聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2013/2/17 ローマ書八18-25「望みとうめきによって」

2013-02-27 10:35:10 | ローマ書
2013/2/17 ローマ書八18-25「望みとうめきによって」
イザヤ書六五12―25 詩篇九六篇

 前回の最後、17節に、
「…私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
とありました。今日の18節以下は、その解説です。訳されていませんが、18節、19節、20節、22節、24節のギリシャ語原文冒頭には、「ガル(なぜなら)」という接続詞があります。ずっと一続きのことを言っています。そして、特に、苦難を味わうことの絶えないこの人生に、パウロは、栄光や望み、うめき、という言葉をもって、私たちを慰め、力づけ、励まそう、奮い立たせようとしてくれるのです。
「18[なぜなら]今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」
 17節で、苦難をともにしている、栄光をともに受ける、と言っていました。しかし、ここでパウロは注意を促します。苦難と栄光は、どっこいどっこい、ではない。苦難と栄光が釣り合うというのでもない。将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べたら、今の時の苦しみは「取るに足りない」と言い切っているのです。
 「今の時」と「将来私たちに啓示されようとしている栄光」が対比されています。
「21被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」
と言われてもいます。23節では、
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
ともあります 。ですから、ここで言われているのは、全世界がやがて神の栄光によって新しくされ、罪や死の一切ないものとされ、神の栄光によって満たされるとき。私たちが復活して、からだごと完全に贖われて永遠のいのちをいただき、本当に罪のない「神の子ども」として現される時のことです。その時に現される栄光に比べたら、今の時の苦しみがどんなに多かろうと、重かろうと、取るに足りない、というのです 。
 「取るに足りない」とは、語源では「秤を動かす」という意味だそうです 。私たちのこの地上での苦難を秤のこちら側に積み上げる。ありったけを高く積み上げたとしても、向こう側に用意されている将来の栄光の方が圧倒的に重いので、秤はビクともしない。それが、「取るに足りない」という意味です。もともと「栄光」とは、ヘブル語の語源からして「重い」という意味なのですが、私たちがキリストとともに受ける永遠の栄光は「重い」のであって、ドッシリと構えているのです。
 しかし、パウロはこれを、被造物全体のことにまで話を押し広げて展開します。
「19被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。
20それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。」
 その「望み」とは何かというと、
「21被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」
という望みです 。そして、改めて22節で、
「22私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」
と言われるのです。つまり、今この世界に苦しみがある、「滅びの束縛」があって、呻いている。神様が造られたこの世界が、神様によって「虚無に」「服従させ」られている、そのこと自体に、この世界がこれでは終わらない、私たちの人生というものも、いろいろな苦しみがあるけれども、それが全てではない、将来の栄光、自由、望みというものの根拠がある、と言っているのですね 。
 パウロはここで、希望を語っています。望みという言葉が六回、そして、「首を長くして待つ」という意味の、ここにしか使われない「待ち望む(熱心に待つ)」という強い言葉を二度使います。24節では、
 「私たちは、この望みによって救われているのです。」
とまで言います。信仰によって救われる、と言うことは多いのですが、望みによって救われる、と言い切るのはここだけです 。とかく救いと言えば、イエス様の十字架や復活といった過去への信仰、また、そのみわざが今の私の救いである、という現在の信仰を考えがちですが、それはまた、将来に対する希望、やがて私たちのからだが贖われて、全世界が確かに新しくされる、という約束への強い希望でもあるのです。
 決してパウロは、今の苦しみ、人生の辛酸(しんさん)を嘗(な)めるということと縁の薄い生活を送っていたのではありません。ほぼ同時期に書かれたⅡコリント十一23以下には、パウロの苦難のリストというものがあります 。そこにある苦難の数々は、よくも生きておれたな、と言葉を失うほどです。また、そこでパウロは正直に、苦しみに遭った時に自分の心が折れそうになる弱さをも告白しています。決してパウロは、苦難を知らない青モヤシでもなければ、苦難をも跳ね返す鉄人でもありませんでした。いいえ、苦難を味わうばかりか、その重さから目を背けることもなかったからこそ、この地上では、自分だけではない、被造物全体が虚無に服して、呻いている、という洞察にまで至れたのではないでしょうか。自然界の営みだとか、厳しさだとか、苦しみの分だけ喜びもあるだとか、そんなこじつけでは間に合わないほどの苦難。今の世界とは根本的に違う、栄光の世界、解放されて自由になる世界がやがて訪れるという悲願の他に望みのない、そういう認識を持って、その上で、この世界の、あらゆる苦しみをも取るに足らずとする栄光が来る、と言い切っているのです。
 パウロが言っているのは、その世界丸ごとに対する神様の栄光の御計画です。私たちの今の歩みにおいても勿論、神様は深い恵みとあわれみをもって働いておられ、みわざをなしてくださるのですが、しかし、それがなくても、と言っていることも確り心に刻んでおきたいのです。確かに神様は、今に働いておられます。人の願いや思いを越えた不思議をなしてくださいます。人間が諦めてしまうようなことにも、解決以上の素晴らしい展開を見せてくださることもあります。けれども、ここでパウロは、それを約束するのではない。この地上の生涯が、苦しみ一色で終わったとしても、呻き悩んで終わる人生であったとしても、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、苦しみも取るに足らずという約束です。逆に言えば、地上でいくら素晴らしい思いをし、神様の奇蹟の経験を重ねたとしても、それらに勝るやがての栄光への、首を長くして待つ望みがなければ、そういう人生・信仰は勿体ない、ということです。
 18節の、私たちに啓示されようとしている栄光、という言葉は、正確には「私たちの中へ啓示されようとしている栄光」と訳せる言葉遣いをしています 。やがて、この世界という幕が上がって、神様の栄光が現されます。しかし、それを私たちは見物して、ナルホドと見るのではありません。その栄光が、私たちの中に入ってきて、私たちを新しくし、私たちを「神の子どもたち」として「現れ」さす(啓示する)のです(19節)。
「24…目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
25もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」
 私たちは見える保証を求めがちです。見えないものがどうして信じられるか、と思ってしまいます。しかし、パウロは、見えないからこそ望むのだと言います。それも、今の目の前の問題がきっと好転する、と信じる(思い込む)ことを勧めているのではなくて、それがどんな結果になろうとも、呻き、七転八倒するような展開になったとしても、その呻き、苦しみが「産みの苦しみ」となって私たちが神の子どもとして現れる将来へと備えさすのだ、と言うのです 。
 こんなに素晴らしい約束をいただいています。小手先の、上辺(うわべ)の恵みや奇蹟ではない、全世界と私たちへの御計画です。それを待ち望まなくて、うめく人生も厭い、地上的な幸いだけでよしとするなら、なんと勿体ないことでしょう。大きな、素晴らしい約束を待ち望み、世界の痛み、自分の罪を本当に嘆いて、呻いて、新しくされることを強く待ち望む、そういう信仰において成長させられたいと願います。

「いのちよりも大切なもの、という言葉を改めて我が身に当てはめます。尊い救いにあずかっている幸いを、あなた様のもとから自分の方へと引き寄せるばかりであったことを悔い改めます。一切に勝る豊かな祝福へと、一切を惜しまずに踏み出す信仰。待ち望み、忍耐し、呻き、やがての、神の子とされる栄光を受ける者として整えてください。」


文末脚注

1 「「御霊」という「最初の実を持っている」…「御霊」は、わたくしたちが終わりの日に「からだ」ごと丸ごと救われるということの「初穂」、保証なのです。」榊原、p.123
2 榊原、p.116
3 榊原、p.113
4 20節21節は一文。「被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、〈被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられるという望み〉があるからです。」
5 「ここで「虚無」と訳されております「むなしいもの」という言葉は、旧約聖書以来たびたび外国の異なる神々、偶像を表すのに使ってきた言葉であります(詩三一・六、四〇・四、行一四・一五)。ですから、ただ、科学的に言って自然界が本来備えているべきエネルギーを失っているという力不足だけではなくて、本来の造り主であり本来の支配者であられる神ではなくて、異なれる神々、本当の自然界の持ち主でも支配者でもない者が自然界を支配し、牛耳り、管理してしまっていて、それでさまざまな力不足が自然界に現実にある、ということを聖書は言おうとしているのだと思います。」榊原、p.118
6 似ているのは、テトス書三7でしょうか。「それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」
7 「Ⅱコリント十一23…私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。24ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、25むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。26幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、27労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。28このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。29だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおれましょうか。」
8 榊原、p.114
9 「しかし、今や、神はわれわれの救いを、その御ふところに固く抱くのをよみしたもうのであるから、この世にあって、あえぐこと、おしひしがれること、深く悲しむこと、うめくこと、さらに、苦悩によって半ば死んだ人のようになり、あるいは死に絶えたかと思われるようになることも、われわれにとって益があるのである。なぜなら、ここで、己れの救いを目に見える形においてつかもうとするものたちは、神の定めたもうた門衛であるところの希望を否認することによって、この救いの門を自ら閉じるからである。」カルヴァン、p.220

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