほど大いなるお方であるのに、まだ自分が中心となり、神への感謝よりも自分の損得を考えて突き進もうとしていることがないでしょうか。口先だけではしおらしくても、ロバならぬ何かが警告を発してくれているのに、自分の握り締めているものを突き進めようとしていることが、地上にある限りはあるものなのです。主がそれに気づかせて、本当に主にある喜びと自由をもって歩ませてくださることは感謝に堪えません。

「今、主の聖晩餐に与ります。私共の心を主によって真実に養ってください。エマオ途上で主がパンを取って祝福し裂いて弟子達に渡されたとき、弟子達の目が開けました 。私共の目も開いてください。十字架に証しされた祝福の道を、一心に進ませてください。主の細き御声を聞き分ける、よき心をも保って、あなた様だけに従い行かせてください」


文末脚注

1 Ⅱペテロ二章「15彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振舞いをはばんだのです。19 その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷なのです。」、ユダ11「ああ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。」、黙示録二14「しかし、あなた[ペルガモ教会]には少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。」
2 民数記三一8「彼ら[イスラエルの軍隊]はその殺した者たちのほかに、ミデヤンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバの五人のミデヤンの王たちを殺した。彼らはベオルの子バラムを剣で殺した。」、同16節「ああ、この女たちはバラムの事件のおり、ペオルの事件に関連してイスラエル人をそそのかして、主に対する不実を行わせた。それで神罰が主の会衆の上に下ったのだ。」 その他の旧約のバラム批判は、申命記二三4-5、ヨシュア記十三22。
3  「罪がもたらす大きな皮肉の一つは人間が人間以上に、つまり神のようになろうと努力するとき、人間以下になり下がってしまうということにあります。自分が自分の髪になり、自分の栄光と権力のために生きると、誰よりも獣のような残酷さを帯びた行動を生み出します。高慢は、あなたを人ではなく、人を食い物にする者にするのです。」(ティモシー・ケラー『偽りの神々 かなわない夢と唯一の希望』(廣橋麻子訳、いのちのことば社、2012年)160頁。ここでも、バラムにロバが語っていることは、バラムがロバと同列になっている、いいえ、ロバ以下になっている、という事実を語っているのです。
4 脚注1参照。
5 Ⅱペテロ書二19。
6 コロサイ書三5。
7 このような事例は聖書にも随所にあります。ですから、私たちは、誰かが「用いられ」ているからといって、それがその人の救いや信仰深さを保証すると考えてはなりません。例えば、申命記十三一-五、Ⅰサムエル記十九23-24、ヨハネ伝十一51-52、マルコ伝九38-39、使徒十九13-16など。
8 ルカ伝二四30-31。バラムの目が開けたのは、自分の非を(渋々ではあっても)認めたときでした。

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