聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2013/2/10 ローマ書八12-17「私たちが神の子どもであること」

2013-02-27 10:33:25 | ローマ書
2013/2/10 ローマ書八12-17「私たちが神の子どもであること」
イザヤ書六三7-19 詩篇七三篇

 ローマ書八章に入り、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してない、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださる。そのように力強い宣言を聞いてきました。そして今日また、力に満ちた慰めの言葉を聞いたのです。
 改めて繰り返しますが、ここでは命令や警告ではなく、事実と福音を告げています。
「12ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
13もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
 これもまた、私たちに「肉に従って生きてはなりませんぞ」と脅しているのではないのです。もし、とは言いますが、これは私たちの選択を迫っているのではなく、事実を述べています。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいない。もし肉に従って生きるなら、私たちは死んでいた。しかし、御霊によって生きる者とされて、からだの行いを殺す者、すなわち、肉に従って歩むのではない者とされたのだから、私たちは生きる。10節11節でも、私たちは生きている、生かされている。これが、福音によって与えられた事実であるのです。これが、14節の、
「14神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」
と繋がっていくのですが、続いて、
「15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」
と言われます。人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けた。奴隷は、従わなければ罰せられる、言う通りにしなければ怒りを買う、役に立たなくなれば捨てられる。そういう関係です。中には善いご主人もいるでしょうが、基本的には、奴隷というのは主人の御用や便利のために存在を許された手段に過ぎません。そこにある関係は、人格的な関係ではなく、条件的な関係です。そこには、気に食わなければ捨てられる、という恐怖があります。
 けれども、キリストが与えてくださったのは、神の子ども、という関係です 。そこにあるのは、御霊に従わなければ捨てられるとか、神様を喜ばせなければ怒らせてしまうという恐れは、一切ありません。また、神様は、その聖なるご性質のゆえに、罪に対しては怒られます(それも、激しく、厳しく、最終的には永遠に怒られます)が、決して私たちを恐怖によって支配しよう、怒りや「見捨てられ不安」といったもので動機づけようとはなさいません。むしろ、そうした動機付けではなく、神の子どもとされて、永遠に、何があっても切れることのない親しい関係の中に入れられたことを知らせたい。そして、恐れや不安、何かしなければ見捨てられるという動機付けから解放されていくことを願っておられます。
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」
と言われる通りです。私たちは、恐れではなく、また自分のしたことによって左右されるような思いではなく、愛によって、また神様の主権的で一方的に注がれた愛に動機づけられて、自分というものを(また、すべての周囲の人を)考えていくのです。
 自分の肉で頑張って生きようとする、というのでなく、神の御霊が私たちを導かれる。それは、私たちは神の子どもである、と言い換えられる事実があります。更にパウロは、「子としてくださる御霊」にかけて、「私たちは[その]御霊によって、「アバ、父」と呼びます」と付け加えます。この「アバ」という言葉は、よく説明される通り、言葉をようやく話せるようになった赤ちゃんが、父親を「アッバ、アッバ」と呼ぶ親しい呼びかけです。大きくなって人前でうっかりお父さんを「アバ」と呼んだら恥ずかしいとされるような、限りない親しみの籠もった言い方。そういう言葉で、神様を呼ぶことが出来る。勿論、「そんなに気安く呼んだら窘(たしな)められるのではないか」と恐れる必要は全くない。恐れ多いことですが、本当にそれほど親しい関係を与えられているのです。
 ところで、この「「アバ、父」と呼びます」とあるのは、「叫ぶ」という言葉です。そして、榊原康夫先生の注解によると、神に向かって使われるのは三回だけだそうで、いずれも生死の瀬戸際のような、必死の状況下での叫びです 。叫ぶ、ということ自体がそうですが、御霊によって「アバ、父」と叫ぶ、という言葉遣いは、私たちが静かに、親しみや信頼を込めて呼ぶ、その状況が、生死の境目、「死の影の谷」を行くような状況であるとしても、とのニュアンスを伝えています。のんびり、長閑(のどか)に「お父さん」とベタベタするのでなく、もっと厳しい、嵐のような状況下でも、神への深い信頼をもって、父よ、と呼ぶのです。「こんな厳しい目に遭わせて、神なんて信じられない」と恨(うら)みを零(こぼ)すのではないのです。悲しみや痛みに翻弄されながらも、なお神の子として、父なる神の愛を信頼して、神に「アバ、父」と叫ぶのです。(これが、この八35以下に具体化されるのです。)
「16私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」
 これは、15節の続きです。子としてくださる御霊、この方にあって「アバ、父」と呼ばせてくださる御霊、その御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださる、という繋がりです。つまり、御霊が私たちが神の子どもであることを証ししてくださるとは、15節で言っていた、私たちが御霊によって、「アバ、父」と叫ぶようにされている事実のことなのです。カルヴァンを引用する、榊原先生の解説をそのまま孫引きしてみましょう。
「わたしたちが神の子であるということ、また自分たちが本当に信者であるということがはっきり分かるのは、祈るときにおいてである。…祈りにおいて、「アバ、父よ」と叫ぶ祈りをしている事実が、まさに“私は神の子なんだなあ”ということを「あかしする」のである。だから、祈らないクリスチャンというのは、自分がクリスチャンであることをいつも確信し続けることができない、ということなのです 。」
 更に、17節では、「相続人」と言われます。
「17もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
 「神の相続人」とは、神を相続とする、ということです。詩篇七三篇でダビデが、
「25天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。
地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
26この身とこの心とは尽き果てましょう。
しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。」
という、あの相続です。そして神が私の相続、神が私のものとなってくださるために、私たちは今、キリストと苦難をともにしている。それによって、キリストと栄光をともにする将来が約束されているのですが、その「栄光」とは、神が私の相続となる、という「栄光」なのです。
 肉に従う生き方は、恐怖や不安を秘めている生き方です。神の愛は、そのような恐怖を取り除き、神の一方的な愛に安らいで、もう私たちが神の子であるという動かされない事実を約束してくれています。しかし、だからといって、私たちが、そこに甘んじて楽ばかりを求めたり、苦難を不服としたりする、というのではないのです。神が私の相続となってくださっていることだけで十分とし、恐怖があろうとも脅かされない。叫ぶような状況でも、神の、父としての御愛を信じて動かされない。そればかりか、キリストが苦難を負われることなしに栄光をお受けにならなかったように、私たちもまた、苦難を負うことにこそ、地上における神の子らの歩みがあることを心する。あるいは、私たちが神を相続させていただくためには、なお多くの苦しみを経て、私たち自身の思いをきよくされ、取り扱っていただく必要があると知っている。だから、苦しみそのものはその時は辛いわけですが、やはり恵みであるわけです。それによって、神が私の相続であることで十分と喜び、また、私たちも他の人と、恐れや律法による関係ではなく、本当に自由で、愛によって動かされる関係を築き上げていきたいと願うのです。

「恵みによって私共を救い、神の子、神の相続人としてくださった主が、恵みならざる一切のものから私共を救い出してください。アバ、父と呼ぶ祈りの中で成長させてくださり、苦難を通して精錬してください。そのすべてに、見えざる御霊の確かな手がある。ですから、私共もまた、他者を恵みによって愛する者と強いてでもならせてください」

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